第23.5話「千夏とプリン」
鷹野千夏は、基本的に騙されない。
二十五年生きてきて、芸能界で五年働いて、そこそこの場数を踏んできた。黒髪のボブ、知的な顔立ち、姿勢の良さ——外から見れば「クールな実力派」で通っている。同じ事務所で凛より一つ上の先輩。連続ドラマや映画をメインに活動していて、現場でのスタッフからの信頼は厚い。
軽々しく動じない。驚かない。笑いをこらえながらも表情を崩さない——それが千夏の流儀だ。
でも今日は、さすがに少し驚いている。
場所は柊家のキッチン。
目の前に、二十二歳の男が台所のテーブルで部品を分解している。
「……なんで台所でそれやってるの」
千夏が聞く。声はできるだけ普通に保った。
凛が横で「いつもそう」と答えた。
いつもそう、か。
千夏はもう一度キッチンを見渡した。テーブルの上に精密ドライバーが四本。小さなトレイに部品が整然と並んでいる。作業用のライト。あとは普通の台所だ。炊飯器、電子レンジ、生姜のチューブ。
遼は千夏の視線に気づいているのかいないのか、顔を上げもしない。
「どうも」
最初の挨拶のとき、それだけ言ってまた手元に戻った。どうも、で終わった。凛が「千夏ちゃん。同じ事務所の先輩」と紹介した後でも、「あ、そうですか」で完結した。
普通なら「いつも凛がお世話になってます」くらい言う。
言わなかった。
千夏は別に気を悪くしていない。むしろ逆に、少し興味が湧いてきた。
今日の訪問は、凛から声がかかった。
「家でゆっくりしたい気分で。千夏ちゃん、来る?」
神崎監督のドラマの撮影が続いていて、凛は疲れている。顔には出さないが、千夏には分かる。凛が「ゆっくりしたい」と言うときは、一人になりたいのではなく、何も考えなくていい場所に誰かと一緒にいたいときだ。
だから来た。
来てみたら、華がリビングのソファで台本を読んでいて、遼が台所で部品と格闘していた。
華がすぐに顔を上げた。
「千夏さん、いらっしゃい!」
「お邪魔します。台本?」
「映画の。あ、お茶出しますね」
「いいよ、ゆっくりしてて」
ごく普通の土曜日の柊家、らしい。
「凛ちゃんの弟さん、機械の人って聞いてたけど」
千夏はリビングのソファに腰を下ろしながら、声を少し落として凛に言った。
「本当に台所で分解してるとは思わなかった」
「あれは最近始まった。前はリビングでやってたんだけど、私が台所の方が見やすいって言ったら素直に移動した」
「凛ちゃんが言ったから?」
「多分。頼んだことは基本やってくれる」
千夏はキッチンの方を見た。遼は引き続き何かに集中している。ライトの角度を少し変えた。ピンセットで何かをつまんだ。
「何作ってるの、あれ」
「聞いたことある。なんか、自律系の……ロボット? のプログラムと、それを動かす部品の確認、らしい」
「らしい、か」
「私もよく分かってない」
華がソファから顔を上げた。
「遼に直接聞いたら教えてくれるよ。技術の話だと少し喋るから」
「少し、ね」
千夏は立ち上がってキッチンに入った。
遼の斜め後ろに立って、少し眺める。部品の種類は分からない。でも作業の手つきは、確かに迷いがない。どこに何を置くか、どの順番で外すか、全部決まっているように見える。
「それ、何?」
遼が顔を上げた。
「モーターの整流子です。接触不良があって」
「直せる?」
「直します」
「直せる?」ではなく「直します」。
言い切った。千夏は少し面白くなった。
「難しいの」
「慣れれば普通です」
「慣れれば、か」
千夏は横のスツールを引っ張って座った。遼は特に何も言わない。邪魔だと思っているわけでもなさそうだ。ただ作業を続けている。
「凛ちゃんが言うには、すごい技術者らしいけど」
「普通だと思いますけど」
「自分では普通だと思ってるんだ」
「はい」
迷いなし。千夏は小さく吹き出した。声は出さなかった。
「褒めても喜ばないんだね」
遼が少し首をかしげた。
「褒めてましたか」
「褒めてた。すごいって言った」
「そうですか。普通なんで」
「普通じゃないと思うけど」
「……そうですか」
そうですか、で終わった。特に嬉しそうでも照れた様子でもない。ただ情報として受け取って、でも自分の認識は変えない、という顔だ。
千夏は「なるほど」と思った。
これは確かに、普通じゃない人間だ。褒められた反応の話ではなく、もっと根っこの部分で。
「さっきのモーターって、どこのやつ」
質問を変えた。技術の話、と華が言っていた。
「自作のロボット用です。競技に使うやつ」
「競技?」
「ロボコンみたいなやつです。大学でやってた研究の延長で」
「今は何してるの」
「フリーランスで、請け負いの仕事と自分のプログラムと」
「……両方?」
「普通にできます」
少し饒舌になった、と千夏は気づいた。ほんの少し。「です」の後に続きが来るようになった。
「モーターって、一個一個こういうふうに確認するの」
「基本はそうです。量産品は検査が通ってますけど、自作のは自分でチェックしないといけないので」
「自作、か。ケースから自分で作るの?」
「フレームは3Dプリンタです。回路は作ります」
「回路も?!」
千夏の声が少し上がった。遼が少し不思議そうな顔をした。
「普通に作りますよ、回路は」
「普通に、ね」
今日三回目の「普通に」だ。千夏は内心でカウントしている。
「凛くんの弟さん、普通にって何回言うんだろ」という感想が浮かんでいるが、口には出さない。
リビングに戻ると、凛がお茶を持ってきていた。
「なんか聞いてたの、技術の話」
「少し。確かに喋った」
「でしょ。機械の話になると別人みたいに饒舌になるから」
「あれが饒舌なの?」
「遼基準で」
千夏はお茶を受け取った。
「面白い弟だね」
「そう?」
「褒めても喜ばない人間って、それだけでちょっと変」
「変だよ」凛が普通に言う。「でもなんか……信用できる感じはある。機械のこと以外でも」
「信用?」
「嘘つかないから。知らないことは知らないって言うし、できないことはできないって言う。できることは黙ってやる」
千夏はキッチンの方をちらりと見た。
相変わらず遼は作業中だ。集中している。こちらのことはもう気にしていない。
「凛ちゃんが弟の話するの、珍しい」
「そう?」
「あんまりしないじゃん、家の話」
凛が少し考えた。
「なんか、説明が難しいんだよね。変な人だよって言うと語弊があるし、すごい人だよって言うのも違う感じがするし」
「普通の人だよって言うのは?」
「それが一番違う」
千夏は笑った。今度は声に出して。
「確かに普通じゃないわ、あれ」
夕方になって、華が台所から声を上げた。
「遼ー! プリンある?」
間があった。
「冷蔵庫の二段目」
「やった!」
華がそのまま冷蔵庫に向かった。凛が素早く立ち上がる。
「ちょっと待って、私のもあるんだけど」
「知ってる」
「知ってるって何!!」
千夏は「あ、始まった」と思いながら成り行きを見守った。
冷蔵庫には三個あった。遼・凛・華で一個ずつ、らしい。
華が「じゃあ私のはこれ」と一個取った。凛も自分のを取る。
凛が千夏の方を向いた。
「千夏ちゃん、はい」
「え、いいの?」
「お客さんだから」
凛が自分のプリンをそのまま差し出した。千夏が受け取ると、凛はすぐに遼の方を向いた。
「遼、私のあげちゃったから一口ちょうだい」
遼が少し間を置いた。
「……自分のをあげたのか」
「お客さんだから仕方ないでしょ」
「そうか」
遼が自分のプリンを少し横にずらした。凛がスプーンを取ってくる。
華が横から「私も」と言った。
「ダメ」遼が即答した。
「なんで!!」
「自分のがあるだろ」
凛が冷蔵庫を開けた。残り二個——遼と華の分だ。自分のはもうない。
「遼、もう一口」
「さっきあげた」
「それは一口で終わった! もっとちょうだい!」
「自分のをあげたんだろ」
「お客さんだから仕方なかったの!!」
「知らない」
華が自分のプリンをしっかり両手で抱えた。
「私のはダメだからね」
「華!!」
千夏はリビングのソファでプリンを持ったまま固まった。
「……あの、私がもらわないほうがいい?」
三人が同時にこちらを向いた。
「違う違う」凛が言った。
「関係ない」遼が言った。
「千夏さんのせいじゃないです!」華が言った。
声がそろいすぎていて、千夏は少し笑った。
「……じゃあ食べる」
「食べて」凛が言った。そしてまた遼に向き直った。「もう一口」
「さっき断った」
「なんで!!」
凛が千夏の方をちらりと見た。
「ごめんねー、うるさくて」
「いや、楽しかった。プリンもおいしかったし」
「よかった」
普通においしい。コンビニのプリンだ。別に高いものではない。でも、なぜか今日は少し余分においしい感じがした。
「なんか、来てよかった」
ソファに座りながら、千夏がぽつりと言った。
凛が「何が」と聞く。
「別に。なんか……普通に楽しかった」
「プリンで争ったのが?」
「それも含め」
凛が少し笑った。家での凛の笑い方だ。外でする笑いとは少し違う。千夏はこの顔が好きだ。
「遼のこと、どう思った?」
千夏は少し考えた。
「変な人だけど、面白い」
「恋とかじゃなく?」
「ないない」千夏はきっぱり言う。「全然そういう感じじゃない。なんか……動物園に珍しい動物を見に来た感じ」
「失礼すぎる」
「褒めてるつもりで言ってる。珍しい動物ってかわいいじゃん」
「遼に言ったら傷つかないと思うけど、それはそれで問題じゃない?」
千夏は笑った。凛も笑った。
キッチンから「……なんか言ってる?」という声がした。
「言ってない!」凛が答えた。
「そうか」
それで終わった。
帰り際、玄関で凛と二人になった。
千夏が靴を履きながら言う。
「神崎監督の現場、どう?」
凛が少し間を置いた。
「……難しい」
「難しいのが楽しそうに見える」
「楽しいのかもしれない。よく分からない」
千夏は凛を見た。
凛の目が、少し違う色をしている。疲れてはいる。でも何かを見ている目だ。遠くではなく、近くの何かを。
「無理してたら言ってよ」
「言う」
「言わないじゃん、凛ちゃんは」
凛が「言うって」と繰り返した。千夏は「はいはい」と言って外に出た。
振り返ると、凛が玄関に立っていた。
「また来るね」
「うん、来て」
千夏は手を振って歩き出した。
マンションを出て、少し歩いたところで立ち止まる。
スマホを見た。マネージャーからLINEが入っている。明日の撮影の件だ。確認して、返信する。
それから、ポケットに手を入れて空を見た。
春の夜。風が少し冷たい。
鷹野千夏は、今日の午後を頭の中で少し巻き戻した。
部品を分解する男。プリンの争奪。凛の家での笑い方。
遼のことは——本当に何も思わなかった。面白い人間だとは思う。変な人だとも思う。でも恋とかそういうのは、一ミリも来なかった。
だからこそ、逆に安心した。
そういうことも、あるんだな、と。
千夏の周りには仕事のできる人間が多い。実力があって、華があって、見ていて引き込まれる人間が。でも遼は全部逆だ。地味で、無口で、褒められても喜ばない。
それで別に構わない、という顔をしている。
構わない、ではなく、そもそもそういう評価軸が存在していない、というのが正確かもしれない。
なんだそれ、と千夏は思う。
かっこいいとは言わない。でも——強いな、とは思った。
その夜、柊家のリビング。
遼は作業部屋に戻っていた。
凛はソファで台本を読んでいる。神崎監督のドラマ、次の撮影の準備だ。ページをめくる手がいつもより少し遅い。
華がキッチンから出てきた。
「お姉ちゃん、千夏さんどうだった?」
「どうって」
「遼のこと」
「変な人って言ってた」
「それだけ?」
「面白い変な人だって」
華がにこにこした。
「だよね。私もそう思う」
「恋とかじゃなく、って言ってた」
「千夏さんはそういうタイプじゃなさそう」
「そう。全然そういう感じしなかった」
華は「そっかー」と言ってソファに倒れ込んだ。
「遼のこと好きになる人ってどんな感じなんだろ」
凛がページをめくる手を止めた。
「……詩織ちゃんに聞けば」
「それはそうだけど」華が天井を見る。「詩織さんの気持ちは分かるじゃん。小学校からずっとだし」
「うん」
「でもなんか、改めて考えると不思議で。遼のどこが好きなんだろって」
凛は少し考えた。
「私には分かんない。あの子が誰かに好かれてるって、想像しにくい」
「でも詩織さんはずっと好きだよね」
「そうだね」
凛は台本に戻った。
華はしばらく天井を見ていた。
廊下の向こう、遼の部屋からかすかにキーボードの音がする。




