柊遼 Episode 6「変える理由がない」
春になると、柊家に黒い車が来るようになる。
凛がスカウトされた話を、遼は幸江から聞いた。翌日の夕飯の後、台所で皿を洗っている凛に「スカウトの話、どうするの」と聞いた。
「やってみようかな、と思ってる」と凛は言う。「反対しないの?」と凛が聞く。
「止める理由がない」
凛はしばらく黙って、それから「そういうとこが遼らしいね」と笑う。
そういうとこ、が何を指すのか、遼には分からなかった。反対しないことが「遼らしい」のか、理由で判断することが「遼らしい」のか。聞いても凛は「なんとなく」と言うだろう。だから聞かなかった。
翌朝、詩織と登校途中に並んだ。「凛ちゃん、やるって言ったの?」と詩織が聞いた。「うん」と答えた。「止めなかったの」と言われた。
「止める理由がない」
「遼くんは変わらないね」と詩織が言う。
「変える理由がない」
それが正確な答えだった。凛が何かをしたいと言っている。やってみるという。うまくいくかどうかは分からない。でも止める理由が遼にはない。やりたいことをやりたいというのは、凛の問題だ。遼がそこに口を出す道理がない。
しばらく歩いてから、詩織が「そういうとこ、好きだよ」と言う。
「そういうとこ、って何」
「誰かを信じてるとこ」
遼は少し考えた。信じている、という感覚があるかどうか、よく分からない。凛が何かを決めたなら、それはそういうことだ。遼が口を挟む話ではない。
「信じてるっていうか、凛の問題だから」と遼は言う。
「それが信じてるってことだよ」と詩織が言った。「口を挟まないのが」
遼はそれをしばらく考えた。そういうものかもしれない。口を挟まないのは、信じているからか、それとも関心がないからか。遼には区別がつかなかった。でも詩織は「信じてる」と言った。詩織がそう見えるならそうなのかもしれない。
でも詩織が「好き」と言った。それは悪くなかった。
夏になると、凛の帰りが遅くなる。
週に一度か二度、黒いワンボックスが柊家の前に止まって、凛を乗せて出ていく。そういう日は夜の九時を過ぎても凛は帰らない。遼と華で夕飯を食べた。華が「お姉ちゃん遅いね」と言う。「仕事だから」と遼は答えた。「遼は寂しくないの」と華が聞く。「別に」と答えた。
嘘ではない。寂しいという感覚が具体的にどういうものか、遼には判断しにくい。ただ、台所が少し静かになったのは分かる。凛がいるときの方が、音が多い。多い方が、この家らしい。
ある夜、遅く帰ってきた凛に「何か食べた?」と聞いた。「現場で食べてきた」と凛は答えた。「そか」と言って、遼は部屋に戻った。
でもその夜、凛が台所で何かを探している音がした。現場で食べてきた、というのは軽く済ませただけかもしれない。
翌日から、米を多めに炊くようにした。凛が遅く帰ったときに、すぐ食べられるように。それだけのことだ。凛に言わなかった。言う必要がない。米が多く炊いてあれば凛は食べる。それで十分だ。
「なんか最近、ご飯多くない?」と華が言ったのは、それから一週間ほど後のことだ。「そうか」と遼は答えた。華は「遼が多く炊いてるの?」と聞いた。「腹が減るから」と言った。華が「ふーん」と言って、それで終わった。
凛は何も言わなかった。でもある朝、台所に「ありがとう」とだけ書いたメモが置いてあった。誰宛かは書いていなかった。遼には分かった。メモを捨てて、また米を研いだ。
七月になると、凛がテレビに出るようになる。
CMだ、と幸江が言った。「見た?」と幸江が聞く。「見てない」と遼は答えた。「テレビつけなよ」「つけない」「なんで」「別に用がない」。幸江が「薄情ねえ」と笑った。
薄情かどうかは分からない。テレビの中に凛がいるのと、台所に凛がいるのは、遼にとって意味が違う。テレビの凛に何かを言っても凛には届かない。台所の凛なら届く。だからテレビを見ても遼には特に意味がない。そういうことだ。
学校でクラスメイトが「柊くんのお姉さん、CMに出てるんだって」と言った。遼は「そうらしい」と答えた。それ以上の話はしなかった。
ある日の昼休み、詩織が「凛ちゃんのCM、見た?」と聞いてきた。「見てない」と遼は答えた。「なんで」「テレビつけないから」「つけてよ」「なんで」「見たくないの?」「そんなに」。詩織が少し笑った。「なんか遼くんらしい」と言う。「そういうとこ、が何か、また分からない」と遼は言った。詩織がまた笑う。
夏の商店街は人が多かった。詩織と並んで歩きながら、遼はいつもより歩くのがゆっくりになっている。気づかない。
八月の終わり、夕方の商店街で凛と詩織が鉢合わせしているのを遼は見る。
黒いワンボックスが柊家の前に止まって、凛が降りてきた。詩織がちょうどそこを通りかかった。二人が話している。遼は少し離れた場所から、それを見ていた。
凛が家に入ってから、詩織が遼に気づく。
「見てたの」
「通りかかっただけ」
「凛ちゃん、変わったね」と詩織が言った。「そうか」「雰囲気が、なんか」「大人になったんじゃないか」「遼は変わったと思わない?」。
遼は少し考えた。変わったかどうか聞かれても、毎日いるから分からない。毎日少しずつ変わっているのかもしれない。でもそれは今の凛が凛であることと矛盾しない。
「変わっても凛は凛だろ」と遼は言う。
詩織がそれを聞いて、少し黙った。黙ってから「そうだね」と言った。声が少し違った。何が違うのか分からなかった。でも何かが違った。
「詩織は変わった?」と遼は聞く。
「分からない。自分のことは分からないから」
「そうか」
二人で少し歩いた。夕暮れが商店街の屋根の上にあった。幸江の店の前を通ると、幸江が「二人とも寄ってきな」と言った。今日は断った。詩織も断った。なぜ断ったのか、遼には分からない。ただ、もう少し歩きたかった。
秋になって、華が「凛のとこの事務所のオーディション受けたい」と言いに来た。
夕飯の後だった。遼がコイルの調整をしていた部屋に、華が来た。「聞いてほしいことがある」と言って、床に座った。華が床に座るのはだいたい話が長くなるときだ。遼は手を止める。
「受けてみれば」と遼は言う。
「止めないの?」
「なんで止めるんだ」
華がしばらく遼の顔を見た。「そんなにあっさり言う?」と言う。「他に何て言えばいい」と遼は返した。華がため息をついた。「遼って、なんか」と言いかけて止まった。「なんか、分かってくれてる感じがする」と言った。
遼には意味がよく分からなかった。止める理由がないから止めない。華がやりたいと思ったなら、やればいい。それだけだ。でも華が「分かってくれてる」と言った。そういうことなのかもしれない。
「うまくいくといいな」
思ったことを言った。華の目が少し丸くなった。「遼が応援するとは思わなかった」と言う。「応援してるわけじゃない。うまくいくといいな、と思っただけだ」「それが応援だよ」「そうか」。
華が部屋を出ていく。遼は手を動かしながら、華の後ろ姿を少しだけ見た。
オーディションの前日の夜、華がそわそわしている。
台所に何度も来た。冷蔵庫を開けて、閉める。また開ける。何かを食べたいわけでもなさそうだ。遼はそれを見ている。
「緊張してるのか」
「してない」
「してるだろ」
「……少ししてる」
華が椅子に座る。遼は作業の手を止めた。
「なんかした方がいい?」と華が言った。「練習するとか」「明日の朝でいい。今夜は眠れ」と遼は答えた。「眠れないかも」「眠れなくても横になってろ」「それだけ?」「それだけでいい」。
華がしばらく黙った。「遼って、不思議だね」と言った。「何が」「そういうこと言われると、なんか本当に大丈夫な気がする」。
遼には理由が分からなかった。でも華が大丈夫な気がするなら、それでいい。
夜、コンビニに行った。用事はなかった。でも立ち寄って、冷蔵庫を見た。華がプリンを好きなのは知っている。手に取った。一個だけ買った。
帰って冷蔵庫に入れた。誰にも言わない。
翌朝、「プリンあった」と華が言った。「冷蔵庫に余ってた」と遼は答えた。「遼が買ってきてくれたんでしょ」「余ってたから」「ありがとう」。
華がプリンを食べてから、オーディションに出かけた。遼はその背中を玄関から見送った。特に何も言わなかった。でも扉が閉まった後、少しだけ玄関に立ったままでいた。
合格の連絡が来た夜、華が泣いている。
嬉し泣きだ。声を上げて泣くのではなく、呼吸が乱れる感じで泣いている。凛が「おめでとう」と言いながら華の背中をさすっていた。
遼は台所の入り口に立って、それを見る。
「よかったな」と遼は言った。
華が振り返って、泣き顔で「ありがとう」と言った。凛が遼を見て、少し笑った。遼も少し笑ったかもしれない。自分では分からない。
部屋に戻って、机の前に座った。基板がある。今夜やることがある。でも手が動かない。
天井を見た。
台所からまだ声が聞こえる。華の鼻をすする音と、凛が笑っている声と、また華が泣いている音。三人が柊家にいる。今夜は全員が柊家にいる。
母がいない。父はまだ海外にいる。でも今夜、柊家に三人いる。
華が合格した。華がやりたいと言ったことが、形になった。凛も仕事を続けている。二人が外に出ていく。柊家が変わっていく。
うれしかった。
言葉にしなかった。でも、うれしかった。胸の中で何かがゆっくりと広がって、それがしばらく収まらなかった。
手が動き出したのは、それから三十分ほど後のことだ。基板に向かいながら、遼はいつもより丁寧に作業した。なぜ丁寧なのか、自分でも分からなかった。ただ、そうした。
華のオーディション合格を詩織に話したのは、翌日の帰り道だ。
「華ちゃん、合格したんだ」と詩織は言った。驚いた顔ではなかった。受かるだろうと思っていたような顔だ。「うん」と遼は答えた。
「遼、昨日どうしてた」
「部屋にいた」
「機械いじってた?」
「いじれなかった」
詩織が少し遼の顔を見た。「珍しいね」と言う。「そうかもしれない」と遼は答えた。
しばらく歩いた。商店街の手前で、詩織が「遼って、華ちゃんのことすごく好きだよね」と言った。
遼は少し止まった。「好き」という言葉を人に使うことに、遼はあまり慣れていない。でも詩織の言葉は問いではなく、確認だった。答えを求めているのではなく、見えているものを言葉にしただけだ。
「そうだな」と遼は言う。
「凛ちゃんのことも」
「そうだな」
「言わないだけで」
「言う必要がない」
詩織がまた少し黙った。「そういうとこが遼くんだよ」と言った。そういうとこ、が何なのか、今回も分からなかった。でも詩織の声に、責める感じはなかった。それで十分だ。
幸江の店の前を通ったとき、幸江が「華ちゃん受かったって聞いたよ」と言った。「おめでとう、遼くん」と言われた。「俺が受かったわけじゃない」と言い返したら、「そういう意味じゃないよ」と幸江は笑った。遼にはどういう意味か分からなかった。でも幸江が笑っているから、悪い意味ではないと分かった。
この年を通して、遼は変わらない。
毎晩、机の前に座った。基板を見た。部品を確認した。はんだゴテを持った。それだけだ。凛が変わっていっても、華が変わっていっても、遼の部屋の右の窓から灯りが消えることはなかった。
「変わらないね」と詩織に言われたことを、秋になってから何度か思い出した。変わらない、というのが自分の性質なのか、変われないのが自分なのか、考えたことはない。ただ変える理由がないから変えない。それだけだ。
でもこの年、遼は何かを少しだけ知る。
華の背中を見送ったとき、何かがあった。合格を聞いたとき、天井を見た。あれが何なのか、言葉にできない。でも確かにあった。凛が遅く帰る夜に米を多めに炊いた。華が緊張していた夜にプリンを買いに行った。誰にも言わない。言う必要がない。ただ、そうした。
そうすることが、遼には当たり前だ。
その「当たり前」の中身を、遼はまだ言葉にできない。愛情という言葉を使っていいのかどうかも分からない。でも、なくなったら困る。華の泣き顔と凛の笑顔が、この家にある。それが遼にとって「正常に動いている」ということだ。
窓の外、斜め向かいの家。今夜も灯りがついている。
遼は少しだけそれを見て、また手元に戻る。




