第14.5話 柊家アーカイブ05「寂しくなかった?」
月に一度、母の由紀からビデオ通話がかかってくる。
時差に関係もあって時間は決まっていない。
その日の夕方、凛のスマホに由紀からメッセージが届いていた。
「今日はリスボン。そっちの夜九時に電話する」
それだけだった。
凛はそれを見て、「ママから」と華と遼に声をかけた。
夜の九時。
予定通りにスマホが鳴る。
遼がソファから顔を上げた。台所にいた華が駆けてきた。
三人が画面の前に並んだ。
「久しぶり。元気?」
由紀の声が聞こえた。
画面の中の由紀は、明るい光の中にいた。窓の外にオレンジ色の街並みが見える。石畳と、白い壁と、その向こうに広がる水面。川なのか海なのか、見ただけでは分からないほど広かった。
「今日はリスボンなんだね」
凛が言った。
「そう。坂が多くて足が痛い」
「きれいな街だね」
「きれいだよ。テージョ川がね、川なのに海みたいで。対岸が霞んで見えるくらい広くて、びっくりした」
「川なのに?」
「川なのに。海だよあれは」
由紀が笑いながらもう一度訊く。
「元気だった?」
「元気だよ!」と華が大きな声で言った。
「うん、見れば分かる」
「遼は卒論で死にそうだって」
「余計なことを言うな」
「食べてる? ちゃんと」
「食べてる」と遼が言った。
「嘘くさい」
「食べてる」
「カロリーメイトは食事に入らないよ」と華が言った。
「入る」
「入らない」
由紀が笑った。画面の向こうで、本当に嬉しそうに笑っていた。
三人はそれを見た。
誰も何も言わなかったが、三人とも同じことを思っていた。
楽しそうだ、と。
あの頃とは違う顔だ、と。
二十分ほど話した。
由紀がリスボンで見た景色のこと、朱里の新作がどんな舞台か、稽古場で地元の役者たちと言葉が通じなくて笑った話。三兄妹はそれを聞きながら、相槌を打った。
華が「ごはん食べた?」と聞いた。
「食べた。タコのご飯。海の目の前で。あ、川か」
「いいなあ……」
「じゃあ、来る?」
「行く! でも仕事が……」
「そうだよね」
由紀が少し笑った。それから凛を見た。
「凛、ドラマ見たよ」
「うん」
「良かった。本当に」
「……ありがとう」
「あのシーン、どうやって作ったの。泣くシーン」
「計算だよ。いつも通り」
「そうじゃないと思ったけど」
凛は少し黙った。
「計算だよ」
もう一度言った。
由紀はそれ以上聞かなかった。
華を見た。
「華、映画の撮影どう?」
「順調! 来月クランクアップ」
「緊張してる?」
「してる。でも楽しい」
「それでいい」
由紀は笑った。
「楽しいなら、大丈夫」
華がそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
由紀はまた遼を見た。
「遼」
「何」
「卒論、終わったら何したい」
「寝る」
「その後」
「機械いじる」
「就職は」
「しない」
「そう」
由紀は特に驚いた様子もなかった。
「分かった」
「怒らないの」
「怒らない。遼が決めることだから」
遼は少し黙った。
「……そうか」
「そうだよ」
由紀はそれだけ言って、また三人を見た。
少しの沈黙があった。
窓の外のリスボンの空が、画面越しに青く見えた。
由紀が、静かに言った。
「寂しくなかった?」
一瞬の間があった。
「大丈夫」と凛が言った。
「全然」と華が言った。
「別に」と遼が言った。
「そう。よかった」
由紀は笑って、通話を切った。
画面が暗くなった。
三人はしばらく、スマホを囲んで黙っていた。
華が先に立ち上がった。
「お風呂入ろっと」
声が、少しだけ明るすぎた。
廊下に消えた。
遼は自分の部屋に戻った。ドアが閉まる音がした。
凛は一人、リビングに残った。
スマホを持ったまま、窓の外を見た。
東京の夜景が広がっている。
リスボンの青い空とは、全然違う景色だ。
凛は小さくため息をついた。
誰にも聞こえない声で、言った。
「……少し、寂しいよ」
誰も答えなかった。
リビングの時計が、静かに時を刻んでいた。
その頃、遼の部屋。
遼は机に向かって、卒論のファイルを開いていた。
しばらく手が動かなかった。
スマホを取り出した。
由紀が先週送ってきた写真を開いた。
広い水面が映っていた。対岸が霞んでいる。どこまでも続く水面の向こうに、うっすらと街の輪郭が見えた。
由紀が「きれい」と一言だけ添えていた。
遼はしばらくそれを見た。
「……テージョ川って、これか」
小さく呟いた。
「海だよな、これ」
川と聞いていなければ、誰も川だとは思わないだろう。対岸がかすんで見えないほど広い。そういう場所に、由紀はいる。
由紀の写真はいつも、人が映っていない。建物と空と光だけだった。
一人で撮っているのだろう、と思った。
誰かに頼めばいいのに、とも思った。
でも由紀はきっと、頼まない。そういう人だった。父もそうだった。自分もそうだ。
柊家はみんな、一人で完結する。
それが強さなのか、不器用なのか、遼には分からなかった。
ただ、由紀が笑っていた顔だけは、はっきり覚えていた。
あの頃とは違う顔。
机の引き出しを開けた。
小学生の頃、海外から届いた段ボールの記憶が、なぜかそのとき頭をよぎった。
壊していいぞ、と書いてあった。
父の字だった。
遼はスマホをしまって、キーボードを叩き始めた。
その頃、華の部屋。
お風呂から上がった華は、ベッドに寝転んでいた。
天井を見ていた。
「全然」と言った。
本当は、少し寂しかった。
でも、それを言ったら凛が困る顔をするのを知っていた。遼が何も言えなくなるのを知っていた。
だから「全然」と言った。
華はスマホを取り出して、由紀が送ってきた写真フォルダを開く。
パリの朝市。ベルリンの教会。ロンドンの橋。アムステルダムの運河。そして今日のリスボンの空。
どれも、人が映っていない。母も、もちろん映っていない。
華はしばらくそれを見ていた。
それから、スマホを持ったまま泣いた。
声は出さなかった。
泣いていることを、誰にも知られたくなかった。
凛には特に。
凛はあの日、「私がいるから」と言って母を送り出した。その覚悟を、華は知っている。
だから華は「全然」と言い続ける。
凛が「大丈夫」と言い続けるように。
遼が「別に」と言い続けるように。
誰も嘘をついていない。
でも、本当でもない。
華はスマホを置いた。
目を閉じた。
来月また、由紀から電話がかかってくる。
また聞かれる。
「寂しくなかった?」と。
また答える。
「全然」と。
それが華にできる、唯一の優しさだった。
同じ頃、リスボンのホテル。
由紀は通話を切ったあと、しばらくスマホを持ったまま座っていた。
窓の外に青い空が広がっている。正午の光が、石畳の街を白く照らしていた。
テージョ川が光っていた。
対岸がかすんで見えないほど広い川が、太陽を受けてきらきらと輝いていた。
由紀は三人の顔を思い出す。
「大丈夫」と言った凛の顔。一瞬だけ、目が揺れた。
「全然」と言った華の顔。少しだけ、声が明るすぎた。
「別に」と言った遼の顔。画面から、わずかに目を逸らした。
全部、分かっている。
母親だから。
ずっと見てきたから。
分かっていて、それでも聞いてしまう。
「寂しくなかった?」と。
本当のことを聞きたいわけではない。
ただ、聞くことしかできなかった。
電話することしか。
振り込むことしか。
写真を送ることしか。
由紀は窓の外を見た。
テージョ川は、相変わらず広かった。
川なのに、海みたいだった。
対岸が見えそうで、見えない。
東京は今、夜だ。
三人は、それぞれの部屋にいる。
凛は一人でリビングにいるかもしれない。
遼はまた机に向かっているだろう。
華はもうお風呂に入っているだろうか。
由紀は目を閉じた。
あの夜のことを思い出した。
凛が「行っていいよ」と言った夜。
十五歳の凛が、まっすぐに自分を見て言った。
「私がいるから」と。
あの言葉に甘えて、ここまで来た。
後悔はない。
でも、あの夜凛が堪えていたものを、由紀はずっと知っていた。
知っていて、行った。
だから毎月聞く。
「寂しくなかった?」と。
答えは分かっている。
それでも聞かずにはいられない。
それだけが、由紀にできる懺悔だった。
由紀はスマホを置いて、立ち上がった。
窓を開けると、潮の匂いがした。
テージョ川が、光の中で揺れていた。




