第18.5話「就活ゼロ宣言」
三月初旬。
三年生の就活が本格化する時期だ。
大学のカフェテリアには、リクルートスーツ姿の学生が目立ち始めていた。
窓際の席に、詩織が座っていた。
リクルートスーツ姿。
黒いジャケット、白いシャツ、膝丈のスカート。
いつものナチュラルな雰囲気とは少し違う。
詩織は革のトートバッグから文庫本を取り出した。
今日は午前中に企業説明会が二つあった。
どちらも興味深かったが、まだ実感が湧かない。
就活。
社会人になる。
詩織はため息をついた。
その時、カフェのドアが開いた。
遼が入ってきた。
いつも通りのシャツとジーンズ。
リラックスした表情。
詩織は少し笑った。
小学校からずっと一緒だ。
遼は、いつも変わらない。
詩織は手を振った。
「遼、こっち」
「おう」
遼は詩織の向かいに座った。
コーヒーを買ってくる。
「お疲れ」
「ありがとう」
詩織はコーヒーを受け取った。
「今日も疲れた……」
「大変だな」
「うん。二社の説明会回ったけど、どっちもすごく魅力的で迷う」
「そうか」
詩織はコーヒーを一口飲んだ。
それから、何気なく聞いた。
「ねえ遼、エントリーシート何社出した?」
遼はコーヒーを一口飲んだ。
「出してない」
「……え?」
「一社も」
「はあああああ!?」
詩織の声が、カフェテリアに響いた。
周りの学生が一斉に振り返る。
詩織は慌てて口を押さえた。
でも、止まらない。
「もう三月だよ!?みんなエントリー始めてるよ!?」
「うん」
「うんじゃない!」
詩織は前のめりになった。
「遼、就活してないの!?」
「してない」
「なんで!?」
「面倒だから」
「面倒って……」
詩織は頭を抱えた。
遼は淡々とコーヒーを飲んでいる。
まったく焦っていない。
詩織は、その姿を見て少し脱力した。
そうだ。
遼は昔からこうだった。
小学校の時も、中学校の時も、高校の時も。
周りが騒いでいても、遼だけは自分のペースだった。
でも——
就活は別だ。
「将来どうするの?」
「まあ、なんとかなる」
「ならない!」
詩織は声を上げた。
また周りが振り返る。
詩織は声を落とした。
「遼……ちゃんと考えてる?」
「考えてる」
「本当に?」
「……まあ」
遼は曖昧に答えた。
詩織は、遼の顔をじっと見た。
穏やかな表情。
何も焦っていない。
でも——
詩織には分かった。
遼は、怖がっている。
詩織は少し黙った。
それから、静かに聞いた。
「……遼、怖いんじゃないの?」
遼の手が、少し止まった。
「怖い?」
「うん」
詩織は真っすぐ遼を見た。
「本気で就職したら、今の生活が全部変わっちゃうのが怖いんでしょ?」
「……」
「遼、能力あるじゃん。ロボコンで全国優勝したし、大学でも教授に褒められてるし」
遼は黙っていた。
「本気で企業に入ったら、すごいことになる。今みたいに機械いじってる時間もなくなるし、会議とか書類とか、そういうのばっかりになるって分かってるんでしょ?」
「……そんなことない」
「ある」
詩織はきっぱり言った。
「私、小学校からずっと見てきたもん。遼がどれだけすごいか」
「……普通だって」
「普通じゃない」
詩織は少し声を上げた。
「遼はいつもそう言うけど、私は知ってる」
遼は窓の外を見た。
詩織は続けた。
「凛さんも華ちゃんも、芸能界入って生活変わった。毎日忙しくて、前みたいに家にいられなくなって」
「……」
「遼も同じように、今の生活が全部なくなっちゃうのが嫌なんでしょ?」
遼は、少し間を置いた。
それから、小さく言った。
「……家は静かでいいんだ」
「え?」
「凛も華も、帰ってきたら普通で」
遼は窓の外を見た。
「それで十分だ」
「……」
「俺までどっか行ったら、あの家、空っぽになるだろ」
詩織は、その言葉に少し胸が痛くなった。
遼は——
家族が遠くに行くのを、見送る側にいる。
それが、遼の役割だと思っている。
だから、自分は動かない。
詩織は、それが分かった。
しばらく、沈黙があった。
カフェテリアの雑音だけが聞こえる。
詩織は、少し考えた。
それから、思い切って言った。
「……遼」
「何」
「私、就職先決めたら、このまま都内で働くつもりなんだ」
遼が顔を上げた。
「引っ越しするかもしれないし、今みたいに毎日会えなくなるかもしれない」
「……そうなんだ」
「うん」
詩織は視線を落とした。
「だから……遼がもし地方とか海外とか行っちゃったら、私……」
言いかけて、詩織は口をつぐんだ。
言えない。
「会えなくなるのが嫌」なんて、言えない。
遼は、少し考えた。
それから、小さく言った。
「……俺、会社に入るイメージが湧かない」
「なんで?」
「誰かの決めた仕様で、誰かの決めた期限で、誰かの決めた方向に進むの、向いてない」
遼はコーヒーを見つめた。
「俺、機械が好きなだけなんだよ」
「……」
「評価も、年収も、役職も、あんまり興味ない」
詩織は、その言葉を黙って聞いた。
遼らしい。
昔から、遼はそうだった。
壊れたラジカセを直して、「別に。壊れてただけだろ」と言った遼。
理科室の実験器具を直して、「接触不良だった」とだけ言った遼。
自転車のチェーンを直しながら、「壊れても、直せるから」と言った遼。
遼は、機械が好きなだけだった。
それ以外のことは、興味がない。
詩織は、ゆっくりと言った。
「遼さ、就活しないのはいいよ」
「……うん」
「でも"逃げる"のはダメ」
遼が顔を上げた。
「選ばないのと、逃げるのは違う」
詩織は遼を真っすぐ見た。
「遼が本当に機械が好きで、会社に入りたくないなら、それでいい」
「……」
「でも、怖いから選ばないっていうのは、逃げてるだけ」
遼は黙っていた。
詩織は続けた。
「私、ずっと見てきたから分かる。遼は、ちゃんと選んでる? それとも、選ばないことで逃げてる?」
遼は、少し考えた。
それから、静かに言った。
「……逃げてたかもしれない」
「うん」
「でも」
遼は詩織を見た。
「じゃあ、就活はしない」
「え」
「でも、逃げない」
遼は静かに言った。
「自分で選ぶ」
詩織は、その言葉に少し驚いた。
遼が——
初めて、自分で決めた。
「……うん」
詩織は笑った。
「それでいい」
「……ありがとう」
「別に。言っただけだし」
詩織は少し照れた。
遼は少し笑った。
カフェを出た後、二人は並んで歩いた。
詩織はスーツのまま、遼はいつも通りのジーンズ。
春の風が吹いている。
「遼、ちゃんと考えてね」
「分かってる」
「本当に?」
「本当に」
遼は少し笑った。
「詩織、心配しすぎ」
「だって……」
詩織は少し言いよどんだ。
それから、小さく言った。
「……遼が、遠くに」
詩織はその後、言葉を飲んだ。
遼は少し止まった。
それから、普通に歩き出した。
「そんな遠くには行かないよ」
「本当?」
「たぶん」
「たぶんって何!?」
詩織が笑った。
遼も笑った。
二人は、昔と変わらない距離で歩いた。
小学校からずっと、こうやって一緒に歩いてきた。
近所の幼馴染として。
これからも——
ずっと、こうやって歩いていけたらいいのに。
詩織は、そう思った。
その夜、柊家のリビング。
遼が帰宅すると、凛と華がテレビを見ていた。
「気ままに放浪酒」という番組で、意外に人気が高い。
題名の通り、酒好きのおじさんが一人で自由に酒屋を巡る番組だ。
それを見ていた凛が顔を上げた。
「おかえり」
「ただいま」
「遼、就活どうするの?」
凛が聞いた。
華もこっちを向く。
「しない」
「え!?ヒモになるの!?」
華が叫んだ。
「ならない」
「じゃあ何になるの?」
凛が聞いた。
「まだ決めてない」
凛と華は、同時にため息をついた。
「うちの兄上、このテレビのおじさんより自由人なんだけど」
華が呆れたように言った。
遼はキッチンへ向かった。
「プリンある?」
「ない」
凛が即答した。
「そうか」
遼は冷蔵庫を開けた。
麦茶を取り出す。
凛と華は、遼の背中を見ていた。
「お姉ちゃん、遼、大丈夫かな」
華が小さく言った。
「……分からない」
凛は静かに答えた。
「でも、あの子は何とかするんじゃない?」
「根拠は?」
「ない」
二人は顔を見合わせた。
それから、笑った。
「まあ、遼だしね」
「そうだね」
遼の部屋。
遼はベッドに横になっていた。
天井を見ている。
詩織の言葉を思い返す。
「選ばないのと、逃げるのは違う」
そうだ。
遼は、逃げていた。
選ぶことから。
変わることから。
遠くに行くことから。
でも——
それでいいのか。
遼は少し考えた。
詩織は、小学校からずっと隣にいた。
壊れたラジカセを直した時も。
理科室の実験器具を直した時も。
自転車のチェーンを直した時も。
いつも、詩織は見ていた。
遼のことを。
そして今日も、詩織は言ってくれた。
「逃げるな」と。
遼は、その言葉に救われた気がした。
ちゃんと選ぼう。
自分で。
逃げずに。
遼は、そう心に決めた。
翌朝、木曜日。
遼は大学へ向かう電車の中にいた。
窓の外を見ている。
春の景色。
桜が、もうすぐ咲く。
新しい季節が来る。
自分も、何かを選ばないといけない。
でも——
まだ、何を選ぶかは分からない。
遼はスマホを取り出した。
詩織にLINEを打った。
「昨日はありがとう」
すぐに既読がついた。
「別に。当たり前のこと言っただけだし」
「それでも」
「ちゃんと考えてね」
「分かってる」
遼は少し笑った。
詩織は、いつも心配してくれる。
小学校の時から、ずっと。
それが——
嬉しかった。
遼は窓の外を見た。
まだ答えは出ていない。
でも——
逃げることはやめた。
ちゃんと、選ぶ。
遼は、そう決めていた。
同じ頃、詩織の部屋。
詩織はベッドで、昨日の会話を思い返していた。
遼が——
初めて、ちゃんと自分の気持ちを話した。
家族のこと。
怖いこと。
詩織は少し笑った。
遼、やっぱり普通じゃない。
でも、それがいい。
詩織はスマホを見た。
遼からのLINE。
「昨日はありがとう」
詩織は少し照れた。
返信を打つ。
「別に。当たり前のこと言っただけだし」
送信。
それから、もう一言。
「ちゃんと考えてね」
「分かってる」
遼の返信を見て、詩織は笑った。
遼が、ちゃんと選んでくれるなら。
詩織も、一緒にいられる。
どこへ行っても。
詩織は、そう信じていた。




