伍話「あたしが見る」
田中幸江は、毎朝六時に起きる。
惣菜屋の仕込みは早い。出汁をとって、煮物の下ごしらえをして、揚げ物の準備をする。旦那は七時に起きて朝飯を食べて仕事に行く。息子たちは大学があるときだけ起きてくる。ないときは昼まで寝ている。
幸江はそれを特に気にしなかった。
自分の朝は、自分のものだ。
六時の商店街は静かだった。シャッターが閉まっていて、犬の散歩をしている老人が一人二人いるくらいだ。幸江は店の前を掃いて、仕込みに戻る。それが毎朝のことだった。
十一月に入ってから、柊家の朝が少し変わった。
正確に言えば、柊凛の朝が変わった。
六時半頃、隣の家の電気がつく。台所の窓から光が漏れる。しばらくすると、何かを炒める音がする。それから、遼と華が出てくる時間が、少し早くなった。
幸江は気づいていたが、何も言わなかった。
ただ、見ていた。
幸江が由紀と初めて話したのは、もう二十年以上前のことだった。
海斗と由紀が越してきた日、惣菜屋の冷蔵庫が壊れていた。夏の盛りで、このままでは惣菜が全部駄目になる。幸江が途方に暮れていると、引っ越しの荷物を運んでいた海斗が気づいた。
「見てもいいですか」
幸江が「え?」と言う間もなく、海斗は背面パネルを外していた。三十分後、冷蔵庫は動いていた。
「あんた何者だ」と幸江が言った。
海斗は「部品が劣化してたんで」とだけ言って、引っ越しの作業に戻っていった。
翌日、幸江は惣菜を持って隣に挨拶に行った。
出てきたのは由紀だった。
細い女だった。でも目が強かった。
「昨日は主人がお世話になりました」と由紀が言う。
「何言ってんだい。こっちがお世話になったんだよ」と幸江が笑いながら言った。
そこから話が始まった。
幸江はすぐに由紀を気に入った。
それから付き合いが続いた。凛が生まれて、遼が生まれて、華が生まれた。幸江は三人全員の赤ちゃんの頃を知っている。よちよち歩きも知っている。凛が初めて「田中さん」と言えた日も、遼が初めて工具を握った日も、華が初めてコロッケを「おいしい」と言った日も、全部見ていた。
由紀が「行く」と言ったのは、三月の終わり。
夜、惣菜屋が閉まってから、由紀が一人でやってきた。珍しかった。いつもは昼間に来るか、子供たちを連れてくるかだった。
「田中さん、少しいいですか」
「いいよ。上がって」
二人でお茶を飲んだ。
由紀は少し間を置いてから言う。
「海外に行くことにしました」
幸江は驚かなかった。
驚かなかったというより、いつかそうなると思っていた。由紀の目は、ずっとどこか遠くを向いていた。子供たちのことを愛していないわけではない。でも由紀の中には、ずっと別の何かがあった。それが何なのか、幸江には分からなかったが、それが由紀を由紀たらしめているものだということは分かっていた。
「そうか」
「凛たちのこと、心配で」
「そうだろうね」
「でも、行かなかったら、ずっと後悔すると思って」
「そうだろうね」
幸江はお茶を飲む。
「子供たちはどう言ってるの」
「凛が『行っていいよ』と言いました」
「そうか」
「十五歳なのに」
由紀の声が、少し細くなった。
「強い子ですね、凛は」
「由紀ちゃんに似たんでしょ」
「私はそんなに強くないです」
「強いよ。強いから行けるんだから」
由紀は少し黙った。
「田中さん」
「うん」
「子供たちのこと、見ていてもらえますか」
幸江はお茶を置いた。
由紀を見た。
細い女だった。でも目が強かった。二十年経っても、そこは変わっていなかった。
「由紀ちゃんが行くなら、あたしが見る」
それだけ言った。
由紀が頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。行っておいで」
その夜のことを、幸江は今でも時々思い出す。
十一月のある夕方、幸江は惣菜の仕込みをしながら、柊家のことを考えていた。
あれから七ヶ月が経った。
凛は高校一年生で、遼は中学二年生で、華は小学五年生だ。三人で家を守っている。由紀がいなくなってから、一度も大きく崩れなかった。
崩れなかった、は少し違うかもしれない。凛は熱を出して、遼は困った顔で玄関先に立っていて、華は惣菜屋の裏で泣きそうになっていた。それぞれに、しんどい瞬間があった。
でも崩れなかった。
幸江は三人を見ながら、由紀のことを思っていた。
由紀は正しかった。
行っておいで、と言ったのは本心だった。由紀には行く理由があった。でもそれと同時に、幸江は少し心配していた。十五歳と十三歳と十一歳で、本当に大丈夫なのかと。
しかし大丈夫だった。
大丈夫、というのは、何もなかったということではない。いろんなことがあった。でも三人は、それぞれのやり方で乗り越えた。凛は頑張りすぎて熱を出したが、おかゆを食べて少し頼ることを覚えた。遼は無口なままだが、冷蔵庫を直してコロッケを受け取った。華は惣菜屋の裏で話をして、少し強くなった。
幸江がしたことは、大したことではなかった。
学校に行って、おかゆを作って、コロッケを渡して、話を聞いた。それだけだ。
でも、それだけで十分だったのかもしれない。
幸江はそう思っていた。
その日の夕方、遼が惣菜屋に来た。
珍しかった。遼から来ることはほとんどない。いつも幸江が持っていくか、華がふらっと寄るかだった。
「田中さん、冷蔵庫の調子はどうですか」
「ああ、あれからずっと元気だよ」
「そうですか」
「なんか気になったの?」
「いや、別に」
遼は少し店の中を見る。
「今日のおかず、何かありますか」
「肉じゃがと、あとひじきの煮物」
「両方ください」
幸江は少し笑う。
「珍しいね、自分で来るの」
「凛が今日遅いので」
「そうか。いくつにする?」
「三人分」
幸江は肉じゃがとひじきを容器に詰めた。遼が財布を出した。
「いいよ、お金は」
「いいです、払います」
「いいって」
「いいです」
遼は頑として払った。幸江は受け取った。
遼が帰りかけたとき、幸江は言った。
「遼くん」
「はい」
「凛ちゃんが帰ってきたら、あったかいうちに食べな」
「分かりました」
「あと」
幸江は少し考えてから言った。
「三人とも、よくやってるよ」
遼は少し止まった。
振り返らなかった。でも、少し間があった。
「……田中さんが隣にいるので」
「あたしは隣にいるだけだよ」
「それが助かってます」
遼はそのまま歩いていく。
幸江はその背中を見ていた。
中学二年生の背中だった。でも、どこか大人みたいだった。
由紀ちゃん、と幸江は心の中でつぶやく。
子供たち、ちゃんとやってるよ。
夜、惣菜屋を閉めてから、幸江は店の前に立った。
十一月の夜は冷たかった。
柊家の窓に、明かりがついていた。
台所の窓と、二階の窓が二つ。たぶん遼の部屋と、華の部屋だ。凛の部屋はまだ暗かった。まだ帰っていないのだろう。
しばらくして、玄関の明かりがついた。
凛が帰ってきたのだろう。
台所の窓の明かりが、少し動いた。
夕飯の支度を始めたのかもしれない。
幸江はしばらく、その明かりを見ていた。
三つの明かりが、それぞれに灯っている。
父も母もいない家で、三人が三人の場所で、それぞれの夜を過ごしている。
寂しくないわけがない。でも、壊れていない。
それで十分だと、幸江は思った。
由紀ちゃんが行くなら、あたしが見る。
そう言った。今も、そう思っている。
見ている、と言っても、大したことはしていない。おかゆを作って、コロッケを渡して、話を聞くだけだ。
でも、隣にいる。
それだけは、続けられる。
幸江は店の中に戻った。
シャッターを閉めた。
柊家の窓の明かりが、シャッターの隙間から少しだけ見えていた。




