表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第一部「機械をいじっていたい、それだけなのに」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/46

第14.5話 柊家アーカイブ05「寂しくなかった?」

 月に一度、母の由紀(ゆき)からビデオ通話がかかってくる。

 時差に関係もあって時間は決まっていない。

 その日の夕方、凛のスマホに由紀からメッセージが届いていた。

「今日はリスボン。そっちの夜九時に電話する」

 それだけだった。

 凛はそれを見て、「ママから」と華と遼に声をかけた。

 夜の九時。

 予定通りにスマホが鳴る。

 遼がソファから顔を上げた。台所にいた華が駆けてきた。

 三人が画面の前に並んだ。

「久しぶり。元気?」

 由紀の声が聞こえた。

 画面の中の由紀は、明るい光の中にいた。窓の外にオレンジ色の街並みが見える。石畳と、白い壁と、その向こうに広がる水面。川なのか海なのか、見ただけでは分からないほど広かった。

「今日はリスボンなんだね」

 凛が言った。

「そう。坂が多くて足が痛い」

「きれいな街だね」

「きれいだよ。テージョ川がね、川なのに海みたいで。対岸が霞んで見えるくらい広くて、びっくりした」

「川なのに?」

「川なのに。海だよあれは」

 由紀が笑いながらもう一度訊く。

「元気だった?」

「元気だよ!」と華が大きな声で言った。

「うん、見れば分かる」

「遼は卒論で死にそうだって」

「余計なことを言うな」

「食べてる? ちゃんと」

「食べてる」と遼が言った。

「嘘くさい」

「食べてる」

「カロリーメイトは食事に入らないよ」と華が言った。

「入る」

「入らない」

 由紀が笑った。画面の向こうで、本当に嬉しそうに笑っていた。

 三人はそれを見た。

 誰も何も言わなかったが、三人とも同じことを思っていた。

 楽しそうだ、と。

 あの頃とは違う顔だ、と。


 二十分ほど話した。

 由紀がリスボンで見た景色のこと、朱里(あかり)の新作がどんな舞台か、稽古場で地元の役者たちと言葉が通じなくて笑った話。三兄妹はそれを聞きながら、相槌を打った。

 華が「ごはん食べた?」と聞いた。

「食べた。タコのご飯。海の目の前で。あ、川か」

「いいなあ……」

「じゃあ、来る?」

「行く! でも仕事が……」

「そうだよね」

 由紀が少し笑った。それから凛を見た。

「凛、ドラマ見たよ」

「うん」

「良かった。本当に」

「……ありがとう」

「あのシーン、どうやって作ったの。泣くシーン」

「計算だよ。いつも通り」

「そうじゃないと思ったけど」

 凛は少し黙った。

「計算だよ」

 もう一度言った。

 由紀はそれ以上聞かなかった。

 華を見た。

「華、映画の撮影どう?」

「順調! 来月クランクアップ」

「緊張してる?」

「してる。でも楽しい」

「それでいい」

 由紀は笑った。

「楽しいなら、大丈夫」

 華がそれを聞いて、少しだけ目を細めた。

 由紀はまた遼を見た。

「遼」

「何」

「卒論、終わったら何したい」

「寝る」

「その後」

「機械いじる」

「就職は」

「しない」

「そう」

 由紀は特に驚いた様子もなかった。

「分かった」

「怒らないの」

「怒らない。遼が決めることだから」

 遼は少し黙った。

「……そうか」

「そうだよ」

 由紀はそれだけ言って、また三人を見た。

 少しの沈黙があった。

 窓の外のリスボンの空が、画面越しに青く見えた。

 由紀が、静かに言った。

「寂しくなかった?」

 一瞬の間があった。

「大丈夫」と凛が言った。

「全然」と華が言った。

「別に」と遼が言った。

「そう。よかった」

 由紀は笑って、通話を切った。


 画面が暗くなった。

 三人はしばらく、スマホを囲んで黙っていた。

 華が先に立ち上がった。

「お風呂入ろっと」

 声が、少しだけ明るすぎた。

 廊下に消えた。

 遼は自分の部屋に戻った。ドアが閉まる音がした。

 凛は一人、リビングに残った。

 スマホを持ったまま、窓の外を見た。

 東京の夜景が広がっている。

 リスボンの青い空とは、全然違う景色だ。

 凛は小さくため息をついた。

 誰にも聞こえない声で、言った。

「……少し、寂しいよ」

 誰も答えなかった。

 リビングの時計が、静かに時を刻んでいた。


 その頃、遼の部屋。

 遼は机に向かって、卒論のファイルを開いていた。

 しばらく手が動かなかった。

 スマホを取り出した。

 由紀が先週送ってきた写真を開いた。

 広い水面が映っていた。対岸が霞んでいる。どこまでも続く水面の向こうに、うっすらと街の輪郭が見えた。

 由紀が「きれい」と一言だけ添えていた。

 遼はしばらくそれを見た。

「……テージョ川って、これか」

 小さく呟いた。

「海だよな、これ」

 川と聞いていなければ、誰も川だとは思わないだろう。対岸がかすんで見えないほど広い。そういう場所に、由紀はいる。

 由紀の写真はいつも、人が映っていない。建物と空と光だけだった。

 一人で撮っているのだろう、と思った。

 誰かに頼めばいいのに、とも思った。

 でも由紀はきっと、頼まない。そういう人だった。父もそうだった。自分もそうだ。

 (ひいらぎ)家はみんな、一人で完結する。

 それが強さなのか、不器用なのか、遼には分からなかった。

 ただ、由紀が笑っていた顔だけは、はっきり覚えていた。

 あの頃とは違う顔。

 机の引き出しを開けた。

 小学生の頃、海外から届いた段ボールの記憶が、なぜかそのとき頭をよぎった。

 壊していいぞ、と書いてあった。

 父の字だった。

 遼はスマホをしまって、キーボードを叩き始めた。


 その頃、華の部屋。

 お風呂から上がった華は、ベッドに寝転んでいた。

 天井を見ていた。

「全然」と言った。

 本当は、少し寂しかった。

 でも、それを言ったら凛が困る顔をするのを知っていた。遼が何も言えなくなるのを知っていた。

 だから「全然」と言った。

 華はスマホを取り出して、由紀が送ってきた写真フォルダを開く。

 パリの朝市。ベルリンの教会。ロンドンの橋。アムステルダムの運河。そして今日のリスボンの空。

 どれも、人が映っていない。母も、もちろん映っていない。

 華はしばらくそれを見ていた。

 それから、スマホを持ったまま泣いた。

 声は出さなかった。

 泣いていることを、誰にも知られたくなかった。

 凛には特に。

 凛はあの日、「私がいるから」と言って母を送り出した。その覚悟を、華は知っている。

 だから華は「全然」と言い続ける。

 凛が「大丈夫」と言い続けるように。

 遼が「別に」と言い続けるように。

 誰も嘘をついていない。

 でも、本当でもない。

 華はスマホを置いた。

 目を閉じた。

 来月また、由紀から電話がかかってくる。

 また聞かれる。

「寂しくなかった?」と。

 また答える。

「全然」と。

 それが華にできる、唯一の優しさだった。


 同じ頃、リスボンのホテル。

 由紀は通話を切ったあと、しばらくスマホを持ったまま座っていた。

 窓の外に青い空が広がっている。正午の光が、石畳の街を白く照らしていた。

 テージョ川が光っていた。

 対岸がかすんで見えないほど広い川が、太陽を受けてきらきらと輝いていた。

 由紀は三人の顔を思い出す。

「大丈夫」と言った凛の顔。一瞬だけ、目が揺れた。

「全然」と言った華の顔。少しだけ、声が明るすぎた。

「別に」と言った遼の顔。画面から、わずかに目を逸らした。

 全部、分かっている。

 母親だから。

 ずっと見てきたから。

 分かっていて、それでも聞いてしまう。

「寂しくなかった?」と。

 本当のことを聞きたいわけではない。

 ただ、聞くことしかできなかった。

 電話することしか。

 振り込むことしか。

 写真を送ることしか。

 由紀は窓の外を見た。

 テージョ川は、相変わらず広かった。

 川なのに、海みたいだった。

 対岸が見えそうで、見えない。

 東京は今、夜だ。

 三人は、それぞれの部屋にいる。

 凛は一人でリビングにいるかもしれない。

 遼はまた机に向かっているだろう。

 華はもうお風呂に入っているだろうか。

 由紀は目を閉じた。

 あの夜のことを思い出した。

 凛が「行っていいよ」と言った夜。

 十五歳の凛が、まっすぐに自分を見て言った。

「私がいるから」と。

 あの言葉に甘えて、ここまで来た。

 後悔はない。

 でも、あの夜凛が堪えていたものを、由紀はずっと知っていた。

 知っていて、行った。

 だから毎月聞く。

「寂しくなかった?」と。

 答えは分かっている。

 それでも聞かずにはいられない。

 それだけが、由紀にできる懺悔だった。

 由紀はスマホを置いて、立ち上がった。

 窓を開けると、潮の匂いがした。

 テージョ川が、光の中で揺れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ