第46話「サイバー攻撃(本物)が来た」
朝、柊遼は玄関でスニーカーの紐を結んでいる。今日はスーツではない。会議六回目にしてようやく、服装指定が外れた。
「いってきます」
「うん。何時に帰る」と凛が聞く。
「分からん」
「六時には帰ってきて。華が炊き込みご飯作るって言ってるから」
「分かった」
遼はドアを開けた。
閉めた。
開けた。
「今日で何回目だっけ」
「え」と凛が言う。
「防衛省の会議」
「……知らないよ。六回目とか?」
「六回目」
「合ってるなら聞かないでよ」
「七回目もあるらしい」
「え、まだあるの?」
「まだある」
「何回で終わるの?」
「終わる予定の回数が、毎回一回ずつ延びる」
凛がトーストを口に運ぶ手を止めて、遼を見た。
「遼」
「なに」
「それ、永遠に終わらないやつじゃない?」
「そうみたい」
「……頑張って」
「頑張るところがあるのかが、よく分からん」
ドアが閉まった。
凛はトーストをかじった。
(頑張るところがない仕事で国を守られても困る)
防衛省市ヶ谷地区。入館手続き十六分。先週より二分短い。記録更新である。宮脇係長がさらさらと書いた。何を書いているのかはもう聞かない。聞くと五行増える。
会議室に入る。
黒木統括官がすでに座っている。田所三佐は珈琲のカップを両手で握ったまま、モニターを見ていた。顔色が普通ではない。
「おはようございます」と遼が言った。
「おはようございます」と三人が言った。声の揃いが悪い。
遼は椅子を引いた。
「今日の議題は」
「民間技術者の呼称について、です」と黒木が言った。
「呼称」
「はい。現状「民間技術者」と呼んでおりますが、これは行政上の正式名称がございませんで」
「前例がないんですか」
「前例はあります」
「あるんですか」
「ございます。ただ、前例の中でも前例によって呼称が異なりまして」
「……どう異なるんですか」
「ある前例では『民間専門家』、別の前例では『有識者』、さらに別の前例では『外部協力者』、今年度からは『技術支援者』という呼称も出てきておりまして」
「それで今日は何を決めるんですか」
「呼称をどれに揃えるかを、決めます」
「四つのうちから」
「はい」
「他にありますか」
「他に、というのは」
「議題です」
「今日はこの一点に絞ります」
「そうですか」
遼は資料を開いた。二十七ページあった。呼称の選定に二十七ページを要する国に住んでいる、ということをあらためて確認した。
宮脇のペンが、さらさらと動いた。
午前十時三十二分。
呼称の議論は、ここまでに「民間専門家」と「技術支援者」の二択まで絞り込まれていた。黒木が「民間専門家」を推していた。田所が「技術支援者」を推していた。理由は双方ともあったが、遼は聞いているうちに耳の後ろのあたりが痒くなってきたので、どちらでもいい気がしていた。
「柊さんのご意見は」と黒木が言った。
「どちらでもいいです」
「どちらでもいい、というのは」
「どちらでもいいです」
「……ご意見として記録しにくいのですが」
「記録します」と宮脇が言った。「『柊氏、どちらでもいい旨発言。二回』」
「二回なんですね」と遼が言った。
「正確性のために」
「そうですか」
黒木が水を飲んだ。ゆっくり。
そのとき、田所のスマホが鳴った。
普通の着信音ではない。
甲高い、電子的な警告音。ピピピピピピ、と続く音。
田所が顔を上げた。顔色が完全に抜けた。
「……黒木統括官」
「なんですか」
「SOCからです」
「SOC、というのは」
「Security Operation Center」
「それは分かります。私が聞いたのは、なぜ今それを」
「……入っています」
「何が」
「攻撃が」
空調の音が、さっきよりも大きく聞こえるようになった。
黒木が、手に持った湯呑みを机に置いた。
置くときに、少し音がした。かたり、と。
「……それは」と黒木が言った。「演習ですか」
「演習ではありません」
「訓練ですか」
「訓練でもありません」
「……」
「本物です」
宮脇のペンが、さらさらと動いた。
会議室は五秒間、静止した。
黒木が動いた。電話を取った。掛けようとしたが番号を忘れていた。手帳を取り出して探した。「大臣官房緊急連絡先」の欄を探したが、前のページに紛れていた。
田所が動いた。ノートパソコンを開いた。起動を待つ間、立ち上がった。立ち上がった理由を忘れて座った。座った瞬間にまた立ち上がった。
宮脇が動いた。ノートの新しいページを開いた。日付を書いた。時刻を書いた。「緊急事態発生」と書いた。アンダーラインを引いた。二重にした。
遼は動かなかった。
資料の二十七ページ目を開いていた。呼称の決定案が書いてある。読み終わった。閉じた。
「田所三佐」
「はい!」
「端末を貸してください」
「はい!」
田所がノートパソコンを差し出した。起動していた。ログインしていた。画面にはすでにSOCの監視ダッシュボードが表示されている。グラフが赤い線で暴れている。アラートが並んでいる。英語と日本語が混ざっている。
遼は椅子に座り直した。
キーボードに手を置いた。
黒木が電話の送話口を手で押さえて、振り返った。
「柊さん」
「はい」
「……緊急対応マニュアルを——」
「マニュアルは」と田所が言った。「マニュアルを読んでいる時間は——」
「第三章第二節によりますと」と宮脇が言った。「緊急事態発生時には、統括官の指揮の下、順次対応手順を——」
「順次対応している時間が」と田所が言った。
「手順を踏むことが——」と黒木が言った。
「手順を踏んでいる間にシステムが落ちたら」と田所が言った。
「それは別の手順がございます」と宮脇が言った。
「その手順を踏む時間が」
「あります」
「ありません」
「第三章第四節第二項に——」
「第二項を読んでいる時間が——」
「あります」
「ありません」
三人が同時に喋っていた。
遼はキーボードを叩いていた。
侵入経路が五つ見える。うち三つは陽動だ。残り二つが本命で、一つは古い脆弱性を突いてきている。先週直したいくつかの穴とは別のところだった。手順を踏んで直す予定だった、と田所が言っていた部分の一つだ。
もう一つは想定外だった。ファームウェアの深いところにある。ここを通って侵入するには、かなり具体的な情報を持っている必要がある。
遼は思った。
内部の情報を持っている人間が、外で動いている。
思ったが、今はそれを言う場面ではなかった。
まず止める。
キーボードが鳴る。タン、タン、タン、タタタ。少し速くなった。
田所が気づいた。
「……柊さん」
「はい」
「何をしていますか」
「止めています」
「止める、というのは」
「攻撃を」
「止めて、いい、んでしょうか」
「止めないとまずいので」
「許可が」
「後で取ります」
「後で……」
「許可を取る間に落ちます、このままだと」
「……」
「落ちていいですか」
「……よくありません」
「そうですか」
田所がノートパソコンの背後に回った。遼の手元を見た。
コマンドラインが流れていく。田所は一秒追いかけて、追いつけなくなった。三秒後にもう一度追いかけて、やはり追いつけなかった。五秒後に諦めた。
「……何をしているんですか」
「経路を絞っています」
「絞る、というのは」
「入口を狭くしています」
「はい」
「狭くしてから、残った入口を塞ぎます」
「はい」
「塞いだら、侵入してきた相手がどこで止まったかが分かるので、そこから中に入っている分を追い出します」
「はい」
「追い出したら、穴を塞ぎます」
「はい」
「全部で四段階です」
「全部で四段階」
「はい」
「手順書がないのに、手順があるんですね」
「……そうなりますか」
「なります」
田所がひっくり返るような顔をした。ひっくり返らなかったが、ひっくり返りたそうにはしていた。
黒木の電話が鳴った。
着信である。大臣官房だろうか。
黒木は出た。
「黒木でございます。はい。はい。……現在、対応中です。はい。民間の——」
黒木はそこで止まった。
「民間の、」
止まった。
「民間の、えー」
止まった。
さっきまでの「民間専門家」か「技術支援者」かの議論が、まだ決着していないことを思い出した。
黒木は目で宮脇を探した。宮脇はノートを取っていた。目が合った。
宮脇が口パクで何かを言った。
「『技術支援者』ですか」黒木が小声で聞いた。
「『民間専門家』です」宮脇が口パクで言った。
「さっき私は『民間専門家』を推していましたよ」
「はい」
「これから決めるんでしょう」
「はい」
「では、私は現時点で、『民間専門家』と呼んでよいのですか」
「推している以上、推している側の呼称で呼ぶことは、許容範囲と思われます」
「では」
黒木は電話に戻った。
「民間専門家の協力を得て、現在、対応中です。はい。……具体的な進捗は、あの、」
黒木が遼の方を見た。
「柊さん、進捗を」
「五分で一段階目が終わります」
「……五分で一段階目が終わるそうです。全四段階です」
電話の向こうで何か言っている声が聞こえた。
「はい」「はい」「はい」「はい」「……はい」「……はい、そうです。五分で」「はい」「……了解しました」
黒木が電話を切った。
「大臣官房から連絡が入りました」
「はい」と遼が言った。手は止めていない。
「状況の把握次第、大臣に直接報告することになりました」
「そうですか」
「その際、民間専門家の氏名を明記する必要があります」
「そうですか」
「柊様でお間違いないですか」
「そうです」
「『柊遼氏』と記載してよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「承知いたしました」
黒木が席に戻った。
戻って座って、目の前の書類を整えた。整えながら、手が少し震えていた。
田所がそれを見た。
見なかったふりをした。
十分が経過した。
遼は二段階目に入っていた。侵入してきた相手は、どうやら中継地点を三つほど経由している。最終的な出所は東南アジアのサーバーから来ているが、それは踏み台だ。踏み台の踏み台がアメリカにあって、その手前がヨーロッパにあって、そこまで辿ったところで手が止まった。
本来の出所は、日本国内にある。
しかも、霞ヶ関の方角だ。
遼は一瞬、手を止めた。
それから、止めなかったことにした。
この場でそれを言う必要はない。後でロバートに報告すればいい。あるいは、誰かに。誰に言うべきかは、後で考える。
キーボードを叩き始めた。
十二分経過。
「柊さん」と田所が言った。
「はい」
「お昼、どうしますか」
「……」
遼は画面から目を離さずに言った。
「何かすぐに食べられるものを」
「はい」
「できれば炭水化物を」
「はい」
「あと、汁物があると」
「……」
「なんですか」
「いえ、その」
「すぐに食べられる汁物付き炭水化物、というと」
「カップラーメンでしょうか」
「いいですね」
「……購買で買ってきます」
「お願いします」
田所が立ち上がった。走って部屋を出た。
宮脇が書いた。
「『柊氏、緊急対応中に昼食を要求。カップラーメンを希望』」
「希望していません」と遼が言った。
「事実上、希望されました」
「まあ、そうですが」
「記録いたします」
「どうぞ」
十五分経過。
田所が戻ってきた。カップラーメンを持っている。醤油味である。お湯はSOCの給湯室で注いできたとのこと。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
遼はラーメンのフタを半分めくった。箸を入れた。
左手で箸を持った。右手でキーボードを叩いた。
田所がそれを見た。
「……」
「どうしました」
「いえ」
「何か」
「……片手ですか」
「そうですね」
「両手でやった方が、早くないですか」
「ラーメンが伸びるので」
「……」
「伸びるとおいしくないので」
「……分かりました」
宮脇が書いた。
「『柊氏、左手で箸、右手でキーボード、国家サイバー攻撃を対応中』」
「余計な情報」と遼が言った。
「記録します」
黒木は、部屋の隅で電話を三本同時に受けていた。
同時に、というのは比喩ではなかった。スマホを左耳に当てて、内線電話を右耳に当てて、どこかの誰かに「少々お待ちください」と言ってから、もう一本の携帯電話で別の誰かに出ている。
全部の相手に違うことを言っている。
一本目には「対応中です」。
二本目には「現在、状況を確認中です」。
三本目には「民間専門家の協力を得ております」。
内容はほぼ同じなのに、言い回しが少しずつ違う。役所とはそういうところだ。同じことを五回言うときに、五回違う言い方をする必要がある。それが職能だ。
宮脇が黒木の様子を記録した。
「『黒木統括官、三本の電話を並行処理。同内容を異なる表現で伝達する能力を発揮』」
遼はそれを横目で見て、すこし尊敬した。
自分にはできないな、と思った。
十八分経過。
遼はラーメンの汁を飲み干した。
キーボードから手を離した。
椅子に背中を預けた。
「止めました」
全員が動きを止めた。
黒木が三本目の電話に「少々お待ちください」と言った。
田所がノートパソコンの画面を見た。
宮脇がペンを止めた。
会議室が、十八分ぶりに静止した。
「……止めた、というのは」と田所が言った。
「止めました」
「どの段階で」
「全段階」
「全段階……と、いうのは」
「侵入経路を塞いで、侵入された分を追い出して、攻撃元を特定して、ログを保全しました」
「……」
「追えた範囲は記録してあります」
「……十八分で」
「少し手こずりました」
「……どこで」
「ラーメンを食べかけだったので」
田所が椅子に座り直した。深く座り直した。今日の座り直しはこれで四回目だった。
黒木が手に持っていた電話を、机に置いた。
置いたが、向こうに「少々お待ちください」と言ったままだった。相手の声がスピーカーから漏れていた。「あの、黒木さん」「黒木さん」。黒木はそれに気づかないでいた。
「……前例が」と黒木が言った。
「はい」と宮脇が言った。
「前例が、できました」
「記録いたします」
「記録してください」
「『柊氏、国家サイバー攻撃を十八分で撃退。並行してカップラーメンを摂取』」
「ラーメンの部分は要りません」と遼が言った。
「記録の正確性のために」
「正確性が過剰です」
「記録に過剰はございません」
「……」
「ただいまの沈黙も」
「記録するんでしょう」
「はい」
遼は立ち上がった。
背伸びをした。
首を回した。
どこかで骨が鳴った。
黒木がまだ受話器を持ったまま、遼を見ていた。
「あの、大臣官房にはどう報告すれば」
「落ち着きました、でいいと思います」
「……短くないですか」
「短いと具合が悪いですか」
「……はい」
「では、攻撃は撃退され、システムは復旧、原因の一部は追跡中、でいかがですか」
「……原因の一部は、追跡中」
「はい」
「追跡中、というのは」
遼は、少し考えた。
何度か、言葉を頭の中で入れ替えた。
それから、言った。
「今回の攻撃は、出所が複雑で、解析に時間がかかります。後ほど、正式な報告書で」
「……了解しました」
「それでいいですか」
「いいです」
遼は田所を見た。
田所は遼を見ていた。
目が合った。
田所には分かったらしい。遼が「追跡中」と言った中身が、普通ではないことを。
たぶん、田所は遼と一緒に同じログを見ていた。見ていたから、経由地の途中で何かが妙なことに気づいていた。気づいていたが、その妙なことを自分の口から言うのは、田所の立場では極めて厄介であるらしかった。
田所は何も言わない。ただ、小さくうなずく。
遼も、小さくうなずく。
宮脇のペンが動く。
「何を書いているんですか」
「『柊氏と田所三佐、うなずき合う』」
「書かなくていいです」
「書きます」
「……」
「ただいまの沈黙も」
「もういいですよ」と遼が言った。
「記録が職務ですので」
「その「ので」、さっきから何十回聞いたか分かりません」
「十三回でございます」
「数えているんですか」
「記録の一部ですので」
「…………」
「『柊氏、長い沈黙』」
夜。柊家。
華が帰ってきた。凛はすでに帰っていた。炊き込みご飯が炊きあがっている。華が冷蔵庫を開けた。
「遼は?」と華が言った。
「まだ帰ってない」と凛が言った。
「遅いね」
「遅い」
「電話した?」
「今日はやめとこう」
「なんで」
「なんとなく」
華が凛を見た。
「お姉ちゃんが「なんとなく」って言うときは、大体、何かある」
「何もない」
「あるでしょ」
「ない」
「ある」
「ない」
「ある」
「……ないってば」
そのとき、玄関が開いた。
「ただいま」
「遅かったね」と凛が言った。
「少し仕事が」
「どんな仕事」
「……攻撃が来たので」
華の手が止まった。冷蔵庫のドアに手をかけたまま、止まった。
凛も箸を置いた。
「攻撃って」と華が言った。
「サイバー攻撃」
凛と華が顔を見合わせた。
「……遼」
「なに」
「今、さらっとすごいこと言った?」
「普通の仕事です」
「普通じゃないよ!」と凛が言った。
「普通だった」
「攻撃を受ける普通がある?」
「今日あったので」
「一日でなるの? 普通って、そんな早くなるの?」
「その割にはラーメン食べてた」
「遼、ラーメン食べてたの?」と華が言った。
「カップラーメン」
「カップラーメン食べながら?」
「片手で」
「……」
「両手だとラーメンが伸びるので」
「遼!!!」と凛が言った。「遼、あんたそれ、絶対ニュースになるやつ!」
「……ならないでほしい」
「なるよ!」
「なるよ!」と華が言った。
凛と華が声を揃えた。姉妹で声を揃える時、だいたい遼に無理を言う時である。
遼はスーツのジャケットを椅子にかけた。ネクタイをほどいた。炊き込みご飯の香りが漂ってきた。
「ご飯、食べていい?」
「食べて」
「食べて」
「ラーメン食べたのに?」
「あれはラーメンで、これはご飯」
「……別の胃袋?」
「別の胃袋」
「遼、胃袋二つあるの?」
「ないけど、ある」
「どっち!」
凛が茶碗を三つ並べ始めた。華が箸を並べた。
玄関のチャイムが鳴った。
華が出た。
「田中さん」と華の声が聞こえた。
「あら、ごめんね遅くに。お隣からプリン頂いて余ったから持ってきたの」
「ありがとうございます。上がっていきますか」
「ううん、夕飯時だから。あ、そうだ、遼くん今日大変だったんでしょ?」
リビングの凛と遼が、同時に止まった。
二人で目を見合わせた。
凛が小声で言った。
「田中さん、もう知ってるの?」
「なんで知ってるんだ」
「田中さんだから」
「それ、回答になってない」
「田中さんだもん」
華が田中のおばちゃんをリビングに連れてきた。プリンを机に置いた。四つ入っていた。
「田中さん」と凛が言った。「遼のこと、なんで知ってるんですか」
「え? うちの甥っ子がね、サイバー関係の仕事してて、さっき電話くれたのよ。『おばちゃん、遼くんすごいことしたらしいよ』って」
「甥っ子さんがサイバー関係」
「そうそう。詳しくは分からないんだけど」
「詳しくは分からないのに、遼がすごいことしたのは分かった」
「そういうことになるわね」
遼は何も言わなかった。
言うべきことがなかった。
田中のおばちゃんが遼の肩を叩いた。
「遼くん、国守ったんだって?」
「……少し」
「少しって」
「少しです」
「大したもんだよ」
「普通です」
「普通でそんなことできないって」
「……」
「あ、ニャン子ちゃんがお腹すかせてるから帰るね。ご飯おいしそうだねえ、炊き込み?」
「炊き込みです」
「また今度、おすそ分けしてね」
「はい」
田中のおばちゃんは帰っていった。
リビングに三人が残された。
プリンが四つ。
炊き込みご飯。
凛と華が遼を見ている。
遼は茶碗を手に取った。
「いただきます」
「いただきます」「いただきます」と二人も言った。
言ったけれど、箸はまだ動いていない。
遼の方だけが、普通に食べ始めていた。
深夜。
桜井詩織の部屋。
テレビがついている。音量は小さい。ニュース番組が流れていた。
詩織はマグカップを両手で持って、画面を見ていた。
「……政府系インフラに対するサイバー攻撃が、本日午前中に発生したとみられます。関係省庁によりますと、攻撃は民間の技術専門家の協力によって撃退されたとのことで、システムへの実害は確認されていないとの発表が——」
詩織は画面を見たまま、お茶を一口飲んだ。
冷めていた。
冷めていたけれど、飲んだ。
(民間の技術専門家)
その言葉を聞いた瞬間に、誰のことか、詩織には分かった。
分かったけれど、分かったとは思いたくなかった。
スマホを手に取った。
遼の名前を開いた。
最後のやり取りは三日前。「お疲れ」「まあ」というだけの、短いやり取り。
何か打とうとした。
「大丈夫?」と打ちかけて、消した。
「今日、大変だった?」と打ちかけて、消した。
何か聞けば、何かを返してくる。遼は嘘をつかない。聞けば、たぶん「そうです」と返してくる。そうです、と返してきたら、それが事実になる。事実になると、詩織は、どうしていいか分からなくなる。
それは困る。
だから、聞かない。
詩織はスマホをしばらく見ていた。
画面に、自分の顔がかすかに映っていた。
「おやすみ」と打った。
送った。
しばらく経って、既読がついた。
返信は来なかった。
詩織は少し笑った。
遼の「返信しない」は、いつもの遼だ。今日も、いつもの遼だ。ニュースのことなんか、関係ない顔をしている。そうしていてほしい。そうしていてくれる限り、詩織は、動かなくていい。
動いてしまうと、何かが変わる。変わってしまえば、元に戻らないことを、詩織はよく知っている。小学生の頃から、家の中で、何かが変わって、元に戻らないのを見続けてきた。だから動かない。動かないという姿勢で、詩織は何かを守っている。何を守っているのかは、本人もうまく言えない。
テレビを消した。
部屋が静かになった。
マグカップの中身を流しに捨てる。
冷めた茶は、いつもより少し冷たい。
蛇口を閉めて、詩織はしばらく流しの前に立っていた。
向かいのマンションの、斜めの位置の窓に、明かりがついている。
遼の部屋の窓。
明かりが、ついている。
それを確認してから、詩織は寝室に向かった。
深夜一時。遼の部屋。
スマホに詩織からのLINEが来ていた。「おやすみ」。
遼は既読だけつけた。
返信は、しなかった。
した方がいいかな、と少し思った。
でも、何を返せばいいかが分からなかった。
「おやすみ」と返すのは、簡単だ。でも今夜はその一言で足りる気がしなかった。何かもう少し、ある気がする。あるが、分からない。分からないなら、送らない方がいい。
スマホを置いた。
ノートパソコンを開いた。
今日の午前中に見た、攻撃元の痕跡。
霞ヶ関の方角から来ていた。
もう一度、ログを辿った。
経由地を全部書き出した。経由地の経由地まで書き出した。踏み台の上の踏み台の上の踏み台。その先に、国内のIPアドレス。匿名化されている。匿名化が綺麗すぎる。これを匿名化できる人間は、限られている。
遼は一つ息を吐いた。
明日、ロバートに連絡しよう。
それから、誰かに。誰かに、は、明日考える。
ノートパソコンを閉じた。
ベッドに横になった。
天井を見た。
白い天井。
小さなひびが一つ入っている。去年から同じ位置にある。
(普通の仕事だった、と言ったな)
そう言った。二人に。そう言ったし、本当にそう思っていた。自分のやったことは、自分にとって普通の仕事だ。それは嘘ではない。
でも、カップラーメンを片手で食べながら十八分で攻撃を撃退する人間を、世間は「普通」と呼ばない。
それは、分かっている。
分かっているが、じゃあ自分は何なのか、と聞かれると、遼には答えがない。答えがないのが、ずっと続いている。
目を閉じた。
同じ頃、港区。
ロバート・チェンのデスク。
ロバートはラップトップを開いていた。
画面には、TechVision経由で入ってきた情報。日本政府系インフラへのサイバー攻撃、および撃退の記録。詳細は伏せられている。但し、技術的なシグネチャから、対応者が誰かは、ロバートには分かった。
ロバートはデイビッドに電話した。
三コールで出た。
"David. I have a report."
(デイビッド。報告があります)
"Go ahead."
(聞いています)
"There was an attack today. On Japanese government infrastructure."
(今日、攻撃がありました。日本政府のインフラに)
"And?"
(それで)
"It was stopped. In eighteen minutes."
(止まりました。十八分で)
沈黙。
"Eighteen."
(十八分)
"Yes."
(はい)
"Hiiragi."
(柊か)
"Yes."
(はい)
短い沈黙。
"…What was he doing at the time."
(……彼はその時、何をしていた)
ロバートは少し考えた。
情報を集めていた中に、一つ、妙な記述があった。正式な記録には残らないだろうが、現場にいた人間から漏れてきた話だ。
"He was eating ramen."
(ラーメンを食べていました)
"……"
"With his left hand. And typing with his right."
(左手で。右手でキーボードを打ちながら)
"……"
"Sir?"
デイビッドが、低く笑った。
ロバートが、この二十年で聞いた中で、最も長い笑いだった。三秒ほど続いた。
笑いが収まってから、デイビッドが言った。
"Robert."
"Yes."
"Tell him thank you."
(彼にありがとうと伝えろ)
"…Yes, sir."
"And Robert."
"Yes."
"Tell him: take his time finishing the ramen."
(それから——ラーメンはゆっくり食べろ、と伝えろ)
電話が切れた。
ロバートはしばらく、スマホを見ていた。
それから、遼にメッセージを打った。
「David says thank you.」
(デイビッドがありがとうと言っていました)
少し考えて、もう一行足した。
「Also: take your time finishing the ramen.」
(あと、ラーメンはゆっくり食べろ、だそうです)
送信した。
既読はつかなかった。
つかなかったが、ロバートはそれでよかった。
ラップトップを閉じた。
窓の外を見た。
東京の夜。明かりが、いつも通りに灯っている。
今日、この明かりが消えなくてよかった、と思った。
思ってから、そういうことを思うようになった自分に、少し驚いた。




