肆話「惣菜屋の裏」
華が田中幸江のことを「田中のおばちゃん」と呼ぶようになったのは、九月に入った頃だった。
凛は「田中さん」と呼ぶ。遼も「田中さん」と呼ぶ。でも華だけは、いつの間にか「田中のおばちゃん」になっていた。
幸江は特に訂正しなかった。
華も特に気にしなかった。
そういうものだった。
きっかけは、小さなことだった。
九月の初め、華のクラスに少し面倒な子がいた。
いじめとか、そういう話ではない。ただ、なんとなく合わない子がいた。何かにつけて華に絡んでくる。悪意があるのかないのかも分からない。ただ、一緒にいると消耗した。
小学五年生にとって、それは十分しんどいことだった。
家に帰って、凛に話した。
凛は夕飯の支度をしながら聞いていた。ちゃんと聞いていた。でも最後に「そういうこともある。あまり気にしないで」と言った。
正しかった。正しいのは分かっていた。でも何か違った。
遼に話した。
遼は基板を眺めながら「そうか」と言った。
それだけだった。
誰も悪くなかった。凛は忙しい中でちゃんと聞いてくれたし、遼はいつも通りだ。でも華が欲しかったのは、正しい答えでも「そうか」でもなかった。
ただ、もう少し聞いてほしかった。
翌日の放課後、華は学校から帰る途中で惣菜屋の前を通った。
幸江が店先で揚げ物をしていた。
「あら、華ちゃん。おかえり」
「ただいまです」
華は少し足を止めた。
「田中のおばちゃん、ちょっといい?」
「いいよ。どうした」
「クラスに、なんか合わない子がいて」
幸江は手を動かしながら聞いた。揚げ物のトングを持ったまま、華の方を向いた。
「どんな子?」
「なんか、いちいち絡んでくるんだよね。悪い子じゃないと思うんだけど、一緒にいると疲れるっていうか」
「その子、何組?」
「同じクラス」
「毎日顔合わせるのか。それはしんどいね」
「でしょ」
華は少し前のめりになった。
「凛お姉ちゃんは『気にしないで』って言うんだけど」
「凛ちゃんらしいね」
「気にしないのが正しいのは分かるんだけど」
「でも気になるんでしょ」
「気になる」
「そうだね」
幸江はそれだけ言った。解決策も、アドバイスも、何も言わなかった。
でも「そうだね」の二文字が、何かを溶かした気がした。
「……あんたが悪いことしたの?」
「してない」
「じゃあ気にすんな」
「それ凛お姉ちゃんと同じこと言ってる」
「同じことだよ。でもまあ、気にするよね」
幸江はコロッケを一つ、紙に包んで華に渡した。
「食べな。揚げたて」
「ありがとう」
華はコロッケを食べた。
外はまだ少し暑かった。でも九月の風が、少しだけ涼しかった。
「おばちゃんってさ」
「うん」
「昔、嫌いな人とかいた?」
「いたよ。いっぱい」
「どうしてた?」
「気にしないようにしてた」
「……やっぱりそれか」
「それしかないんだよ、結局」
幸江は笑った。でかい笑い声だった。
「でもね、華ちゃん」
「うん」
「気にしないようにするのと、気にならなくなるのは、違うから」
華は少し考えた。
「どう違うの」
「気にしないようにするのは、自分で決めること。気にならなくなるのは、時間が経てばそうなること。最初は気にしないようにするしかない。そのうち気にならなくなる」
華はコロッケを食べながら、それを聞いていた。
「……凛お姉ちゃんの言い方より分かりやすい」
「凛ちゃんは答えを出すのが早いから」
「そう、答えが早いんだよ」
「あんたは答えより、途中が欲しいんでしょ」
華は少し驚いた。
「……そうかも」
「だいたい分かるよ。そういう子いるから」
幸江はまた笑った。
華も笑った。
それから、華は惣菜屋に寄るようになった。
毎日ではない。でも、なんとなく気が向いた日に、学校帰りに寄った。
特に用があるわけではなかった。ただ寄った。幸江は「おかえり」と言った。華は「ただいま」と言った。それだけのことだったが、それで十分だった。
幸江は忙しいときでも、手を動かしながら聞いた。夕方の仕込みをしながら、揚げ物をしながら、レジを打ちながら。ちゃんと聞いているのかと思うくらいのながら聞きだったが、要所要所で「それで?」とか「そいつ何がしたかったんだろね」とか言った。
深く掘り下げないし、解決もしない。
でも華には、それが一番楽だった。
凛は答えをくれる。遼は「そうか」で終わる。幸江は途中を一緒にいてくれる。
それぞれ違っていて、でも全部ありがたかった。
コロッケは、いつも揚げたてだった。
九月の終わり頃、華がいつものように惣菜屋の裏の椅子に座っていると、幸江が店の中から声をかけた。
「華ちゃん、そのクラスの子、最近どう?」
「なんかよく分かんないけど、少し慣れた」
「そうか」
「絡んでくるのは変わらないけど、なんか気にならなくなってきた」
「そうだよ。そういうもんだよ」
幸江が出てきて、華の隣に立った。
「慣れるのと、諦めるのは違うよ。慣れたのは、あんたが強くなったんだから」
「そうかな」
「そうだよ」
幸江は華の頭に手を乗せた。ぽん、と一回だけ。
「あんた偉いよ、ほんとに」
華は少し照れた。
「別に大したことしてないけど」
「大したことしてるよ。毎日学校行って、嫌なこともあって、それでも笑ってるんだから」
華は何も言わなかった。
何か言おうとして、少し目が熱くなった。
泣くほどのことでもなかった。でも、なぜか泣きそうだった。
幸江は特に気にした様子もなく、「コロッケ食べな」と言って店に戻っていった。
華は揚げたてのコロッケを食べながら、夕方の商店街を見ていた。
人が行き来していた。買い物袋を持ったおばさん、自転車で走る小学生、仕事帰りらしいスーツの人。
みんなそれぞれの日常を生きていた。
華も、そのうちの一人だった。
それが、なんだか少し、嬉しかった。
夜、柊家のリビング。
凛が「最近、帰り遅いね」と言った。
「田中のおばちゃんとこ寄ってた」
「そうなの。何か用事でもあった?」
「別に。なんとなく」
凛は少し考えた。
「田中さん、いい人だよね」
「うん」
遼がモニターから目を離さずに言った。
「コロッケうまいし」
「そこかよ」と凛が言った。
華は笑った。
遼は間違っていない、と思った。
コロッケはうまい。でもそれだけじゃなかった。
それを言葉にするのは難しかったので、華はただ笑っていた。




