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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第一部「機械をいじっていたい、それだけなのに」

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WBC開幕投手・広瀬琢磨「ありがとう、遼」

 WBC(World Baseball Classic)。

 開幕戦当日の朝、広瀬琢磨はホテルの窓から空を見ていた。

 曇り。風は弱い。投手有利の気候。

 そういう計算をしている自分に気づいて、少し笑う。プロ五年目になって、ようやくこういう計算が自然にできるようになった。一年目には、思いもしなかったことで。

 ベッドに座ったまま、しばらく動かない。昨夜は思ったよりよく眠れた。七時間。コーチには「八時間寝ろ」と言われているが、七時間あれば十分だと経験で知っている。

 スマホの画面を開く。LINEの通知が並ぶ。チームメイト、代理人、高校の先輩、リトル時代の監督。全部後で読もうと思いながら、一つだけ指が止まる。

 「柊遼」

 最後のやり取りは三日前。通知は来ていない。

 「開幕の先発、俺になった」と送ったのは広瀬で、三時間後に返ってきた返信は一言。

 「そうか」

 それだけ。

 もう一度、小さく笑う。スタジアムへ向かうバスの時間まで、あと一時間以上ある。広瀬は窓の縁に肘をついて、曇り空を眺めた。

 七年前のことが、ふと浮かぶ。

 夏の地方大会、三回戦。広瀬は二年生で、マウンドに上がっていた。


 自慢のストレートが弾き返された。

 フォーシームで押せば空振りが取れる、そう思っていた。甘かった。一打席目の四番、外角の速球を逆方向へ持っていかれる。ライト線の二塁打。

 スライダーを投げた。キレがない。変化が浅い。引っ張った左バッターに詰まらせるはずが、ポテンヒット。

 フォークが落ちなかった。ストライクを取りに行って真ん中に浮いた球を、右中間へ運ばれた。

 打たれた。また打たれた。また打たれた。

 五回を投げ終えて、打線の援護でなんとか勝った。リリーフが後ろを抑える。ベンチの誰かが「よかったよかった」と言っていた。

 広瀬は黙っていた。

 自分に何が起きているか、分かっていた。体が悲鳴を上げているわけじゃない。球速は出ている。フォームも崩れていないように見える。なのに、投げた瞬間から何かが違う。

 指先が、自分のものじゃないみたい。

 次の日の練習、ブルペンに入った。キャッチャーの構えたミットを見た。

 投げられない。

 立ったまま、二十秒くらい固まっていた。何かが、喉のあたりで詰まっている感じ。手は動く。でも何かが足りなくて。

 ミットまでの距離が、急に遠く見えた。


 次の練習でもブルペンに入ったが、やはり同じだった。

 仕方なく走り込んで、トレーニングをして、球場を後にした。コーチには「少し様子を見る」と言った。そういう時期もある、と言ってもらった。でも広瀬には分かっていた。体の問題じゃない。

 一週間経っても、変わらない。

 二週間経っても、変わらない。

 ブルペンに入るたびに、ミットが遠くなる。投げようとするたびに、何かが詰まる。腕が動いても、ボールに気持ちがついていかない。

 こういう状態に名前がある。

 チームメイトの一人が「イップスかもな」と小声で言っているのを聞いた。広瀬は聞こえないふりをした。

 病名がついても、別に楽になるわけじゃない。


 グラウンドのフェンス際で一人でいたのは、夕方のこと。

 部活は終わっていた。帰る気になれなくて、何をするわけでもなく立っている。

 辞めよう、と思っていた。

 正確には、もう決めていた。あとは誰かに言うだけ。コーチに、キャプテンに、どこかのタイミングで言えばいい。迷惑をかけた人数を数えると胸が重くなるから、それは考えないようにしていた。推薦で来た身で、二年の夏に折れる。後輩への申し訳なさも、OBへの申し訳なさも、全部後で考えるつもりで。

 「さぼり?」

 振り返ると、隣のクラスの柊遼が立っている。

 グラウンドの横は近道になっていて、部活のない人間がよく通る。広瀬も知っていた。ただ声をかけられるとは思っていなかった。

 広瀬と遼の接点は薄い。同じクラスではないし、部活も違う。話したことが何度かある程度で。

 「やめようかと思って」

 なぜそう答えたのか、自分でも分からない。もっと曖昧な返し方をすればよかった。でも口から出た言葉は正直で。

 「なんで?」

 遼の声に、特別な感情がない。驚きでも、励ましでも、心配でもない。ただ聞いた。それだけ。

 「投げ方が分からなくなった」

 短い沈黙。

 遼はしばらく広瀬を見ていた。視線に重さがない。品定めでも、哀れみでもない。ただ見ている。

 「ちょっと投げてみて」

 「……え」

 「動画撮る。見てみたい」

 スマホを横向きにして、カメラを向けてくる。

 断る理由がなかった。もう何も残っていないとき、人間は奇妙に素直になる。広瀬はグローブをはめて、フェンス越しに適当なところへ何球か投げた。ストレートを三球、スライダーを二球。

 変わり映えのしないボールが、ぽいぽいと飛んでいく。

 遼はそれを全部撮って、画面を凝視する。

 一分くらい、無言。


 「お前、腕だけで投げてる」

 遼が画面を広瀬のほうへ向けた。スロー再生になっている。

 「踏み込んだとき、上半身が先に開いてる。見て、ここ。体幹が使えてないから、最後に腕だけでなんとかしようとする。そこで指先が狂う」

 指先が、画面の上を動く。

 「ストレートの回転軸がブレてる。もともとはここだったと思う」

 再生を止めて、別のフレームを出す。見覚えのない動画。広瀬自身が映っている。でも、撮った記憶がない。

 「……これ、どこの動画」

 「YouTubeに上がってた。去年の地方大会の三回戦」

 誰かが客席から撮って上げていたらしく、遼は淡々と続ける。

 「一年前のほうが軸が安定してる。体幹から伝わってきた力を指先がちゃんと受け取れてた。今はそれが途中で切れてる」

 広瀬は黙って画面を見ていた。

 言われてみれば、そうだ。でも、なぜ遼に分かるのか。

 「……お前、野球詳しいの」

 「詳しくない」

 迷いのない返しで。

 「力学は分かる」

 また画面に戻る。今度は別のアプリを開いた。英語のドキュメント。図と数式が並んでいる。

 「これ、アメリカのピッチングコーチが作ったシステム。投球動作を力学的に数値化したやつ。去年、野球界隈でちょっと話題になってた」

 「……なんでそんなもの持ってるんだ」

 「面白かったから」

 遼は答えながら、ドキュメントをスクロールする。

 「概念はいい。でもここの前提が甘い。踏み込み足が接地してから体幹が回転するまでのタイムラグを固定値で計算してる。個人差を無視してる」

 一ページ半ほどスクロールして、指で一か所を叩く。

 「だからここで出てくる補正係数も信用できない。お前の場合は、もとのフォームから計算し直した方が早い」

 広瀬は遼の手元を見ていた。

 話題になったアメリカのシステムを、高校生が五分もかけずに解体している。

 「……お前、何者だ」

 「普通のやつ」

 遼は画面から目を上げない。

 「コーチに伝える。直し方、一緒に考えてもらった方がいい。俺だけじゃ正確なとこまでは分からないから」

 「なんでそんなことする」

 遼が視線を上げた。

 一瞬、間。

 「壊れてたから」

 静かな声で。

 「直せそうだから、直す。それだけ」

 夕日が、グラウンドのフェンスに長い影を落としていた。


 コーチは最初、半信半疑だった。

 隣のクラスの理系の生徒が持ってきたデータを、野球のコーチが即座に信じる理由はない。当然だと広瀬も思っていた。でも遼は丁寧で。数字を並べて、動画のフレームを示して、専門用語じゃない言葉で説明する。感情がない分、論理だけがそこにある。

 「正直、こういう角度で見たことはなかった」

 コーチが動画を三回見て、そう言った。

 「ただ、言ってることは正しいかもしれない」

 コーチが「試してみよう」と言ったのは、三回目の面談のことで。

 秋から冬にかけて、体幹の使い方をゼロから組み直した。

 最初は気持ち悪い。長年染みついた感覚を崩すのは、思った以上にきつい。フォームを意識しすぎて、余計にバラバラになる時期があった。ブルペンに入って、一球も投げられない日もあった。

 そういう日は遼に動画を送った。「今日は投げられなかった」と書く。

 返ってきた返信は「体幹だけやっておけ」。

 投げなくていいと言う人間は、遼だけだった。

 それが、なぜか楽で。

 続けた。冬を越えた。

 冬の終わりに、ブルペンで一球だけ、スイッチが入った感覚があった。

 指先まで力が伝わってくる。体幹から腕、肘、手首、そして指先へと、連続した流れがある。

 それだけで確信した。

 これだ。これが、投げるということだ。


 三年の夏、甲子園のベスト四。

 準決勝は一点差で負けた。強豪校のエースに七回を投げ切って、二失点で終えた。

 七回の二死、外角のスライダーが三振に取れた瞬間、広瀬はバックネットの方を見た。遼がいるかどうか、確認したわけじゃない。ただ見た。甲子園のスタンドはざわめいていて、顔なんて分からない。でもそこを見た。

 あの夏に折れていたら、ここには来られなかった。

 六回を終えてベンチに戻るとき、コーチが肩を叩いた。何も言わなかった。広瀬も何も言わなかった。それで足りた。

 帰りの新幹線で、広瀬は遼にLINEを送った。

 「七回まで行けた」

 返信は翌朝。

 「体幹使えてたか?」

 「使えてた」

 「そうか」

 それだけだった。

 広瀬は笑いながら、スマホを制服のポケットにしまった。

 先輩が声をかけてくる。「惜しかったな」と言う。「お疲れ」と答えた。

 本当のことは、LINEの中にある。


 卒業の春、マリオンサンダーズからドラフト二位の指名を受けた。

 入団会見の翌日、広瀬は遼に電話した。出ない。LINEを送ると、一時間後に既読がついた。

 「ドラフトかかった」

 「知ってる」

 「知ってんのかよ」

 「凛が見てた」

 柊遼の姉の凛は、当時すでに国民的女優だった。広瀬もそれは知っている。同じ高校の、二学年上で。でも遼の口から姉の名前が普通に出てくると、少し不思議な気持ちになる。

 「これからもたまに相談していいか」

 「別に」

 拒否でも了承でもない。遼の言う「別に」は、大体がOKを意味すると広瀬は経験で知っていた。


 プロの世界は、想像より広かった。

 一年目は二軍と一軍を行き来した。上のレベルで通じると思っていたものが通じない。何度もフォームを修正して、何度も戻した。

 首脳陣が「お前のストレートは本物だ」と言う。嘘じゃないと思う。でも、本物だけでは足りない。

 行き詰まるたびに、広瀬は遼に動画を送った。

 「右に偏ってる。あと着地が早い」

 「踏み込みのタイミングを半テンポ遅らせてみろ」

 「フォークの握りは関係ない。体の使い方だけ直す」

 感想はない。励ましもない。でも、指摘はいつも正確で。

 深夜に送っても、返信が来るのは翌日の昼だったり、三日後だったりする。それでも必ず返ってくる。遼は忘れない。放置とスルーを使い分けているように見えて、実はどちらもしていない。

 広瀬が気づいたのは、二年目の終わりのことだった。

 「お前、俺の動画全部保存してんのか」

 「比較に使う」

 「一年目のも?」

 「当たり前だろ」

 それだけで。

 そういう人間が、世界にいる。

 二年目に初勝利。三年目に二桁。

 チームの中で、広瀬の名前が少しずつ出てくるようになった。エースという言葉は気恥ずかしいが、嫌いではない。

 四年目、十五勝。防御率二・四一。

 シーズン終わりに、日本代表の候補リストに名前が入った。


 WBC日本代表、開幕戦の先発。

 通達を受けた夜、広瀬はしばらく動けなかった。

 一時間くらい経って、遼にLINEを送った。

 「開幕の先発、俺になった」

 既読がついたのは深夜。

 返信は、さらに三時間後。

 「そうか」

 画面を見て、声を上げて笑った。

 プロ五年目の自分に、これほど似合う返信はない。

 部屋の電気を消した。天井を見上げる。

 リトルリーグ時代、投げるたびに褒められた。すごいと言われた。特別だと言われた。高校に推薦で入って、一年からベンチ入りした。その頃は、まだ自分を信じていた。

 二年生の夏、それが崩れた。

 打たれたことじゃない。打たれることはある。問題は、崩れた後に自分一人では立てなかったことで。

 あの感覚は、今でも覚えている。指先が、自分のものじゃないみたいだった。

 だから今でも、マウンドに上がる前に一度確認する。

 体幹の軸。踏み込みの角度。腕の遅れ。指先が最後に来る順番。

 全部、あの夏からやり直した。

 全部、遼が見つけてくれた。


 バスがスタジアムへ向かう。

 窓の外に、開幕戦の旗が揺れている。街の中に、日の丸の小旗を手にした人たちが歩く。平日の朝なのに、こんなにいる。野球というのは、そういうものだ。

 隣の席のピッチングコーチが声をかけてくる。「準備はいいか」と聞く。「いいです」と答えた。

 嘘じゃない。準備は、できている。

 対戦相手の情報は頭に入っている。四番の外角への対応、三番左打者へのスライダーの有効性、一番のバントシフトへの準備。全部した。動画も見た。データも確認した。

 でも今この瞬間、頭の片隅にあるのはそういうことじゃない。

 夕暮れのグラウンド。フェンス際に一人でいた自分。

 「さぼり?」

 あの声だけが、今も残っている。

 スマホを取り出して、LINEを開く。「柊遼」のトーク画面。一番新しいメッセージは「そうか」。

 三日前のまま、変わっていない。

 当たり前のことで。遼に言うべきことがあれば言うし、なければ言わない。それだけのことだ。

 バスがスタジアムの駐車場へ入る。

 チームメイトが立ち上がり始める。荷物を持つ音、話し声、靴底が床を叩く音。

 広瀬はスマホをしまった。


 マウンドへの階段を上がる。

 土の感触。

 スパイクの裏に、グラウンドキーパーが整えた土がある。硬すぎず、柔らかすぎない。踏み込んだとき、ちゃんと地面が返してくれる。

 スタジアムの声が、波になって降ってくる。

 三万人以上いる。その声が空気を揺らして、皮膚に当たる。

 遠くのスタンドに、日の丸が見える。

 一塁側のスタンドに、誰かが「広瀬」と書いた横断幕を掲げていた。文字が揺れている。読めるか読めないかの距離だが、自分の名前だと分かる。あんなものが作られる日が来るとは思っていなかった。二年生の夏に辞めていたら、永遠に作られなかった。

 キャッチャーがミットを構えた。遠い。でも、ちゃんと見える。

 広瀬はセットポジションに入る前に、一度だけ息を吸った。

 体幹の軸を確かめる。両足の重心。肩の高さ。踏み込みのイメージ。

 全部、ある。

 全部、ここにある。

 「……ありがとう、遼」

 誰にも聞こえない声で、一度だけ言った。

 返事は来ない。当たり前のことで。

 今頃、遼は机の上に部品を並べているか、パソコンの画面を見ているか、もしくはもう眠っているかのどれかだ。WBCの開幕戦が始まることも、たぶんどこかで知っているけれど、何も言ってこない。

 それでいい。

 「そうか」の三文字に、全部入っている。


 キャッチャーのサインを見る。

 インコース高め、ストレート。

 頷く。

 セットポジション。静止。

 息を止める。

 体幹から、力が集まってくる。

 踏み込む。

 腕が遅れてくる。

 指先が最後に来る。

 ボールが、手から離れた。

 球審のコールは、一テンポ遅れて届く。

 「ストライク」

 スタジアムが揺れる。

 広瀬はミットを見た。

 キャッチャーが立ち上がって、ボールを返してくる。受け取る。縫い目に人差し指と中指をかける。握り直す。

 次のサインを待つ。


 ここからは、広瀬の仕事だ。

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