第92話:影は単独で動く
第92話をお読みいただきありがとうございます!
今回は、アレンの単独調査回です。
審査水晶の不可測反応を受けて、彼がルシアンのそばを離れ、ひとりで裏側を探っていきます。
表の大会と裏の潜入、その温度差を楽しんでいただけると嬉しいです。
競技場の歓声は、まだ熱を帯びていた。
ルシアンの満点演技に沸いた観覧席では、貴族たちが口々に感想を交わしている。褒める者、悔しがる者、さっそく家の者に伝令を走らせる者。華やかな拍手の裏で、いくつもの思惑が同時に動き出していた。
だが、アレンの視線はそこにはなかった。
審査水晶に一瞬だけ走った黒い筋。
そして、アレンの影だけを拾った不可測の表示。
あれは偶然ではない。
(水晶そのものが勝手に俺を見たんじゃねえ。誰かが、俺を見させた)
アレンは完璧な執事の顔を崩さぬまま、ルシアンの背後へ戻った。
「上出来です、ルシアン様。しばらくは、他の生徒たちの競技をご覧になっていてください」
「……アレン?」
ルシアンは小さく目を細めた。
声には出さない。だが、彼はすぐに察したらしい。
今のアレンが、競技の余韻に浸る顔をしていないことを。
「何か見つけたんだね」
「少々、裏の設備を確認して参ります」
「一人で?」
「一人の方が足跡が残りません」
ルシアンは一瞬だけ迷った。
だが、すぐに穏やかな笑みへ戻る。
「分かった。表は僕が持つ」
「ええ。お願いします」
それだけで十分だった。
フェリスが柱の陰からわずかに動く。追うつもりだ。アレンは視線だけで止めた。
フェリスの琥珀色の瞳が、不満そうに細まる。
だが、彼女もまた、自分の役目を理解していた。ルシアン様の背後から離れない。それが今、最も優先される護衛任務だ。
アレンは観客の拍手に紛れ、音もなくその場を離れた。
中央競技場の裏手には、出場者用の通路、審査員用の控室、魔導具の管理室へ続く石造りの回廊がある。
表の華やかさとは別世界だった。
壁は冷たく、床には清掃用の水気が残っている。遠くで響く歓声が、分厚い石壁に吸われて鈍く歪んでいた。
アレンは足を止め、壁際に指を這わせた。
わずかな焦げ跡。
魔力の匂いではない。
鉄と油、そして乾いた火薬に似た、学園の魔導具にはない臭い。
(帝国式の部品か)
断定はしない。
だが、クラウスの持つ魔導小銃と似た機械油の気配があった。
アレンは黒誠の柄に指を添えたまま、回廊の奥へ進む。
審査水晶制御室。
扉の前には学園職員が二人立っているはずだった。だが、今は誰もいない。床には、眠り薬を吸わせたような薄い甘い匂いが漂っている。
死体はない。
血の匂いもない。
ただ、仕事をしているはずの者だけが、綺麗に消えていた。
「手際がいいな」
アレンは扉へ耳を寄せた。
中に呼吸はない。
だが、紙を擦るような音が一つ。
カリ、カリ、と。
何かが記録を削っている音だ。
アレンは鍵穴を見た。破壊された跡はない。正規の鍵か、もしくは鍵穴に触れずに開けた。
黒誠を鞘ごと抜き、扉の下の隙間へ差し込む。
魔力殻を叩くのではない。
内側の留め具に、ほんのわずかな衝撃だけを流す。
カチリ。
扉が開いた。
部屋の中央には、競技場の審査水晶と連動する副鏡が浮いていた。透明な円盤の裏側に、黒い虫のような小さな器具が貼りついている。
金属の脚。
細い針。
そして、王国式とは違う角張った魔力回路。
(こいつが、俺の影を拾わせたのか)
アレンが近づいた瞬間、その器具が赤く明滅した。
証拠を焼くつもりだ。
「遅え」
黒誠の先端が、器具の脚を押さえた。
燃え上がろうとした魔力が、神木烏木に触れた途端、形を失ってしぼむ。黒い虫のような器具は、じたばたと震えた後、音もなく動きを止めた。
その時、部屋の奥に置かれた書類棚の影が、ぬるりと揺れた。
人影。
灰色の作業服を着た、学園職員らしき男が、無言で窓へ向かって跳ぶ。
アレンの身体が消えた。
瞬歩。
男の手が窓枠へ触れるより早く、アレンの指がその肩を掴む。
「逃げるなら、足音くらい殺せ」
次の瞬間、男の身体がぐにゃりと潰れた。
肉ではない。
中身のない紙の人形だった。
衣服も、髪も、皮膚も、薄い魔導紙が重なった偽物。人間そっくりに見せかけた囮だ。肩を掴まれた衝撃で形を保てなくなり、床にぱらぱらと崩れていく。
アレンは眉をひそめた。
「本体は最初から外か」
床に落ちた紙片の一つに、黒い刻印があった。
円ではない。
四角を積み上げたような、無骨な紋。
王国貴族の魔法陣ではない。黒の円卓の呪印とも違う。もっと機械的で、感情のない記号だった。
アレンは紙片を白手袋越しにつまみ、懐紙に包む。
その直後、遠くの競技場から新たな歓声が上がった。
表の大会は、何事もなく続いている。
ルシアンは表で笑っているだろう。
フェリスはその背後で警戒している。
シオンはガラルドを守り、エレノアはおそらく今頃、異常を察して目を光らせている。
ならば、裏は自分の仕事だ。
アレンは動かなくなった黒い器具を外し、紙人形の残骸と共に懐へしまった。
(帝国か。黒の円卓か。それとも、両方に餌を撒いてる別の馬鹿か)
答えはまだ出ない。
だが、分かったことは一つある。
この大会は、もう競技だけでは終わらない。
アレンは制御室の窓から競技場を見下ろした。
歓声。
拍手。
七色の魔法旗。
そのすべてが、今はひどく薄っぺらい幕に見える。
「さて」
アレンは静かに黒誠を腰へ戻した。
「誰が釣れるか、試してやるか」
完璧な執事の笑みを顔に貼り付け、アレンは再び歓声の裏側へと消えていった。
第92話をお読みいただきありがとうございました!
今回は、派手な戦闘ではなく、アレンが痕跡を読みながら単独で動く格好よさを意識しました。
ルシアンが何も言わずに任せるところ、フェリスが追いたいのに護衛を優先するところも、それぞれの信頼が見える場面だったと思います。
黒い観測器具と紙人形の囮が、次にどう繋がるのかも見守っていただけると嬉しいです。
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