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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
柊遼と桜井詩織

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桜井詩織 Episode 4「接触不良」

 中学二年生の十一月は、遼くんの母親がいない秋だった。

 春に旅立った、と学校の誰かが言っていた。海外に行った、舞台の仕事だ、と。詳しくは知らない。でも柊家の朝の様子が少し変わったのは、私にも分かった。台所に灯りがつく時間が変わった。夕方の窓の動き方が変わった。代わりに、隣の惣菜屋から夕食の匂いが柊家の方へ流れていく日が増えた。

 遼くんは変わらない。

 学校での様子も、帰り道の様子も、何も変わっていない。そのことが私には不思議で、少し気になった。でも何も聞かなかった。聞いても「別に」と言うだろうと思っていたから。

 実際、そうだったと思う。

 理科室の出来事は、十一月の半ば。

 二年生の理科は、その頃ちょうど電気の単元に入っていた。実験は簡単なものだ。電球と電池と抵抗を使った回路を組んで、電流と電圧を測る。先生が黒板に書いた通りに配線して、テスターで計測する。それだけのことだ。

 私のグループは順調だった。でも前の方のグループで、声が上がる。

「先生、電球が光らないんですけど」

 理科の坂本先生が近づいていく。配線を見て、首をかしげる。

「おかしいな。配線は合ってる……」

 もう一度確認して、また首をかしげた。先生が困っているのは珍しい。周囲の班もすでに手を止めて見ている。

 遼くんは二つ隣の班にいた。

 自分の班の実験はとっくに終わっていたらしく、ノートに何かを書いている。前の方が騒いでいることに、気づいているのかいないのか、よく分からない顔だ。

 坂本先生が「少し待って」と言い、教卓の方へ戻りかけた。

 そのとき遼くんが立った。

 特に声を上げるわけでもなく、ただ立って、そのグループの実験台に近づいていく。坂本先生が「柊くん?」と言った。遼くんは「少し見てもいいですか」とだけ言った。

 先生が「どうぞ」と言う前に、もう回路に触れていた。

 指で接続部分を一か所ずつ確かめていく。三秒、五秒。七秒目に、一か所で止まった。端子を少し動かした。

 電球が光った。

 ぱっ、と。

 何かを言うよりも先に、光った。

 周囲が「え」とか「おお」とか言った。坂本先生が「どこが」と聞く。

「接触不良でした。端子がちゃんとはまってなかった」

 それだけ言って、遼くんは自分の席に戻った。

 坂本先生は「そうか、ありがとう」と言って、クラス全員に向けて「接触不良には気をつけるように」と言った。

 私はその一連を、自分の席から全部見ていた。

 遼くんは「接触不良だった」と言う。

 でも私には分かった。

 端子を確かめる前に、遼くんの目は一瞬、回路全体を流した。

 それが何秒だったか、詩織には分からない。でもその後に指が止まった場所は、一か所だけだった。

 先生は「接触不良を見つけた」と言った。クラスの誰もそれ以上は考えなかった。

 でも詩織には分かった。遼くんはあの数秒で、全部を見ていた。

 そのことを、私だけが知っている。

 放課後、帰り道が一緒になった。

 十一月の午後は早く暗くなる。四時を過ぎると空が青から橙に変わって、商店街の灯りがぽつぽつと点き始める。

「今日の実験、早く終わったね」

 私が言った。

「うん」

「接触不良って、触っただけで分かるの」

 遼くんは少し考えた。

「なんとなく」

「なんとなく?」

「端子の感触が変わるから。ちゃんとはまってると、少し硬い」

「へえ」

 遼くんは特に自慢する様子もなく、前を向いて歩いている。私にはそういう感触の違いは分からない。分からないことが当たり前で、遼くんには分かることが当たり前で、その差を遼くんは差だと思っていない。

 それが遼くんだった。

 商店街に入ったところで、惣菜屋の前を通りかかった。

「遼くーん」

 エプロン姿の田中さんが、店先から声をかけてくる。五十代の大柄な女で、声が大きく、笑い声はもっと大きかった。

「今日も遅かったね。今日のおかずはひじきとコロッケだよ。どうする」

「コロッケください」

「何個」

「三人分」

「あいよ」

 田中さんが笑いながら包み始める。私は少し後ろで立っていた。

「あんたが詩織ちゃんかい」田中さんが私を見た。「よく遼くんから聞くよ。幼なじみでしょ」

「あ、はい」

「世話になってるね。ありがとうよ」

 別に何もしていない。でも何も言えなかった。

 遼くんがコロッケの包みを受け取る。財布を出す。

「いいよお金は」

「いいです、払います」

「遼くんは頑固ねえ」

 田中さんが笑いながら受け取った。

「凛ちゃんにも言っといて。今日は早めに帰っておいでって」

「言います」

「頑張ってるね、三人とも」

 遼くんは何も言わなかった。少し間があって、「田中さんが隣にいるので」とだけ言った。田中さんは「あたしは隣にいるだけだよ」と笑う。

 歩き出してから、私は少し振り返った。

 田中さんが店先でまだ笑っている。

 遼くんはコロッケの包みを鞄と反対の手に持ちながら、前を向いて歩いていた。

 柊家の前で別れた。

 私は家に入って、台所で鞄を下ろす。

 母はまだ帰っていない。テーブルに昨日のチラシが置きっぱなしになっている。朝と変わらない、静かな家。

 しばらく立ったまま、何もしなかった。

 台所の窓から、斜め向かいの柊家の窓が少し見える。まだ灯りはついていない。凛ちゃんは高校から帰る時間がまだだろう。華ちゃんは小学五年生で、もう帰っているかもしれないが、台所の灯りはまだ暗い。

 しばらくして、二階の右の窓に灯りが入った。

 遼くんの部屋。

 いつものように、確認した。

 ついている。

 それだけで、少し落ち着く。

 でも今日は、もう少し考えていた。

 田中さんが言った。「頑張ってるね、三人とも」

 遼くんは「田中さんが隣にいるので」と言った。

 それだけで、遼くんには十分なのだと思う。誰かが隣にいる。それで続けられる。

 私は。

 私には、隣に誰もいない。

 母はいる。でも母との間には、ずっと薄い幕がある。父が出ていってから、その幕は消えていない。何かを話そうとすると、透明な壁にぶつかる感じがして——そこで止まる。

 だから私は本を読む。

 本の中の声を聞く。

 それで眠れる夜は、まだいい方だった。

 その夜、珍しく遼くんからLINEが来た。

「今日の理科、もう一つ直すとこあったんだけど言いそびれた」

 私は少し驚いた。

「どこ」

「抵抗値が計算と合ってなかった。でもそっちは実験の誤差範囲内だったから言わなくていいか、と思って」

「そんなとこまで見てたの」

「見てただけ」

 見てただけ。

 その言葉を、画面を見ながら頭の中で転がした。

 あの数秒間に、接触不良を直しながら、抵抗値の誤差まで確認していた。先生も気づいていない。クラスの誰も知らない。

 私だけが、今知った。

「すごいね」と打とうとして、やめた。

 遼くんに「すごい」と言っても「普通だろ」と返ってくる。それを知っているから。

 代わりに「そっか」と打った。

 既読がついて、返信は来なかった。

 私はスマホを置いて、窓を見る。

 右の窓。灯りはまだついている。

 もう少し、ついていてほしかった。

 眠れない夜に、いつも考えることがある。

 クラスの誰かが遼くんの話をするとき、私はいつも少し余分なことを知っている。

 今日の接触不良なら、実は抵抗値の誤差も確認していたこと。ラジカセのとき、スピーカーのコードだけじゃなく、他の部分もついでに確かめていたこと。遼くんが機械をいじるとき、口では一か所だけ言っても、目は全部を見ていること。

 それを知っているのは、私だけだ。

 遼くん自身は、わざわざ言わない。先生も、クラスメートも、知らない。

 私だけが、知っている。

 この「私だけが知っている」という感覚が、胸のどこかで静かに温かかった。温かい、という言葉が正しいかどうかは分からない。でも確かに何か、熱を持った感覚があった。

 表で見えている部分じゃなく、言葉にならない部分を、見ている人間が私だということ。その感覚に、名前をつけるのが怖かった。

 だからつけなかった。ただ、胸の奥にそっとしまって、蓋をした。

 蓋をした、はずだった。

 十一月の終わり、廊下で聞こえた会話がある。

 遼くんのクラスの女子が二人、小声で話していた。

「柊くんって、家大変らしいじゃん」

「お母さん海外に行っちゃったんだって」

「でもそういう話、全然しないよね」

「しないよね。なんか、かっこいいよね。気にしてないみたいで」

 私は本棚の前でそれを聞いた。

 聞こえてしまった。

 気にしてないみたいで、かっこいい。

 違う、と思った。感情が出てくる前に、冷えた何かが胸を通り過ぎた。

 違う。あなたたちは何も知らない。

 遼くんが気にしていないわけじゃない。気にしているかどうかも、遼くんは言葉にしない人なのだ。言わないだけで、見ている。田中さんに「隣にいるので」と言える人間が、何も気にしていないはずがない。

 そのことを、私は知っている。あなたたちは知らない。

 廊下の二人は笑いながら行ってしまった。

 私はそこに立ったまま、本の背表紙を見ていた。感情は外に出なかった。出す場所がなかった。

 胸の奥で、何かが静かに動いている。熱くもなく、冷たくもない。ただ、確かに動いている。

 遼くんのことを、私は知っている。それだけでいい。それだけあれば、あの二人が何を言っても、どうでもよかった。

 どうでもよかった——

 本当に?

 その問いに、すぐには答えられなかった。答えたくなかったのかもしれない。

 夜、窓から右の灯りを確認した。

 ついている。変わらずそこにある。

 私はそれを見ながら、今日の廊下のことを思い出した。かっこいいよね、と言っていた声。その声を、今度はゆっくりと、静かに、頭の中で消していった。

 急がなかった。時間をかけて、丁寧に消した。

 消してから、また窓を見る。

 遼くんの灯り。右の四角い光。

 それだけが残った。

 それだけが、残ればよかった。

 遼くんのことを知っているのは私だ。知り続けるのも、私でなければならない。

 その確信が、この夜に少しだけ深くなった。深くなったことに、気づいていなかった。

 気づいていない、ということ自体が、すでに怖いことだったかもしれない。

 でも私はただ、灯りを見ていた。灯りが消えるまで。

 消えてから、布団に入った。

 瞼の裏に、白い四角が残った。遼くんの部屋の窓の形。毎晩、同じ場所に、同じ形で残る。

 それが当たり前になっていた。

 当たり前になっていること自体を、私は疑わなかった。

 疑えなかったのか、疑わなかったのか。

 もう、どちらか分からない。

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