間幕「遼と田中教授の雑談②:異世界」
※この話を読まなくても本編は成立します。
かといって読まないでくださいと言っているわけでもありません。
六月の午前。
田中教授の研究室に、また一枚のメモがあった。
遼が実験室に向かう途中、廊下で声をかけられた。
「柊くん、少しいいか」
「はい」
「先月の公開授業の評判が良くてな」
「そうですか」
「来月も頼まれた」
「……お疲れ様です」
「また事前に質問を募ったんだが」
田中教授はメモを差し出す。
遼は受け取った。
走り書きで、一行。
「異世界に行くにはどうしたらいいですか?」
遼は少し止まる。
「……なるほど」
「どう答えるべきか、また考えている」
遼は廊下に立ったまま、少し考えた。
「……教授室、借りていいですか」
「どうぞ」
椅子に座って、遼はしばらく黙っていた。
田中教授はコーヒーを二つ用意して、一つを遼の前に置く。
遼は受け取ったが、飲まなかった。
「まず整理すると」
遼は口を開く。
「異世界というのを物理的に定義すると、今いる宇宙とは物理法則が異なる空間、ということになります」
「うん」
「重力が違う、時間の流れが違う、空間の構造が違う。物理定数が違う宇宙、と言い換えてもいい」
「うん」
「その前提で行くと、現代物理で異世界に一番近い概念はワームホールです。一般相対性理論の解として数学的には出てくる。まだ観測はされていませんが、存在を禁止する理屈もない」
「うん」
「ただ、安定化するには負のエネルギー密度を持つ物質が必要です。エキゾチックマターです」
田中教授は少し笑った。
「また出てきたな」
「先月も出てきました」
「タイムマシンと同じ素材不足か」
「同じ問題です」
田中教授はコーヒーを飲む。
そこで、ふと口を挟んだ。
「待てよ、柊くん」
「はい」
「しかし小学生が言う異世界って、剣と魔法の世界のことじゃないか」
遼は少し止まった。
田中教授を見た。
「……そうかもしれないです」
「君の話は物理定数が違う宇宙の話だが、子どもが聞きたいのはそっちじゃない気がする」
「確かに」
遼は少し間を置いた。
「物理定数が違う宇宙の話をしても、小学生には伝わらないですね」
「そうだ」
「……ただ」
遼は続ける。
「何ですか」
「物理定数が違う宇宙では、魔法に見える現象が起きる可能性はあります」
田中教授は少し眉を上げた。
「どういうことだ」
「電磁気力の定数が今より強い宇宙では、人間が電磁場を直接操作できる体に進化しているかもしれない。傍から見れば、魔法です。重力定数が違えば、今の物理では不可能な飛行ができるかもしれない。それも魔法に見える」
「……それは詭弁か」
「詭弁ではないですが、都合のいい解釈ではあります」
田中教授は少し黙った。
「でも」
「うん」
「物理定数が違う宇宙が存在するなら、そこには今の科学では説明できない現象がある。それを魔法と呼ぶかどうかは言葉の問題です」
田中教授はコーヒーカップを置く。
「つまり、剣と魔法の世界は、物理定数が違う宇宙と定義できる、と」
「できます。少なくとも、完全に否定する根拠もない」
「なるほど」
「だとすると、そっちの異世界に行く方法を考えた方が、小学生には届くかもしれない」
田中教授は少し笑った。
「では、どうやって行く」
遼はコーヒーを一口飲んだ。
「チャンネルの話で考えます」
「うん」
「テレビのチャンネルを変えると、別の世界が映る。今いる宇宙と、魔法が使える宇宙は、隣のチャンネルみたいなものかもしれない」
「うん」
「チャンネルを変えるにはリモコンが必要です。今の科学には、そのリモコンがない」
「リモコンとは」
「宇宙と宇宙の間の壁を越えるエネルギーです。計算上、地球全体のエネルギーを使っても足りない」
「それを小学生に言うと」
「……リモコンを作るのに、地球くらいのエネルギーが必要なので、今は無理です、になります」
「また無理で終わるな」
「……はい」
遼は少し考えた。
田中教授も少し考えた。
また二人同時に詰まった。
「……行けないなら、隣のチャンネルの音が聞こえるかもしれない、という方向はどうですか」
遼が口を開いた。
「どういうことだ」
「チャンネルは変えられなくても、隣のチャンネルの音が少し混じることがある。ノイズです。量子力学では、粒子は壁をすり抜けることがある。量子トンネル効果です。原理的には、隣の宇宙からの影響が微かに届いている可能性がゼロではない」
「それを小学生に言うと」
「……今は行けない。でも、隣のチャンネルの音が混じることがあるかもしれない。それを探しているのが今の宇宙研究です」
「行けないまま、か」
「……はい。でも」
遼は続ける。
「行けないことと、ないことは違います。リモコンがないだけで、魔法が使える世界が存在しない証拠もない」
田中教授は少し間を置いた。
「それを小学生向けに一言で言うと」
遼は一度コーヒーを飲んで考える。
少し考えて、言葉を選んだ。
「……剣と魔法の世界は、隣のチャンネルにあるかもしれません。でも今はリモコンがないので行けない。リモコンを作るのが、これからの研究です。あなたが大きくなって、作ってくれると助かります」
田中教授は少し間を置いた。
「最後の一文は」
「……また思ったより出てきました」
「いい意味でか」
「……たぶん」
田中教授は頷いた。
「それでいい」
遼は立ち上がった。
「あの、一つ聞いていいですか」
「何だ」
「今回も、最初から答えを知っていたんじゃないですか」
田中教授は答えなかった。
ただ、コーヒーを飲んだ。
冷めたコーヒーを、静かに飲んだ。
「……失礼します」
ドアが閉まった。
田中教授は窓の外を見る。
六月の空。
雲ひとつない、青だった。
なるほどと頷いた。
そこまで答えは用意していなかった。
「……助かった」
小さく、呟いた。
誰にも聞こえない声で。
それから少し間を置いて、部屋の中央に移動した。
……剣と魔法の世界か。
悪くない。
剣を振る真似をして、ふふっと笑った。
この話に登場する物理概念は、すべて実在する理論に基づいています。
量子トンネル効果は実在します。半導体の動作原理の一つです。
「剣と魔法の世界は、物理定数が違う宇宙と定義できる」という遼の発言は、否定する根拠もありません。
「あなたが大きくなって、リモコンを作ってくれると助かります」という遼の発言は、工学的に正しい仕事の振り方です。




