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婚約破棄? こっちから願い下げです。やっと自由になれますわ  作者: 月雅


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第10話「紙と、手と」

この手は、薬品で荒れたままだ。


カティアは作業台の上で指を開き、掌を見つめた。


爪の際が赤く、指先の皮膚が薄く硬くなっている。定着液と洗浄水を繰り返し使った手。竹のヘラを握り続けた手。


修復士の手だった。


事件の余波が落ち着き始めていた。


アルノルトの官職停止から二週間が過ぎている。宮内省の調査は進行中で、文書院の役割はひと段落していた。院長が宮内省に提出した報告書と、ニクラスが上席監査官に提出した照合結果。二つの報告が揃い、あとは制度の手続きが粛々と進むだけだった。


修復室の日常が戻っている。


高い窓からの朝の光。羊皮紙の匂い。フランツの黙々とした作業音。


カティアは新しい文書に向き合っていた。


定期査閲で引き取られた、別の省庁の古い文書。今度は不正とは無関係の、純粋な経年劣化による損傷だった。水染みと虫食いの複合。修復士にとっては、最も基本的な仕事だ。


竹のヘラを手に取り、固着した汚れを剥がし始めた。


手が動いている。


前世でも、今世でも、同じように動く手。


この手で蘇らせた文書がある。この手で掴んだ場所がある。


それだけで十分だった。


午前の作業を終えたところで、受付の老職員が修復室に顔を出した。


「ヴァイスフェルト嬢。面会の方がいらしています」


「閲覧申請ですか」


「いえ。面会です。レーヴェンシュタイン様」


カティアはヘラを作業台に置いた。


手を麻布で拭き、修復室を出た。


待合室に、ニクラスが立っていた。


閲覧申請書は持っていなかった。


「お久しぶりです」


カティアは椅子を勧めた。ニクラスは軽く頭を下げて座った。


カティアも向かいに座った。


小さな卓を挟んで、向かい合っている。


「閲覧すべき文書はもうないはずですが」


カティアは率直に言った。


ニクラスは一瞬、目を逸らした。


それから、咳払いを一つした。


「……監査報告書を書くのに、ここの机が落ち着く」


カティアはニクラスの顔を見た。


財務局の執務室には、立派な机があるはずだった。窓が大きく、日当たりがよく、帳簿が整然と並んだ、あの明るい部屋。


文書院の待合室は、木の椅子が四脚と小さな卓が一つだけの、飾り気のない部屋だ。


「嘘が下手ですね」


言ってしまってから、自分の口調に驚いた。


職務上の丁寧語ではなかった。もっと——近い距離の言葉だった。


ニクラスが目を見開いた。


それから、笑った。


社交の微笑みではなく、作り物でもない、本当の笑みだった。


「……ばれたか」


「最初から隠せていません」


カティアの声は穏やかだった。


ニクラスは姿勢を正した。笑みが消え、真剣な目になった。


「いくつか、伝えておきたいことがある」


「はい」


「ゲルスターの処分手続きが進んでいる。官職剥奪と禁固刑の方向で、宮内省が調整中だ。調査の過程でゲルスター伯爵家の借財問題も明るみに出て、家門の処遇も含めて審議されることになった」


カティアは黙って聞いた。


「財務局内の内部調査も始まっている。廃棄手続きの書類を処理していた下級官吏が、手続きの省略を認めた。減俸と配置転換だそうだ」


「そうですか」


「それから——殿下が、国王陛下の下で補佐なしの政務に取り組み始めたと聞いている。側近不在のまま、自分の判断で執務をこなしているらしい」


ニクラスの声に、ほんのわずかな感慨が混じった。


カティアはその響きを聞き取ったが、何も言わなかった。


エーリヒのことは、もう自分の領分ではない。


「お知らせいただき、ありがとうございます」


「いや。君には知る権利がある。君の手が蘇らせた文書が、すべての起点だったのだから」


カティアは首を横に振った。


「わたくしは修復しただけです。それ以上のことはしていません」


「分かっている」


ニクラスは頷いた。


分かっている。その言葉の中に、カティアの仕事への理解と、敬意が含まれていることを、カティアは感じた。


沈黙が流れた。


居心地の悪い沈黙ではなかった。用件が終わった後の、穏やかな間だった。


だが、ニクラスは立ち上がらなかった。


「……一つ、相談がある」


「はい」


「文書院との連携業務のための定期訪問許可を、院長に申請しようと考えている」


カティアは眉を上げた。


「連携業務、ですか」


「財務局の監査業務において、文書院に保管された原本との照合が定例化する可能性がある。その場合、毎回閲覧申請書を提出するより、定期訪問の枠組みを作った方が効率的だ」


理路整然とした説明だった。


筋は通っている。制度的にも不自然ではない。


だが、カティアには分かった。


この人は、通い続ける理由を制度の中に作ろうとしている。


「……院長にお尋ねになってください」


「そうする」


ニクラスは待合室を出て、廊下の奥に向かった。


院長室の扉を叩く音が、微かに聞こえた。


カティアは待合室の椅子に座ったまま、窓の外を見た。


午後の光が石畳に落ちている。


しばらくして、ニクラスが戻ってきた。


「許可が出た」


「院長は何とおっしゃいましたか」


「『好きにしろ』と」


カティアは目を閉じ、小さく息を吐いた。


ヘルムートの声が、聞こえるようだった。ぶっきらぼうで、素っ気なくて、けれどすべてを見通している老人の声。


目を開けた。


「では、お茶くらいはお出しします」


ニクラスが一瞬、言葉を失った。


それから、静かに笑った。


「……ありがたい」


ニクラスは軽く頭を下げ、文書院を出ていった。


カティアは待合室を片づけ、修復室に戻った。


作業台の上に、新しい束が届いていた。


フランツが顎でそれを示した。


「さっき受付に届いた。次の定期査閲分だそうだ」


布に包まれた羊皮紙の束。


カティアは布を解き、最初の一枚を手に取った。


硝子玉を目に当て、表面を確認する。


水染み。虫食い。端部の欠損。


見慣れた損傷パターンだった。


竹のヘラを握った。


この手は薬品で荒れている。爪の際は赤く、指先は硬い。


けれど、この手で蘇らせた文書がある。


この手で掴んだ場所がある。


そして——この手に触れようとする人が、いる。


前の人生は、一人きりで終わった。


資料保存室の薄暗い部屋で、紙と向き合ったまま。


今度は、違う。


同じ手で、同じ仕事をしている。けれど、修復室の外に待っている景色が違う。


カティアはヘラを羊皮紙の表面に当てた。


汚れを、丁寧に、剥がしていく。


次の仕事が始まった。


(完)


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― 新着の感想 ―
転生と断罪回避をあえて本線から外して濁す程度に語っているけど、終始主軸にあるから読むのが面白いですね。 あまり語られなくても十分に想像で楽しめる作品でした。
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