第22話「四月の坂道」
スーツを着ると、詩織は自分が別人になる気がする。
別人、というより——お芝居の衣装、という感じ。これを着ていれば「社会人一年目の桜井詩織」として振る舞える。逆に言えば、このスーツなしには振る舞えない気もして、昨夜はちゃんと着られるか何度か確かめた。
四月一日。
朝の七時半。
洗面台の鏡に映る自分は、まあまあ社会人に見える。髪をまとめて、ジャケットのボタンを一番上まで留めると、悪くない。
問題は、足が少し震えていることだ。
深呼吸する。
笑えるか確認する。笑えた。
玄関のドアを開ける前に、スマホを取り出した。
遼に送った。特に考えなかった。
「行ってくる」
既読がついたのは一分後。
「お疲れ」
詩織は三秒、画面を見た。
「まだ行くとこだよ!!」
「そうか」
「そうかじゃない!!」
スタンプが二個届いた。よく見ると両方「まあ」と書いてある気がした。そんなスタンプあるのか。
気が付けば、足の震えが止まっていた。
出版社の正面玄関に、同期が十二人集まっていた。
全員スーツ。全員少しかたい顔。でも全員どこかほっとした顔でもあって、詩織は「ああ、みんなそうか」と思った。
入社式は午前中に終わった。
社長の挨拶があって、人事部長の挨拶があって、同期紹介があって、配属先の発表があった。詩織は第一志望だった文芸部門への配属。それを聞いたとき、緊張より先に「よかった」という気持ちが来た。
文芸部門の先輩が、四人来ていた。
一人が軽く手を上げた。
「桜井さんだっけ。俺、高瀬。よろしく」
穏やかな声。背が高い。眼鏡をかけている。
「高瀬悠斗です。三年目。担当編集のことはとりあえず俺に聞いてください。気軽に」
気軽に、と言える人がいる。詩織はその「気軽に」の重さを少し量った。本当に気軽に聞いていい人間と、そうでない人間がいる。この人は、本当の方に見えた。
「よろしくお願いします」
初日は終わった。
最初の一週間は、嵐のようで、でも嵐の中心がどこにあるか分からない感じで過ぎていく。
覚えることが多い。社内システム、編集部の仕組み、原稿の管理方法。先輩たちが「最初は全部メモして」と言うから、全部メモした。三冊目のメモが終わりかけたとき、隣席の先輩が「桜井さん、そのメモのノート、出版社っぽいね」と笑った。
褒められているのかどうか分からなかったけれど、詩織も笑った。
高瀬は、確かに気軽に聞ける人間だった。
詩織がシステムで詰まっていると「どこ?」と覗いてくれる。詩織が書類の提出先を間違えると「一個ずれてる」と教えてくれる。声を荒げない。溜め息をつかない。「最初はそんなもん」と普通に言う。
同期の中でも話題になっていた。
「高瀬さんって素敵だよね」
昼休みに同期の一人が言った。詩織は「そうだね」と答えた。
本当のことだ。素敵だと思う。
でも——何かが違う感覚が、どこかにあった。
何が違うのか、具体的には言えない。ただ、遼に「どこで部品買えますか」と聞いたときと、高瀬に「この書類どこに出せばいいですか」と聞いたときの感触が、全然違う。
前者の方が、なぜか温かい気がする。
理由は分からない。分からないまま、昼休みのお弁当を食べた。
最初の一週間が終わった金曜の夜。
帰り道、詩織はぼんやりしていた。
仕事は楽しい。文芸の仕事は合っている。先輩たちはいい人だ。職場の空気も悪くない。
ぜんぶ、本当のことだ。
なのに、どこかしんみりしている。
なんでだろう。
考えながら歩いていると、スマホが鳴った。
遼からのLINEだ。
「今日疲れたか」
問いかけではなく、確認のような文面。詩織はしばらく画面を見た。
「疲れた。でも楽しかった」
「そうか」
「またそうかだ」
「普通の返事だろ」
詩織は歩きながら少し笑った。
「そうだよ。普通の返事。遼は普通の返事しかしない」
「……何かしてほしかったのか」
詩織の指が止まった。
そういう問いを、この人は返してくる。意地悪なわけじゃない。ただ、真っすぐに聞いてくる。
「別に。ちょっと疲れたって言いたかっただけ」
「そうか」
「またそうかが来た」
「……プリン食うか」
詩織が止まった。歩道のど真ん中で、止まった。
「は?」
「プリン。コンビニで買って食えばいい。今どこ」
「……駅の近く」
「どこの駅」
詩織は教えた。少し間があった。
「近くだ。コンビニってどこにある」
なんでここにいるの。詩織の職場の最寄り駅である。
「……北口出たとこ」
「わかった」
コンビニの前に、遼が立っていた。
私服。いつものTシャツにジャケット。スーツでも作業着でもない、どこまでも「遼の服」という格好。自転車のカゴに部品屋の袋が見えた。
「速いな」
「近かったから」
「なんで近くにいたの」
「この辺に部品屋がある。自転車で来てた」
やっぱりそういうことか。詩織は少し呆れた。呆れながら、さっきまで肩に乗っていた何かが下りているのに気づいた。
コンビニに入った。
プリンコーナーの前で、遼が三種類を等分に眺めている。真剣な顔で。この人はプリンでもこういう顔をする。
「どれがいい」
「これ」
詩織が指さすと、遼がそれを二つ取った。そのままレジに向かう。
「あ、自分で払う」
「いい」
「いいって何が」
「俺が誘ったから」
それだけ言って、さっさと会計してしまった。詩織が財布を出す前に終わっていた。
外に出た。
コンビニの脇に小さなベンチがあった。遼がそっちへ歩いていくので、詩織もついていく。並んで座った。四月の夜はまだ冷たくて、コンビニの看板の白い光が足元を照らしている。
スプーンを開けた。一口食べた。
甘い。体に染みる感じで甘い。
遼も黙って食べている。
沈黙が、変じゃない。それが不思議だった。誰かとこういう沈黙になると、何か言わなきゃという気になる。遼とだと、ならない。ただ夜の空気と看板の光の中に、二人分の気配がある。
「……今日、先輩の机がすごかった」
口が動いた。特に考えたわけじゃない。
「どう」
「原稿の山と、付箋の山と、ゲラの山。三種類の山が独立していて、それぞれに秩序があるらしいんだけど、外から見ると完全にカオス」
「本人は分かってるのか」
「分かってるみたい。『どこに何があるか全部把握してる』って言って、実際すぐ出てくる」
「……それはそれで完成してる」
「そうなんだよね」と詩織は笑った。「文芸の人ってそういう感じなのかなって。システムが外部化されてる」
「システムが外部化」と遼が繰り返す。少し考えている顔。「頭の中の構造が、机に出てるってことか」
「たぶん」
「それなら触らない方がいい。下手に整理すると壊れる」
「……遼ってたまにそういうこと言うよね」
「何が」
「的確なこと」
遼が首をかしげた。「普通だろ」
「普通じゃないよ」と詩織は言った。言ってから、少し続けた。「遼の普通は、わりとだいたい普通じゃない」
「……そうか?」
「そうだよ」
プリンを一口食べた。
遼もスプーンを動かしている。それ以上何も言わない。詩織も言わない。
ただ、四月の夜のコンビニの前で、二人分の息が白くなった。白い、というほどではないけれど、空気が少し動いた。
「職場の話、もっと聞く気ある?」
「ある」
ポケットからスマホを出して、何かいじり始めた。
「……聞く気ある、って聞いたんだけど」
「ある。続けて」
「スマホいじりながら」
「聞いてるから続けて」
半信半疑で続けた。今日のシステムで詰まったこと。新人研修の最中に一人だけメモが追いつかなくなったこと。昼に同期の子と食堂に行ったら席が全部埋まっていて、結局コンビニに戻ってきたこと。
遼は「うん」「そうか」「それで」だけで相槌を打ち、スマホをいじっている。
でも——ちゃんと聞いている。
「そのシステム、入力の順番が直感と逆なんだろ。最初のやつ間違えると全部ずれる」
話の途中で、遼が突然言った。
「どうして分かるの」
「似たようなの使ったことある。研究室に入ったとき」
「……それで詰まってたのか、私」
「たぶん。順番さえ覚えれば速くなる」
詩織はしばらく遼の横顔を見た。スマホをいじりながら、プリンを食べながら、それでも話を全部拾っていた。
「聞いてないふりして、全部聞いてる」
「普通に聞いてる」
「普通に、ね」と詩織は繰り返した。「遼の普通って、たいてい普通じゃないよ」
「そうか?」
「そうだよ。ありがとう、って言う場面だよ」
「……ありがとう」
「棒読みだけど、まあいいか」
遼が少し口の端を動かした。笑ったのかどうか、暗くてよく分からない。でも動いた。
プリンを食べ終えた。
容器をコンビニのゴミ箱に捨てて、ベンチに戻った。遼はすぐ立つでもなく、もう少し夜の空気の中にいる感じだった。詩織もつられてそうしていた。
コンビニの看板が、二人の足元を白く照らしている。
ふと、遼が言った。
「詩織、向いてると思うぞ、文芸」
「……なんで」
「話の聞き方。人の机の構造をシステムとして理解できるなら、原稿も同じで読める」
詩織はその言葉を、少し時間をかけて受け取った。
遼の褒め言葉はいつも、こういう形で来る。「頑張ってるね」でも「大変だったね」でもない。ただ、観察して、分かったことを言う。それが遼の言い方だ。
「……ありがとう」
「別に」
それから遼が立った。「自転車、取ってくる」
ベンチから立ち上がって、駐輪場の方へ歩いていく。詩織も立った。
少し行ったところで、遼が振り返った。
「駅まで送る」
遼が駐輪場から自転車を引いてきた。押して歩き始める。詩織もその隣に並んだ。
夜の住宅街は静かで、自転車のタイヤの音と二人分の足音だけが聞こえた。
駅の入口の手前で止まった。
「じゃあ」
「うん。ありがとう、プリンも」
「別に」
遼が自転車を持ったまま、少し待っている。詩織が入るのを確認するつもりらしい。
詩織は改札に向かいながら振り返った。
「……また報告する」
「来週も疲れたらLINEしろ。プリン買ってくる」
「毎回プリンなの」
「疲れたときは甘いもの。合理的だろ」
詩織は少し笑った。「……分かった」
改札に向かいながら振り返ると、遼はまだそこにいた。詩織が入るのを見届けてから、自転車を走らせた。
胸の中が、ぽかっとしていた。
あたたかい、とか、嬉しい、とか、そういう具体的な言葉より前に、ただぽかっとしている。
また報告しろ、の「また」が、三月の卒業式の「また連絡する」の「また」と同じ形をしていた。
次もある、ということ。また会う、ということ。
詩織はその「また」を、今夜はちゃんと受け取った。
次の週の月曜日。
昼休みに、高瀬が声をかけてきた。
「桜井さん、先週どうだった。慣れてきた?」
「少しずつ。システムの入力順、やっと覚えました」
「あれ、最初分かりにくいよな。俺も最初めっちゃ詰まった」
「そうなんですか」
「三年経った今でも時々間違える。気をつけて」
そう言って、高瀬は自分のお弁当に戻った。
詩織は、高瀬の横顔を少し見た。
穏やかで、気が利いて、嫌な顔をしない。
素敵な人だ。本当に。
でも——詩織の心のどこかに、金曜の夜の縁石と、プリンと、「また報告しろ」の声があった。
どれだけ高瀬が正しくて誠実で、親切でも、詩織の心はそっちに動かない。
動かない理由は分からない。考えても分からない。
ただ、そういうことだ。
その夜、部屋に帰って、遼にLINEした。
「今日は普通だった」
「そうか」
「高瀬さんがまた助けてくれた」
「いい先輩だな」
「うん。本当に」
少し間を置いた。
「遼ってさ、人に気を遣うとき、どんな気持ちなの」
「何の話」
「人が困ってたら助けるじゃん。それって、しんどくない」
既読になって、少し間があった。
「しんどいとか考えたことない。直せるなら直すだけ」
詩織は画面を見た。
「直せるなら直す、か」
「そうだろ」
「……遼らしい」
「普通だと思うけど」
普通じゃない、と詩織は思った。遼の「普通」は、遼にしかできない。
でもそれを言っても「そうか」で終わるから、言わなかった。
「また明日もがんばる」
「うん。プリンまた食うか」
「毎回プリンなの?」
「疲れたときは甘いもの」
「……まあ、そうだね」
詩織は笑った。
スマホを置いて、窓の外を見た。
夜の東京。マンションの灯りが並んでいる。
あの棟の、あの階の、右から三番目の窓。深夜まで点いている。遼がいる。
また報告しろ、の「また」は、今夜も胸の中にある。
四月は、坂道みたいだ。
登っているのか下っているのか、歩きながらはよく分からない。でも確かに進んでいる。
詩織の職場は、少しずつ慣れていく。高瀬は相変わらず気さくで、原稿の締切は相変わらずカオスで、文芸の仕事は詩織に合っている。
遼は相変わらず「そうか」と「まあ」で喋る。それが詩織には、なんとなく安心できる。
四月が、静かに進んでいく。
そして——
その週の木曜日。
職場で、高瀬が声をかけてきた。
「桜井さん、今週土曜、予定ある?」
「……特には」
「部門の有志で飲むんだけど、来ない? 新人さんも混じった方が楽しいから。ちゃんとした歓迎会は来月あるんだけど、それより先に」
詩織は少し考えた。
「行きます。ありがとうございます」
「よかった。じゃあ詳細送る」
高瀬が自分の席に戻っていく。
詩織はその背中を見ながら、今夜の遼へのLINEの内容を少し考えた。
飲み会に誘われた、と送ったら、「よかったな」と返ってくる気がする。
きっと「よかったな」だ。
それで間違ってないし、それが正しい返事だ。
でも詩織には、その「よかったな」よりも、「プリン食うか」の方がずっと温かい。
なぜなのか。
なぜなのかは、まだ、言葉にできなかった。




