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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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宮本奈々 番外編「将棋会館の日」

 宮本奈々に、書いてくれと言われた。

 正確には、言われたわけではない。この物語を書いている最中、奈々がずっとこちらを見ている。何も言わない。ただ見ている。ショートピースを口の端にくわえたまま、じっと。

 「……なんですか」と聞いたら、「将棋会館のこと」。

 「書きますよ、そのうち」

 「そのうち、はいつですか」

 「……近いうちに」

 「近い、というのは」

 「もうちょっとしたら」

 「もうちょっと、というのは」

 詰め将棋みたいに詰めてくる。逃げ道がない。温度もない。ただ淡々と、こちらの言い訳の穴を埋めていく。

 「分かりました、今書きます」

 「ありがとうございます」

 ものすごく礼儀正しい。最初からそう言えばよかった——いや、最初からそう言っていたのかもしれない。奈々の要求はいつも静かすぎて、断ったつもりが断れていないことに後から気づく。

 というわけで、書く。

 宮本奈々、十歳。将棋会館に行った日の話を。

 「正確に書いてください」と本人から念押しあり。「できる限り」と返したら「できる限り、というのは」とまた来たので、「正確に書きます」と言い直す羽目になった。

 奈々は「ありがとうございます」と言って、ようやく別の方向を向く。

 忘れる前に、書いておく。


 その日、将棋会館に子役が来ることになっていた。

 広報担当の村上(むらかみ)慶一(けいいち)は、朝から少し憂鬱だ。別に嫌いなわけではない。子役。子供。ただ、扱いが難しい。カメラが回っているあいだは笑顔でいなければならないし、撮影が終われば親御さんへの対応がある。それから、将棋会館というのは基本的に静かな場所なので、子供が来ると少し——ほんの少しだけ——空気が変わる。

 将棋を題材にした連続ドラマ。主人公の少女が将棋会館を訪れる場面のロケだ。出演する子役は「宮本(みやもと)奈々(なな)」、十歳。

 村上は資料を一枚開いた。

 写真が一枚。黒髪のショートボブ。目が少し細い。笑っていない写真だが、笑ったら目尻が下がりそうな顔だ。芸歴十年、とある。

 十年。

 三十四歳の村上が社会人になった頃、この子は生まれた。その子が十年仕事をしている。

 まあ、子役というのはそういうものだ。

 将棋の腕前については何も書いていない。撮影の都合で「対局シーンのリハーサル」を軽くやるかもしれない、と制作側から聞いている。「軽く」。村上は「軽く」という言葉を信じることにした。

 午前十時。制作スタッフが機材を運び込んでくる音が廊下に響く。


 宮本奈々は、将棋会館の入口で立ち止まって建物を見上げた。

 大きい。当たり前だけど。

 隣に玲子。マネージャーの佐々木さん。スタッフが何人か。みんなで一緒に入口を眺めている。

 緊張はない。現場というのはどこも同じだ。人がいて、カメラがあって、本番がある。

 「奈々、準備はいい?」

 玲子の声。

 「できてます」

 台本は昨日のうちに全部入れた。今日のシーンは難しくない。廊下を歩いて、対局室を見て、「ここで指したい」と言う。以上だ。

 入口を抜けると、廊下がまっすぐ伸びる。照明が白い。床が木目。静か。

 静かな場所は好きだ。

 廊下を歩きながら、奈々はそう思う。

 案内役の男性が「こちらです」と先を歩く。スーツ。村上、という名前だと紹介されたが、もう忘れた。顔は覚えるが、名前がついてくるのに時間がかかる。

 廊下の途中に対局室。ドアが少し開いていて、中を覗くと二人の男性が盤を挟んで座っている。じっと動かない。

 奈々は少し立ち止まった。

 静かだと思っていたが、あの部屋はもっと静かだ。廊下の静けさとは別の種類。二人が同じ空気を吸って、同じものを見ている。盤の上の何かを、同時に考えている。

 「こちらが対局室です」と村上が言った。「今は練習中なので」

 「分かりました」

 そう言いながら、少しだけ部屋の中を見た。

 将棋は知っている。楽屋で覚えた。負けたことがあまりない。大人に教えてもらって、その大人に勝ったら、別の大人が来て、その人にも勝った。繰り返していたら、いつの間にかみんなが「奈々ちゃんには勝てない」と言うようになった。

 でも楽屋の大人たちと、この部屋の人たちは違う気がする。

 何が違うのか、まだ言葉にならない。


 撮影は順調に進んだ。

 廊下を歩くシーンを三回、対局室の前で立ち止まるシーンを二回。監督が「いいですね」と言う。奈々はいつも通りだ。台本に書いてあることをやるだけ。

 昼休憩。

 スタッフが弁当を広げ始める。玲子は制作の人と何か話している。奈々は廊下のベンチに座って、お茶を飲んだ。

 「将棋、指せるの?」

 振り返ると、男性が立っている。二十代半ばくらい。スーツではなく、普段着に近い格好。頭が少し乱れている。さっきの対局室にいた人だ。

 「少しだけ」

 「少しだけ、ね」

 男性は面白そうに笑う。

 「俺、三段なんだけど。一局やってみる?」

 なめてる、と奈々は思った。まあそうだろう。子役が「少しだけ」と言ったのだから。

 昼休憩はまだ時間がある。玲子は別の場所にいる。

 「やります」

 奈々は立ち上がった。


 村上が気づいたのは、対局が始まって十五分ほど経ったころ。

 廊下を歩いていたら、小部屋から盤を打つ音がする。昼休憩の時間に誰が、と思って扉を開けた。

 里見がいた。

 里見(さとみ)幸太郎(さちたろう)、三段。今期の三段リーグでも上位に食い込む有望な若手。二十四歳。三段になって二年。今期こそ四段昇段、プロ入りを狙っている。

 その里見が、子供と向き合って座っている。

 子供——今日来た子役の女の子。宮本奈々。黒髪のショートボブ。盤だけを見ている。

 村上は扉のところで止まった。

 盤面を見た。

 ……。

 将棋は分かる。アマチュアの有段者だ。プロほどではないが、盤面を見れば状況は読める。

 読んだ。

 少し、時間がかかった。

 里見が、押されている。

 十歳の女の子に。

 もう一度盤面を見た。やはりそうだ。里見の陣形が崩れている。攻め手を失いつつある。対して、女の子の駒はきれいに連携している。無駄がない。

 女の子が手を伸ばした。

 角を動かす。

 里見が、固まった。

 三秒。五秒。十秒。

 「……参りました」

 里見が頭を下げる。

 「ありがとうございました」と女の子も頭を下げた。礼儀正しい。声が静か。勝ったことへの特別な感情が、どこにもない。

 村上は扉のところで、しばらく動けなかった。


 「もう一局、いい?」

 里見が言う。

 負けた、という顔ではない。むしろ目が輝いている。将棋指しというのはそういうものだ、と村上は知っている。強い相手に当たったとき、負けても悔しさより先に「もっとやりたい」が来る。

 「やります」

 村上は部屋に入って、壁際に立った。

 二局目が始まる。

 里見は序盤から攻勢に出た。一局目の反省を踏まえ、形を変えてくる。早い。判断が速い。さすが三段だ、と村上は思った。

 女の子は、特に慌てない。

 里見が攻めてくるたびに、淡々と受ける。受け方が上手い。最小限の手で、里見の攻めを少しずつ緩めていく。攻められているのに、じわじわと形勢が傾く。

 なぜ、こんなに落ち着いていられるのか。

 十歳の子供だ。現役の三段棋士と向き合って、なぜあんなに静かでいられる。緊張していないのか。それとも緊張が外に出ないタイプなのか。

 村上は女の子の目を見た。

 盤を見ている。盤だけを。

 その目に、余計なものが何もない。恐れもなく、驕りもなく、ただ盤の上を見ている。

 あ、と村上は思った。

 この子は今、将棋だけを考えている。

 相手が三段だとか、自分が十歳だとか、そういうことを一切考えていない。盤の上にある問題だけを、ひとつひとつ解いている。ただ、それだけを。

 それが、強さの理由だと村上には見えた。

 中盤。里見が仕掛ける。鋭い手。村上には好手に見えた。

 女の子が五秒考えた。

 応手を打つ。

 里見が、また固まった。

 三十秒。一分。それ以上。

 「……参りました」

 二局連続。

 里見は盤面を眺めたまま、しばらく動かない。負けを認めたあとも、盤から目が離せない様子だ。

 「君、どこで覚えたの」

 「楽屋で」

 「楽屋」

 「撮影の待ち時間に、スタッフの人たちに教えてもらいました」

 里見は盤を見たまま、小さく笑った。笑うしかない、という笑い方。


 廊下に出て、村上は連盟の先輩・橋本に声をかけた。五十代、長くこの世界にいる人間だ。

 「橋本さん、少し来てもらえますか」

 「なんだ」

 「里見が子役に二連敗してます」

 橋本が、一瞬だけ表情を止めた。

 「里見が」

 「はい」

 「子役に」

 「十歳の女の子です」

 「……見に行こう」


 三局目が始まっている。

 橋本も部屋に入った。里見は気づいたが、集中していたので軽く会釈しただけ。女の子はこちらを見ない。盤を見ている。

 橋本は盤面を追った。

 村上より将棋が分かる人間だ。プロではないが、アマチュアの全国大会に出たことがある。

 奈々の手が、静かに動く。

 理に適っている。一手一手に意味がある。無駄がない。ただ、理屈だけではない。理屈を超えたところで、手が呼吸をしている。

 強い棋士の将棋を見るとき、こういう感覚になる。理詰めなのに、どこかに「流れ」がある。盤面が生きている感じ。それをこの子がやっている。

 中盤から終盤にかけて、奈々が少しずつ里見を追い詰めた。

 里見も簡単には負けない。三局目は粘った。粘ったが、最後は崩れた。

 「参りました」

 里見は盤面から目を上げて、奈々を見た。

 「君、本当に十歳?」

 「はい」

 「将棋、いつから」

 「六歳のときに、現場のスタッフに教えてもらいました」

 「四年か」

 里見は少し笑う。「俺が将棋始めて四年のとき、こんなに指せなかった」

 「そうですか」

 感情が外に出ない。さっきからずっとそうだ。嬉しくないのではなく、嬉しさが外に来ない。

 橋本が口を開いた。

 「少し聞いていいか」

 奈々が橋本を見る。

 「将棋、好きか」

 少し考えた。

 「……面白いと思います」

 「好きと面白いは違うか」

 「好きかどうかは、まだ分かりません」

 正直な答え。橋本は「そうか」と言った。


 昼休憩の残り時間で、もう一人来た。

 高橋、三段。里見の同期で、同じく今期の三段リーグに参加している。廊下で話を聞いて「俺もやらせてほしい」と言ってきた。

 里見「やめておけ」

 高橋「なんで」

 里見「三連敗してから言え」

 高橋は首をかしげながら部屋に入ってきて、奈々を見た。

 「えっと、君が」

 「はい」

 「俺、三段なんだけど」

 「はい」

 「やる?」

 「やります」

 高橋は対面に座った。駒を並べながら里見を一度見る。里見は壁に背を預けて腕を組んでいる。何も言わない。

 対局が始まった。


 高橋は里見と違う将棋を指す。

 里見は攻める棋風。高橋は受けから入るタイプ。じっくり構えて、相手が崩れるのを待つ。対局相手にとってやりにくい将棋だ。

 今まで対局してきた相手の中で、この人が一番読みにくい、と奈々は思った。攻めてこない。こちらが仕掛けるのを待っている。でも待ちながら、じわじわと形を固めていく。

 奈々は仕掛けなかった。

 相手と同じように、待った。

 橋本が横で見ていて、少し驚く。

 普通、子供は待てない。じっとしていられない。仕掛けたくなる。動きたくなる。

 この子は待てる。

 相手のペースに乗らずに、自分のペースを崩さない。

 中盤、高橋が動いた。じっくり構えた末の鋭い仕掛け。里見もこれは好手だと思った。

 奈々が受ける。

 高橋がもう一手打った。

 三十秒ほど、奈々は盤を見た。

 打った手は、一見すると地味だった。特別なことをしていない。ただ一枚の駒を少し動かしただけに見えた。

 里見が壁から背を離した。

 その手が何かのトリガーになっている。里見には見えた。高橋も気づいた。気づいたが、どこにどう対応すればいいか、すぐには分からない。

 将棋は、一手が何手も先に繋がる。

 奈々が打ったその一手は、五手先、六手先の形を見通している。今は地味に見えるが、高橋がどう応じても最終的に奈々の有利になる分岐が見えていた。

 里見は盤を見ながら、静かに息を吐いた。

 この子は、先が見えている。

 どこまで見えているのかは分からない。でも今の一手は、少なくとも五手先は読んでいる。十歳の子が、現役の三段に対して。

 高橋が長考する。

 二分。三分。

 応手を打った。

 奈々はすぐに返す。

 高橋がまた止まった。

 何手か続いて、形勢が少しずつ奈々に傾く。

 「……参りました」

 里見「だから言ったろ」と壁に背を戻した。

 高橋は盤面を見ながら「なんでここでこの手が見えるんだ」と呟いた。独り言だったが、奈々に届いた。

 「なんでだろう」

 奈々も呟いた。独り言だ。


 橋本が廊下に出て、スマートフォンを取り出した。

 相手は田口、連盟の理事。

 「田口さん、少し来てもらえますか。今、会館に面白いものがいます」

 「面白いもの、とは」

 「十歳の女の子が、三段を三人連続で仕留めました」

 電話の向こうで、しばらく間があった。

 「今すぐ行く」


 田口が来るまでの間、奈々は里見と話していた。

 「なんで将棋、強くなったと思う?」

 「一回だけ負けたことがあって、その形がずっと頭に残ってるからだと思います」

 「一回だけ?」

 「楽屋の大人に。同じ形になったら絶対返そうと思っていたら、自然に次の手が見えてくるようになって」

 里見は少し黙った。

 「負けの記憶が財産、か」

 「でも一回しかないので、財産が少ないです」

 里見がまた笑う。

 「普通は逆なんだよ。いっぱい負けて、いっぱい覚えて、強くなる。君みたいに、ほとんど負けないで強くなる子はあんまりいない」

 「そうなんですか」

 「天才ってそういうことだと思う」

 「そうですか」

 嬉しそうではない。天才と言われても、それが自分にとって何を意味するのか、よく分からない。

 「でも、俺が見ていて思ったのは、君の将棋は天才の将棋じゃないな、ということだ」

 奈々が里見を見た。

 「天才は直感で指す。理屈じゃなくて、感覚でいい手が見える。君はそうじゃない。一手一手、ちゃんと考えている。でもその考えるスピードが速くて、精度が高い。それは……積み上げた人の将棋だ」

 積み上げた人の将棋。

 楽屋で覚えた。大人たちに教えてもらって、勝って、また来て、また勝った。それを四年間。特別なことは何もしていない。ただ、やめなかっただけだ。

 「でも、すごく強い」と里見は言った。「俺の今の実力では勝てない」

 「そうですか」

 「悔しいけどな」

 「次は勝てると思います」

 里見「なんで」

 「私の手の癖が分かったと思うので」

 里見は少し黙って、「君、性格悪いな」と言った。

 「そうですか」

 特に気にしていない。


 田口が来た。

 六十代、白髪、眼鏡。連盟の理事だ。橋本が廊下で事情を説明する。田口は「ほう」という顔で部屋に入った。

 奈々は立ち上がって「よろしくお願いします」と言った。

 「ああ、よろしく」と田口は盤の前に座る。

 「一局、指してもいいかな」

 「はい」

 「遠慮はいらない」

 「します」

 「いや、遠慮はしなくていい、という意味で……」

 「しません」

 田口は橋本を見た。橋本は苦笑いする。

 対局が始まった。


 田口の将棋は、里見とも高橋とも違う。

 静か。攻めているのか守っているのか、見ていてすぐには分からない。一手一手が小さく見えて、気づいたら形ができている。長年の積み重ねが、将棋の形に出ている。

 奈々は序盤から慎重になった。

 この人は、さっきの二人と違う。

 何が違うのか、最初は言葉にならない。でも数手進んで、分かってくる。

 読みの深さが違う。

 里見も高橋も深く読んでいた。でも田口の読みは、深さの種類が違う。単純に何手先を読むか、ではなく、どの局面でどの読みを深くするか、その選択が違う。無駄な読みをしない。必要なところだけ、必要なだけ。

 年季、と奈々は思った。

 長くやってきた人の将棋だ。

 奈々は一手一手、丁寧に考えた。今までより、時間をかける。

 「先生、本気だ」と里見が小声で言った。

 橋本「当たり前だ」と小声で返す。

 中盤。奈々が二分近く、盤を見た。

 一手打つ。

 田口が止まった。

 四分。五分。

 部屋が静かだった。誰も動かない。

 田口が応手を打った。

 奈々はすぐに返す。

 また田口が止まった。

 形勢は互角に近い。どちらが大きく有利というわけではない。でも少しずつ、本当に少しずつ、奈々の形のほうが整ってくる。

 終盤。田口が仕掛けた。

 鋭い手。里見が「おっ」と声を出した。

 奈々が考えた。三分。四分。

 打つ。

 田口の目が、少し変わった。

 険しくなったわけではない。ただ、深くなった。

 それから二十手ほど、慎重に進む。

 最後に、奈々が一手打った。

 田口は盤面を見た。

 一分。

 二分。

 「……参りました」

 静かだった。


 里見が「先生まで」と呟いた。

 橋本は何も言わない。

 田口は盤面を見たまま、しばらく動かなかった。それから顔を上げて、奈々を見た。

 「ひとつ聞いていいか」

 「はい」

 「将棋、好きか」

 少し考えた。

 「面白いと思います」

 「さっきも誰かにそれを言ったか」

 「橋本さん、という方に」

 田口は橋本を見る。橋本「同じ答えでした」と言った。

 「好きと面白いは、違うか」

 「好きかどうかは、まだ分からないです。でも将棋は面白い。今日、ここに来て、今まで指してきた人と違う人たちと対局して、もっと面白くなりました」

 田口は少し黙った。

 「奨励会に入る気はないか」

 「女優なので」

 「女優か」

 「はい、女優です」

 田口は小さく笑った。

 「もったいないな」——責めているのではない。ただそう思った、という感じだ。

 「でも、女優でも将棋は指せる。覚えておいてくれ」

 「はい」

 「また来なさい。今度は俺も本気で準備する」

 奈々は「よろしくお願いします」と言って、頭を下げた。


 午後の撮影が始まる時間になった。

 奈々は盤を離れて廊下に出た。

 玲子が待っている。

 「奈々、どこにいたの。探したんだけど」

 「将棋を指していました」

 玲子は少し眉を上げた。「どなたと」

 「里見さんと、高橋さんと、田口さん」

 「田口、というのは」

 「連盟の理事の方だと言っていました」

 玲子の眉がもう少し上がった。

 「……勝ったの?」

 「はい」

 少し間があった。

 「全員?」

 「はい」

 玲子は奈々の顔を見た。奈々は特に何も言わない。廊下の先を見ている。撮影スタッフが機材を動かしているのが見えた。

 「奈々にはできると思ってた」

 玲子がいつもの言葉を言った。

 「そうですね」

 いつもは、この言葉の重さをどこかで感じていた。やれと言われたからやった、という感覚の尻尾が残っていた。

 でも今日は少し違う。

 今日の将棋は、誰かに言われてやったのではない。里見に声をかけられて、やりますと言ったのは自分だった。次の人が来て、またやりますと言ったのも自分だった。

 面白かったから。ただ、それだけの話だ。

 奈々は廊下を歩き出した。

 午後の撮影が待っている。


 その夜、里見は道場で一人で盤を並べた。

 今日負けた局面を、何度も再現する。どこで間違えたか。どこで読みが足りなかったか。

 あの手が見えなかった。あの応手が読めなかった。

 十歳の子に。

 悔しいかと言われれば、悔しい。でもそれより、面白かった。

 強い相手と指すのは面白い。三段リーグで当たる相手も強い。でも今日の女の子は、何か違う。強さの種類が違う。プロの強さとも、アマチュアの強さとも、少し違う。

 天才ではない、と里見は思う。

 直感で指す天才なら、何人か知っている。あの子は直感ではなかった。一手一手、考えていた。でも考えるたびに正確な手が出てくる。

 積み上げてきた。

 四年間、何かを積み上げてきた。

 女優として、現場を渡り歩きながら、楽屋の大人たちと将棋を指しながら、四年間。

 里見は自分の三段リーグの棋譜を広げた。

 今期こそプロになる。そのためにここにいる。

 あの子に負けたことは、今日の一番いい出来事だったかもしれない。

 理由は上手く言えないが、そう思う。


 橋本は帰り際、村上に声をかけた。

 「あの子、名前は」

 「宮本奈々、です。子役です。芸歴十年」

 「十年か」

 橋本は少し笑う。

 「将棋の強さの理由、分かるか」

 「天才、ということでしょうか」

 「それもあるが、それだけじゃない」

 橋本は廊下の先を見た。もう奈々はいない。撮影のほうに戻った。

 「あの子は、盤だけを見ていた」

 「……はい」

 「相手が三段だろうと理事だろうと、そんなことは関係なかった。盤の上の問題だけを、ひとつひとつ解いていた。余計なことを一切考えていなかった」

 村上は頷いた。

 「それが、強さの正体だ。将棋に限らず」

 橋本は歩き出した。

 「また来るだろう、あの子は」

 「そうでしょうか」

 「田口先生が本気で準備すると言った。来なかったら先生が呼ぶ」

 村上は廊下を見た。午後の光が窓から斜めに入っている。

 今日、将棋会館で何かが起きた、と村上は思う。大きなことではない。十歳の女の子が来て、三段を何人か打ち負かして、帰った。事実としては以上だ。

 でも何かが起きた、という感じが確かにある。

 村上はそれを言葉にできなかった。

 ただ、明日も仕事がある——そう思いながら廊下を歩いた。

 後に、里見幸太郎は四段に昇段した。プロ棋士になった。

 インタビューで「将棋を続けてきて一番印象に残っている対局は」と聞かれたとき、里見はしばらく考えてから答えた。

 「三段のころ、将棋会館のロケに来た十歳の女の子に三連敗したことです」

 インタビュアーが笑った。冗談だと思ったらしい。

 「本当の話です」

 「その子は今、何をしているんですか」

 「女優ですよ。宮本奈々。知ってますか」

 インタビュアーは少し考えてから「あの、映画の」と言った。

 「そうです。あの宮本奈々です」

 「将棋も指せるんですか」

 「指せる、どころじゃないですが」と里見は言った。「まあ、本人は女優なので、って言いましたから。そっちのほうが向いているんでしょう」

 少し間を置いて、付け加えた。

 「でも将棋も、本物でしたよ」

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