第八話
オレがまず最初にしたことは、両家の両親の承諾を得ることだった。
あいつの両親から攻略した。
師匠はあまり変化なく見えたが、どことなく不機嫌そうなまま、挙式当日まで過ごしていた。おばさんは「あら、まあ、良かったわ」と言うだけで、あとはいつも通りだった。
オレの両親に告げるときは、少しだけ緊張した。正直、あまり仲が良くない。
「えっ? 嫁に貰う? 婿に行くんじゃなくて?」
第一声、食いつく所が想像とかなり乖離していた。反対されなかったので、良しとする。
ただ、緘口令には渋る様子を見せたので、照れ隠しついでに「会社を潰す」と口走ってしまった。もちろん、本気じゃない。
駅前のマンションを現金即金で買った。次は、婚約指輪も必要だろうか。
同じく、駅前の宝飾品店を覗いていると、道場の弟弟子にあった。
確かこいつには、実の姉がいたはずだ。オレよりも、こういうものに詳しいかもしれない、と少しだけ期待したが「わからない」と言われた。まあ、仕方がない。中学生には難しい話だったか、と思いかけた時、意外な盲点をつかれた。
そうだよな、こいつの言うとおりだ。宝石なんかで釣れるわけがない。
オレとしたことが、常識にとらわれ過ぎていたようだ。オレは常識人だからな。
感謝と口止めを込めて、専門店のアイスを持たせて帰した。
よもや、オレの敵に回ることはあるまい。こいつは空気を読める男だ。
あいつのつまらん盆栽や囲碁の話に付き合えるおおらかさもある。多少、あいつに心酔している部分はあるが、最近、ガキの頃よりはマシになってきたように思う。
こいつが入門したての頃は、あいつを正義の味方だと信じていたところがあった。子供相手に現実を突き付け、夢や憧れを叩き潰すほど鬼ではなかったので、生温かく見守っていたら、数年で現実に気付いたようだ。
子供には総じてうけが悪かったのだが、オレの事を恐れず普通に懐いてくるので、かまってやったほうだと思う。
こいつの相手をするまで、オレは自分の家族がオレを嫌っているものだとばかり思っていた。
物心つく頃からオレの世話をしてくれたのは、隣家のおばさんであって母親ではなかったし、年の離れた兄貴にしても、ろくに口もきかないまま遠方に進学し、そのまま独立した。オレの中で家族と言えば、血縁者よりも隣の一家だった。
だが、子供にまとわりつかれて初めて知った。
相手をするのは結構疲れるが、隠しきれない素直な感情表現をする。
オレには、それが決定的に不足していた。
理解力も応用力も人並み以上にあったため、我儘を言ったり自己主張するということがきわめて少なかったのだ。
両親や兄貴が、オレを腫物のように扱うのは、面倒を見られなかったという負い目もあるかもしれないが、それ以上に、なにも言わないオレの心情を、はかりかねていたのだろう。それがわかってから、少しだけ歩み寄れるようになった。まだ、距離はあると思うが、なんとか家族らしく見える程度にまでは回復してきている。
次に、あいつの親友もどき兼、金魚のフンに連絡を取った。
この女は厄介だ。基本、あいつの味方なのだが、オレとは意見がまったく合わない。
もめ事を起こすあいつを止められず、オレを自由に呼び出すくせに、いざ、実力行使であいつをとめるとオレを睨みつける。文句があるのなら自分で止めればいいものを、他人に頼っておきながら不満を言うとは何事だ、と思うのだが、女相手に手を出すわけにもいかないので、腐れ縁のように時折、一方的な連絡だけを受け取る間柄だ。
オレの話を最後まで聞かず、電話は切られた。
これは想定済みだった。仕込んでおいた仕掛けが発動したのか、翌日、電話がかかってきた。
オレは基本、あいつの行動を制限したりはしない。ただ、助言をすることはあった。
あれは、小学校に入学したばかりの頃だ。
盆栽や囲碁の話ばかりをしていたあいつは、クラスの中で浮いた。
気落ちしていたので「盆栽と囲碁の話は、爺さんとオレ以外にはしないほうがいい」と言ったら、さすがのあいつも身にしみていたのか、珍しく素直に言うことを聞いた。
それは、ずっと守られてきている。
いつものように喜色満面で盆栽の話を始めたあいつに、言ったのだ。
「オレ達はもう大人になったんだから、ガキの頃とは違う。お前の女友達にも、そろそろ、お前の趣味を理解してもらう努力を始めたらどうだ?」と。
あいつは、その通りにしたらしい。
そしてあいつの親友もどきは、ほんとうに微細も、あいつの趣味に気付いていなかったようだ。それにはこっちも驚いた。
結婚式の準備は、ほぼ滞りなく進んでいった。
たまにその親友もどきが口出ししてきて煩かったが、概ね順調だったと言える。
「衣装はどうするの? 変なもの、選ばないでよね。え? あんたの衣装なんてどうでも良いわ、あの子の衣装よ。サイズがわからないから白無垢にした? ふーん、思っていたよりも無難な選択ね。いい、結婚式に対する女の子の願望、甘く見ていたら一生祟るわよ。うっさいっ! 年なんて関係ないのよ。結婚式の白無垢っていったら『これからはあなたの色に染まります』って意味を込めているから純白なのよ。綺麗なんでしょうねぇ、あの子の白無垢姿。あぁ、早く見てみたい」
脱線しかけてきたので、さっさと電話を切った。招待客の打ち合わせだったのに、こいつのだけはちっとも進まん。
そもそもあいつが、女の子というガラか。年もいきすぎだ。
オレの色に染まる?
そんなもの、染まるのならこの二十五年の間に染まっているだろう。あいつが何かに影響されるタマかよ。
オレに従順なあいつ?
考えるだけで気持ちが悪い。
うわっ、鳥肌たってきた。あり得なさすぎる。そして受け付けない。
女って、たまに変なこと平気で言うのな。少し考えれば、わかりそうなものなのに。
挙式当日、さすがに衣装を着せれば少しは気付くかと期待していたが、面白いくらい気付いていなかった。結局、プロポーズしたとも、本人の結婚式だとも言ったのに、何故かあいつの脳内では高砂に座るバイトだいう結論に落ち着いたようだ。本当に頭が悪い。
どこの世界に、新婦席に座るバイトがあるか。
多分、囲碁セットをちらつかせた時点で、思考回路がずれたんだろう。昔から、脳内配線がよくズレる女だから仕方がないと諦めた。
本人は、諦めが肝心とか言っているが、あれは物忘れが激しいの間違いだ。もしくは、自分に都合の悪いことは聞き流す、だ。
バイトだと思っている割に態度は全くなっておらず、結局散々な式になってしまった。
仕事を甘く見るな。楽して報酬がもらえると思うなよ。
というわけで、餌にした囲碁セットは半分だけしか渡さなかった。
文句を言いながらも渋々引き下がったところをみると、自分の行いを少しは悪いと思っているようだ。あの親友もどきにも言われたらしい。あの女、少しは使えるんだな。
あの親友もどきの女には、協力してやるかわりに、絶対に守れと条件をつけられた。
ひとつは、婚姻届を偽証せず、自筆の署名を書かせること。
ふたつめは、それを本人に提出させること。
それ以外にも、報酬としてブランドのバッグだの言われたが、それは問題じゃなかった。
自筆の署名、これは私文書偽造をする気はなかったので、なんとかする。というより、もう書かせた。
碁石を引き渡すために必要な書類、と言って、いくつもの紙に署名押印をさせた。
そんなもの、必要なわけがない。婚姻届に自筆の署名をさせるための罠だ。
婚姻届と似たような材質の紙を購入し、インクも届け書と似たような色で統一する。引き渡し証明書などと勝手に書類の文面を作り、何枚も書類のように連ねて手渡すと、オレの目の前でぶつくさ文句を言いながらも署名押印を繰り返す。
お前な、少しは内容を確認しろよ。
思わず、そう言いそうになった。そのくらい、ただ、自分の名前を書いていただけだった。
打ち合わせ通り、家を出されたあいつを迎えに行くと、軒先で茫然としていた。
オレの家に来れば? と誘ったら、頷いてのこのことついてきた。
そうして新生活は始まったのだが、どうも実家にいるときと変わりがない。
まあ、本人に自覚がないので仕方がないのだが、風呂上がり、下着姿のままウロウロするのは勘弁してほしかった。
見慣れているのは見慣れているが、二人きりの状況と、親がいる状況ではなにか違う。
目下、どうやって本人に婚姻届を出しに行かせるか、と考えていた頃、爺さんが死んだ。
慌てて二人、実家に駆けつけると、棺桶で眠った爺さんが待っていた。
記憶に残る少し笑ったような顔で、安らかな死に顔だと思った。
あいつは、爺さんの棺桶の傍で、ずっとぼーっと座っていた。
葬式の段取りというものは結構大変で、両親も兄貴も忙しく動いていた。オレも雑用をしきっていた。あいつは、変に働かせるといつも余計な騒ぎを起こすので、爺さんに見てもらっているほうが安心だった。爺さんには、死んでまでも迷惑かけてすまないな、と思うが、これも現実の平穏のためだ。一肌脱いでもらう。
そうこうしているうちに、業者が死亡届を持ってきて、役所に提出がどうのと言ってきた。受け取ったオレは、死亡届と婚姻届を茶封筒に入れ、ぼんやりしたままのあいつに「行ってこい」と言ってみた。あいつは黙って受け取ると、ふらふらした様子で出かけていった。
半分、賭けだった。
中を覗かれたら、婚姻届は間違いなく捨てられるだろう。そしてあいつは、怒りながら帰ってくるに違いない。爺さんの葬式を、利用してばかりで申し訳なかったが、絶好の機会だと思った。
あいつは、おとなしく帰ってきて、葬儀に参列していた。拾骨まで終わり、自宅に帰ってくると、ふらりと出ていった。
後をつけてみると、爺さんの自宅跡でぼんやり立っていたので、オレはそのまま一人で帰った。
あいつは、爺さんが好きだったから、きっと、実の孫であるオレよりもずっと慕っていたから、血縁者の前で素直に泣けなかったんだろう。
家に帰ると、あの親友もどきの女がきていた。葬式に間にあわなかったので、焼香だけでも、ということらしい。
オレの両親も結婚式で会ったのを覚えていたのか、家の中にあげていた。
初めは、両親と普通の挨拶をしていたと思う。
でも帰り際に、「あーら、お久しぶり。仮のダンナさん」と言われたので「もう、仮じゃねーぞ」と答えると、騒ぎになった。騒いでいると、当人も帰宅した。
落ち着いてから話そうと思っていたのに、その場で告げるはめになった。
案の定、激怒したあいつは、役所へ殴り込みをかけそうな勢いだった。殺気も放っていたので、マズいと止めに行こうとしたが、師匠に目で制された。
師匠に取り押さえられ、色々と文句を言っていたが、最後に「これから一生、反省するのを諦める」と、とんでもないことを口走り、全員に説教されていた。師匠とおばさんと、親友もどきの女がこれでもかというほど叱っていた。オレの両親と兄貴は、「それはちょっと」と言うだけで、状況についていけず、目が泳いでいた。
興奮すると、脳内配線がズレるんだよな。相変わらずだ、と思った。オレは後でゆっくり叱るので、この場は他の人に譲ることにした。
全員に叱られて涙目になったあいつは、骨になった爺さんの前で、かなり長い間「そういえばプロポーズが」とか「結婚が」とか「自分で書いた?」とか「説教が」とか重低音の声で呟いていた。時々鼻をすすりあげてもいたので、泣いていたのかもしれない。
師匠とおばさんが隣家へ帰り、最後にはあいつと一緒に「この非常識男がっ!」とオレを詰っていた親友もどきも帰宅したが、それでもあいつは爺さんの前から動かなかった。
オレの両親と兄貴家族も就寝した深夜、時刻で言うなら殆ど明け方近くだが、居間を覗くと、まだ念仏のような呟きが充満していた。
あいつと並んで、爺さんの隣に立つ。
「なあ、奥さん」
「なによ、ダンナ」
真っ赤な目をして、鼻声のままで、オレを睨みあげる視線があった。
この切り返しの早さは好きだ。
諦めは良いと自分で言うが、往生際が悪すぎる。
「爺さんの前で、約束するよ。順番が違うけれど、ちゃんと幸せにするから」
爺さんの前でする約束は、絶対破れない。ずっと昔からの二人の不文律だ。
数度瞬くと、すっと手が伸ばされてきた。
なんだ? 引っ張るのか?
手を差し出そうとした、その時だ。
「じゃあ、碁盤もちょうだい。あれがないと、私、幸せになれないもんっ! 碁石だけなんてイヤだっ!!」
あまりにも想定外の言葉に「……家に、帰ったら、な?」と答えるのが精いっぱいだった。
どうやらオレの妻の幸せは、予想外に手近に軽く転がっているもののようだ。
立ちあがって「よっしゃーっ!!」と叫んでいる、喪服の後ろ姿を見て思う。
どうやら、女としてよりも、珍獣属性のほうが遥かに高いらしい。