第2話「大学の実験室」
翌日、昼過ぎ。
遼は大学の実験室にいた。
ここは工学部の電子制御工学科の一角。古い建物だが、設備はそれなりに揃っている。
遼は作業台に向かい、オシロスコープの波形を見つめていた。
「……やっぱりノイズが乗るな」
自律制御ドローンの制御基板だ。
卒論のテーマである障害物回避アルゴリズムを実装しているが、センサーからの信号にノイズが混入する。
遼はテスターを手に取り、グランドラインを確認する。
「ここか」
配線パターンに問題があった。
高周波ノイズが回り込んでいる。
遼はCADソフトを開き、基板設計を修正し始めた。
「この配線を変えて……グランドプレーンをここに……」
指が滑らかにマウスを動かす。
慣れた手つきだ。
「これで……よし」
修正完了。
後は基板を作り直すだけだ。
遼は設計データを保存し、伸びをした。
「相変わらず、黙々とやってるね」
声がした。
遼は振り返る。
研究室の教授、田中が立っていた。
五十代、温厚そうな顔立ち。専門は制御工学。
「教授」
「ああ、邪魔はしないよ。ちょっと見せてもらっただけ」
田中は遼の作業台に近づき、ディスプレイを覗き込んだ。
そして──
「……柊くん」
「はい」
「この基板設計、君が一から書いたの?」
「はい」
「独学で?」
「まあ、そうですね」
田中は眉をひそめた。
驚いているようだ。
「柊くん、これ……企業の設計レベルだよ」
「そうですか?」
「そうですかじゃない。特にこのグランドプレーンの処理。高周波ノイズ対策が完璧だ」
「ああ、そこは少し工夫しました」
「少し……」
田中はため息をついた。
「君、本当に就職しないの?」
「今のところは」
「もったいない。君の技術なら、どこでも引く手あまただ」
「でも、面倒ですよ」
「面倒?」
「企業に入ったら、会議とか、報告書とか、色々あるじゃないですか」
「……まあ、そうだけど」
「それより、こうやって黙々と作業してる方が好きなんです」
遼は淡々と答える。
田中は苦笑した。
「君らしいな」
「はい」
「でも、一つだけ言わせてくれ」
「何ですか?」
「君の技術は、世の中の役に立つ。それを自分だけのものにしておくのは、もったいない」
「……そうですか」
遼は特に興味なさそうに答えた。
田中はため息をつき、諦めたように言った。
「まあ、卒論頑張ってくれ。期待してるよ」
「はい」
田中は去っていく。
遼は再び作業に戻った。
その時、実験室のドアが開いた。
「遼ー!」
明るい声。
桜井詩織だ。
遼の幼なじみで、文学部の学生。ショートカットの茶髪が似合う、活発そうな女性だ。
「あんた、またここ?」
「ああ」
「お昼は?」
「食べた」
「嘘。絶対カロリーメイトでしょ」
「……否定しない」
詩織はため息をついた。
「はい、お弁当」
詩織は手に持っていたタッパーを遼に差し出す。
遼は少し驚いた。
「いいのか?」
「いいから食べなさい。あんた、また痩せたでしょ」
「そうか?」
「そうだよ。ちゃんと食べないと倒れるよ」
「…ありがとう」
遼はタッパーを受け取り、蓋を開ける。
卵焼き、唐揚げ、ブロッコリー、ご飯。
彩りも良い。
「美味そうだな」
「でしょ? 今朝作ったの」
「手間かけさせて悪いな」
「いいのいいの。どうせ自分の分作るついでだから」
詩織は笑顔で言う。
遼は箸を取り、食べ始めた。
「……美味い」
「ありがと」
詩織は嬉しそうに笑った。
そして、遼の隣に座る。
「ねえ、卒論進んでる?」
「まあまあ」
「また曖昧な……」
「基板の設計は終わった。後は実装とテストだけ」
「へー。順調じゃん」
「まあな」
遼は淡々と答える。
詩織は遼の作業台を見た。
ディスプレイには、複雑な回路図が表示されている。
「……あんた、これ全部自分で書いたの?」
「ああ」
「すごいね」
「普通だろ」
「普通じゃないって。教授も驚いてたよ」
「そうか?」
「そうだよ。もう、あんたは本当に……」
詩織は言葉を切った。
遼は気づかず、弁当を食べ続ける。
詩織は小さくため息をついた。
「……ばか」
「何?」
「何でもない」
昼休みが終わり、詩織は去っていった。
遼は再び作業に戻る。
基板の実装を始めた。
部品を一つずつハンダ付けしていく。
集中する。
時間が過ぎる。
そして──
スマホが震えた。
遼は手を止め、画面を見る。
またメールだ。
差出人は昨日と同じ企業。
件名:【最終確認】We Would Like to Discuss an Opportunity
遼は数秒見つめた。
そして──
画面を閉じた。
「……後でいいか」
遼はそう呟き、再び作業に戻った。
夕方、実験室。
遼は基板の実装を終え、動作テストを始めていた。
ドローンの制御プログラムを起動し、センサーからの入力を確認する。
オシロスコープの波形を見る。
「……ノイズが消えた」
完璧だ。
設計通りに動いている。
遼は小さく頷いた。
その時、田中教授が再び現れた。
「柊くん、まだいたのか」
「はい。動作テスト中です」
「そうか。どう?」
「問題ないです」
田中は作業台に近づき、オシロスコープを見た。
そして──
「……完璧だな」
「まあ、設計通りですから」
「設計通りって……君、これ本当に一人で?」
「はい」
田中は言葉を失った。
数秒の沈黙。
そして、田中は決意したように言った。
「柊くん、一つ提案がある」
「何ですか?」
「この研究を、学会で発表しないか?」
「学会……ですか」
「ああ。君の技術は、業界でも注目されるはずだ」
「いえ、遠慮します」
「なぜ?」
「恥ずかしいんで」
「恥ずかしい……」
田中は頭を抱えた。
「柊くん、君は自分の技術の価値を分かっていない」
「そうですか?」
「そうだよ。君のこの設計、企業なら数百万円の価値がある」
「へえ」
「へえ、じゃない!」
田中は珍しく声を荒げた。
遼は少し驚いた。
「……すみません」
「いや、こっちこそ悪かった」
田中はため息をついた。
「でも、柊くん。君の技術は、もっと評価されるべきだ」
「別に、評価されなくてもいいです」
「なぜ?」
「自分が満足できればそれでいいんです」
遼は淡々と答える。
田中は言葉を失った。
そして、諦めたように笑った。
「……君は、本当に変わり者だな」
「よく言われます」
「でも、才能はある。それだけは覚えておいてくれ」
「はい」
田中は去っていく。
遼は再び作業に戻った。
その夜、柊家のリビング。
遼が帰宅すると、凛と華がソファでテレビを見ていた。
「おかえり」
「ああ」
「遅かったね」
「実験室にいた」
「またぁ? あんた、毎日そればっかりじゃん」
華が頬を膨らませる。
遼は靴を脱ぎながら答えた。
「卒論があるから」
「そっか。大変だね」
「まあな」
遼はリビングに入る。
テレビでは、映画のニュースが流れていた。
華の次回作の特集だ。
「あ! 私のやつだ!」
華が嬉しそうに画面を指す。
遼は少し見た。
画面には、華が監督と話している様子が映っている。
「期待の新星、柊華さん。次回作では初の単独主演を務めます」
ナレーションが流れる。
「へえ、主演なんだ」
「そうなの! すごいでしょ!」
「まあ、頑張れ」
「もう、それだけ!?」
「他に何を言えと」
「お祝いとか!」
「おめでとう」
「棒読み!」
華はクッションを投げる。
遼はそれを受け止め、ソファに座った。
「遼、お腹空いてない?」
凛が聞いた。
「まあまあ」
「じゃあ、何か作ろうか?」
「いや、カップ麺でいい」
「またぁ? ちゃんとしたもの食べなよ」
「面倒だから」
「もう……」
凛はため息をついた。
そして立ち上がり、キッチンに向かう。
「何作る?」
「だからカップ麺でいいって」
「却下。卵雑炊でいい?」
「……ありがとう」
遼は素直に頭を下げた。
凛は微笑んだ。
その夜、遼の部屋。
遼は机に向かい、パソコンを開いていた。
卒論の論文を書いている。
淡々と文字を打ち込む。
そして──
スマホが震えた。
遼は手を止め、画面を見る。
またメールだ。
今度は件名が違う。
件名:【緊急】Direct Message from CTO
CTO。最高技術責任者。
遼は数秒見つめた。
そして──
画面を閉じた。
「……明日でいいか」
遼はそう呟き、再び論文執筆に戻った。
彼は知らない。
そのメールの差出人が、世界トップクラスの電子機器メーカーのCTOであることを。
そして、彼の技術論文が業界で「今年最高の発見」と評価されていることを。
遼は、ただ静かに、論文を書き続けた。
その頃、実験室では。
田中教授が、遼の設計データを見つめていた。
「……この子は、本当に天才だな」
田中は小さく呟いた。
そして、あるメールアドレスに連絡を取り始めた。
大手電子機器メーカーの人事部。
田中の古い友人がいる。
「柊遼という学生がいる。彼の技術を見てほしい」
田中はそうメールに書いた。
遼は知らない。
教授が、彼の未来を動かそうとしていることを。
そして──
それが、大きな波紋を呼ぶことになることを。




