第81話:鐘のない病棟と、黒鐘卿
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今回は白鐘療養院への潜入、そして久しぶりにアレンの本格戦闘回です。黒の円卓の幹部級も登場し、白鐘療養院の本当の目的が明かされます。
白鐘療養院は、王都北区の丘の上にあった。
夜明け前の薄い霧の中、白い石造りの建物は、遠目には清潔で静かな祈りの館に見える。高い塀、整えられた庭木、窓辺に吊るされた小さな銀の鐘。
だが、風が吹いても鐘は鳴らなかった。
「音を封じていますね」
クロードが低く言った。
「普通の防音結界ではありません。内側の声を外へ出さないための精神遮断も混じっている」
「患者の保護、という建前には便利ですね」
フェリスは看護助手の制服に姿を変えていた。白い外套に薬草袋。髪も普段より低い位置でまとめている。どこからどう見ても、夜勤明けの療養院職員だ。
アレンもまた、黒い執事服ではない。
目立たない灰色の外套を羽織り、腰の和泉守兼定は布で巻いて背中へ隠している。黒誠は持っていない。ここから先は、敵が出れば本物の戦場になる。
「表門は使わねえ」
アレンは白鐘療養院の古い見取り図を畳んだ。
「十年前の増築前の図だと、東側の薬草搬入口から地下へ落とせる通路がある。そこが潰されてなきゃ、最短だ」
「潰されていたら?」
フェリスが問う。
「壁を開ける」
「やはり貴方は潜入という言葉を誤解しています」
「静かに開けりゃ潜入だ」
フェリスが何か言い返しかけたが、クロードが小さく笑った。
「不思議ですね。無茶なはずなのに、あなたが言うと少しだけ成立しそうに聞こえる」
「成立させるんだよ」
三人は霧に紛れ、東側の塀へ回り込んだ。
フェリスが先行する。気配遮断。足音も衣擦れも消え、彼女の長い影だけが塀の上を滑る。数息後、内側から小さな金具の外れる音がした。
「解除しました」
小さな裏門が開く。
中は薬草保管庫だった。棚には乾燥薬草、鎮静剤、魔力安定薬の瓶が整然と並んでいる。鼻を突く薬品臭。ミレイが言っていた「薬の匂い」と同じ種類だ。
フェリスが瓶の一つを手に取り、顔をしかめる。
「睡眠薬の濃度が異常です。患者へ継続投与する量ではありません」
「眠らせるためじゃない。起こさないためか」
アレンの目が冷える。
クロードが床へ精神感応糸を垂らした。
「下です。床下に大きな空洞がある。……ただし、精神の声が多すぎる。十、二十ではありません」
「行くぞ」
フェリスが棚の裏を探り、隠し扉を開ける。
地下へ続く石段。
降りるほどに、音が消えていった。靴音も、息遣いも、心臓の鼓動すら遠くなる。やがて辿り着いた先には、白い廊下が伸びていた。
窓はない。
鐘もない。
扉だけが、左右にずらりと並んでいる。
扉の小窓の向こうには、眠る患者たちがいた。
老人。若者。貴族らしい衣服を着せられた者。平民の粗末な寝巻きの者。誰も目を覚まさない。胸はかすかに上下しているが、意識はどこか別の場所へ引きずられている。
廊下の天井を、黒い管が走っていた。
管は各病室から伸び、さらに奥の巨大な扉へ集まっている。
「……これは」
クロードの声が震えた。
「精神導管です。患者の夢、恐怖、記憶の残滓を吸い上げている。白鐘療養院は、ただの保管場所ではありません。ここは、精神を集める採掘場だ」
「採掘場ね」
アレンは低く呟いた。
その言い方が、ひどく気に入らなかった。
奥の巨大扉には、黒い鐘の紋章が刻まれていた。
フェリスが鍵穴を調べる。
「鍵はありません。内側から封じています」
「なら開ける」
アレンが一歩前へ出た、その瞬間。
廊下のすべての扉が、同時に震えた。
音はない。
ただ、無音の鐘が鳴った。
頭の内側を殴るような衝撃。
クロードが膝をつき、フェリスの肩がわずかに揺れる。
アレンは動かなかった。
「精神鐘です……! 音ではなく、意味だけを鳴らしている。恐怖、服従、眠れ、忘れろ……そういう命令を鐘の形にして直接叩き込んでいる!」
「くだらねえ鐘だ」
アレンは布をほどき、和泉守兼定を抜いた。
白い廊下に、鋼の光が走る。
その瞬間、巨大扉の前に黒い影が立った。
黒い礼装。胸元に鐘の意匠。顔の上半分を覆う黒銀の仮面。手には細い指揮杖のような魔導具。
男とも女とも判じがたい、冷たい声が響く。
「初めまして、虚孔観測者。私は黒の円卓、第四席――黒鐘卿」
フェリスが短刀を構える。
「幹部級……」
「その呼び方で構いません。モルガンはよく働きました。最後は粗末でしたが、彼のおかげで貴方の測定値は随分進んだ」
黒鐘卿の仮面が、アレンへ向く。
「白鐘療養院は、人工虚孔を作るための揺籃です。魔力の器を持つ者から、夢、恐怖、喪失、祈りを削り取り、最後に空白だけを残す。大半は壊れます。ですが、稀に穴が開く」
クロードが息を呑む。
「人工的に、虚孔を……?」
「ええ。だが、どれも浅い。貴方ほどの深度には至らない」
黒鐘卿が指揮杖を上げた。
「だから実測します。成功例ではなく、原型を」
廊下の病室から、黒い霧が噴き出した。
霧は鐘の形に凝り、やがて人型を作る。顔のない白衣、患者服、黒い腕。残響兵より濃い。患者たちの現在の夢を、無理やり戦う形に固めたものだ。
「鐘鳴りの兵。壊しても構いません。中身は少し削れるだけです」
「少し、だと?」
アレンの声が低く沈んだ。
次の瞬間、鐘鳴りの兵が一斉に襲いかかった。
「フェリス、患者を守れ! クロード、導管を見ろ!」
「承知!」
「分かりました!」
アレンは前へ出た。
和泉守兼定が、白い廊下に弧を描く。
一体目の鐘鳴りの兵が、肩から腰まで裂けた。霧が散る。だが同時に病室の中の患者が苦しげに呻く。
「本体を斬るな、導管が痛みを返してやがる」
アレンは即座に刃筋を変えた。
狙うのは兵の身体ではない。背後から伸びる黒い管。患者の夢と兵を繋ぐ、細い精神の緒。
瞬歩。
床を鳴らさず、霧の腕をすり抜ける。兼定の切っ先が黒い緒を撫でるように断った。
兵が音もなく崩れ、病室の患者の呼吸が少しだけ落ち着く。
「そこか」
アレンの目が獲物を見つける。
続く三体。
斬る。断つ。潜る。かわす。
鐘のない廊下に、鋼だけが鳴る。
黒鐘卿がわずかに首を傾けた。
「興味深い。殺傷衝動より、保護対象の損耗回避を優先。虚孔は欠損を作るだけではなく、縁を読む」
「観察してる暇があるのか」
アレンが踏み込む。
フェリスの紫煙の針が、左右の鐘鳴りの兵を縫い止めた。
「今です」
クロードの銀糸が導管へ絡み、黒鐘卿の指揮杖と病室を結ぶ流れを一瞬だけ歪める。
アレンはその隙を逃さない。
縮地。
黒鐘卿の懐へ、ほとんど瞬きの間に入る。
兼定が、仮面の首筋へ走った。
だが、刃は届かなかった。
無音の鐘が、アレンの胸の内側で鳴る。
死ね。
止まれ。
眠れ。
命令が束になって押し寄せる。
アレンの足が、半寸だけ鈍った。
その半寸で、黒鐘卿は後ろへ滑った。
兼定の切っ先が仮面をかすめ、黒銀の表面に細い傷を刻む。
「……止まらないのですね」
黒鐘卿の声に、初めて微かな熱が混じった。
「精神鐘を直撃させた。普通なら、ここで膝をつく」
「普通の相手が欲しけりゃ、墓場で探せ」
アレンは踏み直した。
胸の奥で鳴る無音の鐘を、殺気で踏み潰す。
命令など知ったことか。
己の足を動かすのは、己の誠だけだ。
「もう一度来い。次は首まで届かせる」
「素晴らしい」
黒鐘卿は指揮杖を下げた。
「本日の測定は十分です。虚孔深度、精神鐘耐性、保護時の刃筋、すべて記録しました」
巨大扉の奥から、黒い光が漏れる。
撤退の術式。
フェリスが短刀を投げる。クロードの銀糸も走る。
だが、黒鐘卿の周囲に黒い鐘型の結界が開き、すべてを弾いた。
「ミレイ・アルノーの肉体は、この先です。ですが、急ぎなさい。中枢は、貴方が来たことで起動段階へ入りました」
アレンの三白眼が鋭くなる。
「待て」
「君は成功例ではない」
黒鐘卿の姿が、黒い鐘の影に溶けていく。
「原型だ」
最後の言葉だけを残し、幹部は消えた。
同時に、巨大扉の黒い鐘紋が赤く明滅する。
廊下の奥から、かすかな少女の心音が響いた。
『……アレン』
水晶箱の中のミレイが震える。
『近い。私の体、近くにいる』
アレンは兼定の刃を払った。
黒鐘卿は逃げた。
だが、扉は残っている。
患者たちはまだ眠っている。
そして、ミレイの肉体はこの奥にある。
「フェリス、患者の導管を切れるだけ切れ。クロード、扉の術式を読め」
「承知」
「やります」
アレンは巨大扉の前へ立った。
和泉守兼定を、静かに平正眼へ構える。
「白鐘が鳴らねえなら、こっちで叩き起こす」
黒い鐘紋へ、刃の切っ先が向けられた。
地下の奥で、何かが目を覚ます気配がした。
第81話をお読みいただきありがとうございました!
今回はアレンに和泉守兼定を抜かせる戦闘回でした。患者を傷つけず、敵だけを斬る刃筋にする必要があったので、単なる力押しではないアレンらしさを出せたと思います。黒鐘卿もかなり不穏な幹部として出せました。
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