陸(ろく)話「来年もよろしくお願いします」
十二月に入ると、商店街に飾りが増えた。
電球のイルミネーションが軒先に並んで、夕方になると橙色の光が通りを照らした。惣菜屋「たなか」の店先にも、小さなリースが一つ飾ってあった。幸江が自分で作ったのか買ったのか、華には分からなかったが、なんとなく似合っていた。
柊家の三兄妹は、その年初めての年末を、三人だけで迎えようとしていた。
父は海外にいる。母も海外にいる。帰ってくる予定はない。
別に、それでいい。
凛はそう思っていた。思おうとしていた。
十二月は忙しかった。凛は高校の期末試験があって、遼は中学の試験があって、華は小学校の発表会があった。それぞれに別々の忙しさがあって、気がついたら十二月の後半になっていた。
クリスマスは三人でケーキを食べた。
スーパーの半額になったやつだったが、華が「やったー」と言ったので、それでよかった。
年越しまで、あと数日になった。
大晦日の三日前、幸江が声をかけてきた。
夕方、凛が買い物から帰ってくると、惣菜屋の前で幸江が待ち構えていた。
「凛ちゃん、大晦日、うちに来な」
凛は少し止まった。
「え」
「年越しそば食わせてやるから。三人で来な」
「でも、ご迷惑では」
「迷惑な人間に声かけるかよ」
幸江はあっさり言った。
「うちはどうせうるさいから、一人増えても二人増えても変わらない。来な」
「あの、でも」
「来な」
凛は少し考えた。
断る理由を探した。でも出てこなかった。
三人だけの年越し。それでいいと思っていた。思おうとしていた。でも正直に言えば、少し、怖かった。年が明ける瞬間に、三人だけでリビングにいる。テレビの前でカウントダウンする。それが、どんな気持ちになるのか、想像するのが少し怖かった。
母が出発してから、九ヶ月が経っていた。
「……ありがとうございます」
凛は頭を下げた。
「じゃあ、お邪魔します」
「よし」
幸江は満足そうに言って、店に戻っていった。
凛はしばらく、その背中を見ていた。
誘ってくれる人がいる、ということが、こんなに温かいものだとは知らなかった。
大晦日の夜、三人で幸江の家に向かった。
隣だから、歩いて十秒。
でも凛には、その十秒が少し特別に感じられた。三人で夜に外に出て、どこかに向かう。それだけのことが、九ヶ月ぶりにあった気がした。
凛が呼び鈴を押すと、すぐに幸江が出てきた。
「おう、来た来た。入って入って」
玄関を開けると、出汁の匂いがした。
昆布と鰹節の、深い匂いだった。朝からとっている、と言っていた。それだけの手間をかけてくれたのだと思ったら、凛はなんだか胸の奥が少し痛くなった。
奥からテレビの音がした。紅白歌合戦だった。
「脱いで上がって。狭いけど」
上がると、リビングに幸江の旦那が座っていた。六十近い、静かな顔をした男だった。
「おう、いらっしゃい」
それだけ言って、すぐテレビに向き直った。
「あの人はああいう人だから気にしないで」と幸江が言った。
幸江の息子が二人いた。どちらも大学生で、どちらも「どうも」と言ってスマホを見ていた。
柊家の三人は、少し肩を寄せてリビングの隅に座った。
「狭いね」と華が小声で言った。
「静かにしてな」と凛が言った。
「別に静かにしなくていいよ」と幸江が台所から言った。
どうやら耳がいいらしかった。
華が「すごい」。遼が「……耳がいいな」と言った。
幸江が「当たり前だよ、惣菜屋は耳で商売するんだから」と言った。
意味はよく分からなかったが、三人は少し笑った。
それだけで、少し空気がほぐれた。
年越しそばは、八時頃に出てきた。
どんぶりに盛られた、太くてつゆの濃いそばだった。
「多い」と遼が言った。
「食べな」と幸江が言った。
華が一口食べて「おいしい」と言った。
「でしょ。出汁は朝からとってるから」
「朝から?」
「そうよ。大晦日くらいちゃんとやらないと」
凛はそばを食べながら、この家の温度を感じていた。
うるさかった。テレビがついていて、幸江の旦那が時々独り言を言って、幸江の息子の一人がスマホで誰かと通話を始めた。幸江が「うるさい、外でやれ」と言って、息子が渋々廊下に出た。
うるさかった。でも、温かかった。
凛はそばを食べながら、少し思った。
こういう年末を、ずっと送ってきたのだ。この家は。毎年毎年、この家でこうやって年を越してきた。 笑い声があって、テレビの音があって、誰かが怒って、誰かが笑って。そういう年末を、ずっと。
そこに今年は、隣の三人が加わっただけだ。
それが、なんだかありがたかった。
ありがたい、という言葉では足りない気もしたが、他の言葉が出てこなかった。
九時を過ぎると、華は幸江の隣に入り込んでいた。
幸江がテレビを見ながら歌手の話をしていて、華がそれに乗っかっていた。
「この人、知ってる?」
「知ってる! 学校で流行ってる」
「そうなの。おばちゃんも好きよ」
「え、意外」
「なんで意外なの」
「なんかもっと演歌とか聴くと思って」
「失礼な子だね」
幸江が笑った。華も笑った。
遼はそばのおかわりをしていた。
凛は幸江の旦那と、なぜかいつの間にか話していた。
「高校生か」
「はい」
「勉強大変か」
「まあ、普通です」
「そうか」
それだけで会話が終わった。でも、悪い気はしなかった。
この人はこういう人なのだろう、と思った。多くを聞かない。多くを言わない。でも、隣にいる。
幸江も、そうだった。
凛はそばの残りを食べながら、ふと思った。
今年一年、この隣の家に、どれだけ助けてもらったか。
華の膝。凛の熱。夕食や数え切れないほどの面倒をかけた。
大したことじゃない、と幸江はいつも言った。でも大したことだった。三人だけでは、どうにもならなかった瞬間が、確かにあった。
幸江は一度も「大変だったね」と言わなかった。「頑張ったね」とも言わなかった。ただ、隣にいた。おかゆを作って、コロッケを渡して、話を聞いた。
それだけで、三人は一年を越えてこられた。
十一時を過ぎると、カウントダウンの空気になってきた。
幸江の息子たちもスマホを置いて、テレビを見ていた。
紅白歌合戦も大トリに近づいてきている。
あと三十分で、年が明ける。
凛は少し、緊張していた。
なぜ緊張しているのか、自分でもよく分からなかった。年が明けるだけだ。特に何も変わらない。明日になっても、父は海外で、母は海外で、三人で家にいることに変わりはない。
でも、年が明ける瞬間というのは、なぜか特別だった。
今年が終わる。
三人で夕飯を作って、三人で洗い物をして、三人でテーブルを拭く日常が、九ヶ月続いた。大変なこともあった。華が学校で転んで、凛が熱を出して、遼が冷蔵庫を直して。いろんなことがあった。
でも、どうにか来た。
それを思ったら、少し、胸が詰まった。
隣を見た。
華が画面を食い入るように見ていた。遼が珍しくテレビの方を向いていた。
この二人と一緒に、今年を越えた。
来年も、越えていくのだろう。
そう思ったら、なぜか泣きそうになった。泣くほどのことではないのに。ただの年越しなのに。
凛は少し目を伏せた。
華やかに紙吹雪が舞い紅白歌合戦が終わった。
15分もすると、テレビの画面がカウントダウンを始めた。
幸江の旦那が「ほれ、もうすぐだ」と言った。
幸江の息子たちが画面を見た。
華が「あと十秒!」と言った。
遼が少し画面を見た。
十、九、八、七、六、五、四、三、二、一——
「あけましておめでとう!」
華の声が一番大きかった。
幸江の旦那が「おめでとう」と静かに言った。
幸江の息子たちが「おめでとうございます」と言った。
遼が「……おめでとう」と言った。
幸江が「おめでとう!」と言った。でかい声だった。
凛は、幸江の方を向いた。
頭を下げた。
少し言葉に詰まった。「今年も」という言葉を使うのが、なぜか照れくさかった。今年も、というのは、去年もお世話になったということで、来年もよろしく、というのは、また頼るということで、それを口にするのが、凛にはまだ少し難しかった。
でも言った。
「今年も……よろしくお願いします」
幸江は笑った。
でかい笑い声が、狭いリビングに響いた。
「水くせえ」
「すみません」
「謝んなくていい。こっちこそよろしく」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
凛は少し、目が滲んだ。
滲んだだけで、泣かなかった。泣くつもりもなかった。でも、目が熱かった。
幸江は気づいているのかいないのか、すでにテレビの方を向いていた。
それがありがたかった。
帰り道、三人は横並びで歩いた。
といっても、隣の家まで十秒の道のりだったが。
東京の夜は冷たかった。空が澄んでいて、星が少しだけ見えた。
華が「来年も行きたい」と言った。
「来年もって、もうすでに来年だけど」と凛が言った。
「あ、そっか。今年の大晦日も行きたい!」
「……そうだね」
凛は少し笑った。
遼が「そばうまかった」と言った。
「そこかよ」と華が言った。
「出汁が違う」
「朝からとってるって言ってたね」
「手間かかってるんだろうな」
遼は少し考えてから言った。
「来年も行けるといいな」
凛は遼を見た。
遼はもう玄関の鍵を出していた。何でもない顔をしていた。
でも、言った。
来年も行けるといいな、と言った。
「さっきの華との話を聞いてた?」
凛はそれがなんだかおかしくて、おかしくて、でも少し泣きそうになって、結局笑った。
「行こう」
「うん」と華が言った。
「……まあ」と遼が言った。
鍵が開いた。
三人で家に入った。
リビングの電気をつけた。
いつもの家だった。テーブルがあって、遼のモニターがあって、華のリュックが床に置いてあった。
何も変わっていない。
でも、今年が終わった。
凛は電気をつけたまま、少し立っていた。
母が出発するとき、空港で見送った。由紀は笑っていた。泣かなかった。凛も泣かなかった。遼は無表情で、華だけが少し目を赤くした。
あの日から、九ヶ月が経った。
どうにかやってこれた。
隣に、田中のおばちゃんがいたから。
それだけで、十分だった。
「お姉ちゃん、早く寝よ。元旦から眠そうな顔したくない」
華が言った。
「そうだね」
凛は笑って、自分の部屋に向かった。
階段を上がりながら、思った。
来年も、どうにかなるだろう。
隣に、あの人がいる。
次回より数話、遼と詩織の“言葉にしない時間”を描きます。
派手な展開はありません。
ただ、心の中で揺れているものを、静かに追いかけます。
遼はまだ、自分の感情に名前をつけられません。
その不器用さに、少し苛立つかもしれません。
でも、それが彼らの速度なのだと思っています。




