18章 那由他のとびら (3) 不死牢
「適合の可能性があった」
「――それだけだ」
白嶺の声は静かだった。
「なぜ、悠の脳……私の脳を移したのですか」
モニカが息を呑む。
「先生……」
なゆたは、白嶺を見つめた。
「愚問だ」
短い言葉だった。
「植物状態だった。脳幹反応は残っていたが、回復の見込みはほとんどなかった。記録上は、生きているだけの子。それが私の子だ」
白嶺は動かない。
なゆたは腕を組み、白嶺を背にして話した。
「――科学者として」
白嶺は、静かな声でさらに問う。
「……」
なゆたは答えず、天井を見ている。
「母として……息子を救いたかった……」
モニカは声を震わせ、言葉にした。
左の頬に、一粒の涙がこぼれた。
なゆたは続ける。
「そこへ、悠・ベレナール・松永の遺体が来た」
「日雇いで養護教諭を行い、私は被験体を常に探していた」
「まさか、適合するであろうと仮説を立てた子どもが、事件に巻き込まれるとは、思いもしなかったよ」
なゆたは不敵な笑みを浮かべ、話し出す。
室内の空気が変わる。
「司法解剖の名目だった。だが、身体の損傷は致命部を除けば限定的だった。若く、健康で、神経系もまだ柔らかい」
白嶺の眉がわずかに動く。
「児童の身体は、本来なら成人脳を受け入れられない。神経密度も、成長相も、内分泌も違う。普通なら拒絶する」
「なら、なぜ」
「普通なら、だ」
なゆたは薄く笑った。
「脳の接続自体は、AIでもできる。血管、神経、免疫抑制、細胞補正。そこまでは機械の方が正確だ」
なゆたは培養槽に手を添えた。
「だが、身体には記憶がある」
「記憶……?」
モニカが呟く。
「脳の記憶ではない。細胞の記憶だ。成長の癖、痛みの残響、神経の受け入れ方、自分が自分であるという感覚」
白嶺が小さく言った。
「零層」
「勉強してるじゃないか」
なゆたの口角がわずかに上がり、目が細くなる。
「意識の核」
「AIには見えない。数値化もできない。だが私は、そこに触れられた」
なゆたは初めて白嶺を見る。
「悠の脳は、お前の身体を拒絶しなかった」
部屋の時間が、しばらく止まる。
わずかな機械音が大きく聞こえる。
「なぜですか」
白嶺はうつむき、呟くように話した。
「悠が、お前が、まだ母を求めていたからだ」
モニカの表情が固まる。
「最期まで、テレシアを呼んでいた。抱きしめてほしいと願っていた。その身体には、母を求める記憶だけが深く残っていた」
なゆたは淡々と言った。
「そして、お前も同じだった」
白嶺の指先が震えた。
「お前も、私を求めていた」
静寂が落ちる。
「植物状態では、零層にアクセスしても、本当に意識の核が働いているか証明はできない」
「だが繋がった」
なゆたは、自分へ言い聞かせるように言った。
「倫理ではなく、理論でもなく、もっと原始的なもの」
「母を求める身体と、母を求める脳」
「その二つが、たまたま噛み合った」
モニカは口元を押さえた。
「そんな……そんな理由で……」
「そんな理由だから成功した」
なゆたの声は冷たかった。
「人間は、思っているほど高尚な生き物じゃない」
白嶺は、ゆっくり口を開いた。
「――では、私の……」
白嶺は一度、言葉を止めた。
「悠の身体は……リオ・ヴァレンへ――」
なゆたの目が、わずかに揺れた。
モニカの涙はもう止まらない。
「リオは金を出した側だ」
「資産家」
「正確には、その背後にいる者たちだ」
なゆたは白嶺を見る。
「悠の身体は、白嶺、お前を一度救った。そしてその後、別の脳を受け入れる器として売られた」
モニカが一歩後ずさる。
「じゃあ……リオさんの身体が、テレシアさんの声に反応したのは……」
「主語がない」
なゆたは指摘するように言うが、少し目線を左に向ける。
「――おそらく中枢化の話か?」
「悠の身体だったからだ」
なゆたは答えた。
「脳は違う。人格も違う。だが身体は覚えていた」
「母の声を」
白嶺は目を閉じた。
テレシアの子守歌。
白界で揺れた指先。
リオの沈黙。
すべてが一本に繋がっていく。
「では、あなたは」
白嶺は目を開いた。
「オリジナルではない」
なゆたは笑った。
「オリジナルの栗山なゆたは、もういない」
その言葉を聞いた瞬間、培養槽の少女たちが、ただの予備ではなく、殺された女の残響に見えた。
モニカが息を止める。
「とっくに国が抹殺したよ」
なゆたは、あまりにも淡々と言った。
「だが技術は殺せなかった。だから私は作られた。再現された。必要な部分だけを残し、不要な部分を削られてな」
なゆたは自分のこめかみに触れる。
「今の見た目が中学生くらいなのは、それが理由だ」
「自害は何度も考えた」
モニカの顔色が変わる。
「この身体には、最初から逃げ道がない」
「自己破壊衝動に関わる神経回路の約八割が抑制されている」
「だから最後の一歩だけが踏み出せない」
なゆたは培養槽を見た。
「これが、死神と契約を交わした代償ってわけだ」
なゆたは不敵な笑みを浮かべている。
白嶺は静かに尋ねた。
「誰が管理している」
なゆたは答えた。
「神代だ」
その名が部屋に落ちる。
「海外の要人、王族、軍、企業家、死を拒む者たち。彼らは表向きクローン技術を禁止した」
なゆたは笑う。
「だが禁止されたのは、公表だけだ」
「裏では続いている」
「日本はその保管庫だ」
「神代は、その管理者だ」
モニカが震える声で言った。
「子どもたちは……」
「わかるだろう」
「金持ちのじいさんやばあさんの器だよ」
なゆたは、笑いながら言った。
「児童の身体は成長する。神経可塑性が高い。成人脳を無理やり載せても、まだ作り替えられる余地がある」
「子どもだった悠の脳を、お前の身体へ移した時に比べたら、簡単なものだ」
「金を持つ老人たちに」
「死にたくない権力者たちに」
「若い身体を欲しがる者たちに」
モニカの目に怒りが浮かぶ。
「そんなものを……救済なんて呼ぶんですか」
「救済……?」
なゆたは笑いながら言う。
「これは禁呪だ」
「救済ではない」
「延命でもない」
「人間が、死を受け入れられなかった結果だ」
白嶺は焼け爛れた左腕を見た。
「止める方法は」
なゆたはしばらく黙った。
「零層で見ただろう」
白嶺の目が止まる。
「殺せ」
なゆたは静かに言った。




