第34話「もうすぐ」
柊凛がリビングに戻ってきたのは、夜の九時過ぎ。
撮影が長引いた。体が重い。靴を脱ぎながら「ただいま」と言ったが、返事がなかった。
いつものことだ。遼は作業中、返事をしないことがある。厳密に言うと、声が聞こえていないわけではなく、返事をする必要があるという判断が発生する前に次の作業に移ってしまう。それが二十二年続いている。
台所を覗いた。
鍋がある。凛が昨日作ったやつの残り。フタが開いている。
触ってみた。
冷たかった。
「遼」と凛は呼んだ。
「……ん」
「ご飯食べた?」
「……」
「食べてないね」
「まあ」
凛はため息をついた。遼の部屋のドアが少し開いていて、キーボードの音がしている。今日も深夜コースだ。
鍋を火にかけながら、凛はスマホを取り出した。
詩織ちゃんにLINEを送った。
「詩織ちゃん、遼がまたコンビニのおにぎり一個で一日乗り切ろうとしてるんだけど。明日時間あったら差し入れ持ってきてあげてくれない? 私が言っても「後で」って言うから」
三分後に返信が来た。
「分かった。明日の午後ならいけると思う」
凛は「ありがとう。助かる」と返した。
鍋がぐつぐつし始めた。
(詩織ちゃんに頼むのが一番早い)
遼がご飯を食べるかどうかについて、凛には長年の研究がある。凛が「食べなさい」と言っても「後で」と言う。華が「食べてよー!」と言っても「後で」と言う。でも詩織が来て「食べよ」と言うと食べる。なぜかは分からないが、十年以上そうだ。
まあ、いいか。
凛は自分の分だけよそった。
翌日の午後、二時過ぎ。
チャイムが鳴った。
遼はモニターから目を離さずに「開いてます」と言った。
ドアが開く音。廊下の足音。
「失礼します」
桜井詩織の声。
遼がようやく振り返った。
詩織がコンビニの袋を持って立っていた。おにぎりとサンドイッチと缶コーヒーと、あと何か入っている。
「凛さんから聞いた。ご飯食べてないって」
「まあ」
「まあじゃなくて」
「今食べようとしてた」
「今じゃなかったでしょ」
「今になった」
詩織がため息をついた。遼の机の隣のパイプ椅子を引いて、コンビニの袋をテーブルに置いた。
「ここに置くから、食べて」
「ありがとう」
「お金は後でいい。食べることが先」
遼がおにぎりを一個取った。ツナマヨだった。
詩織は部屋を見回した。
机の上に部品が散らばっている。基板が三枚並んでいる。ケーブルが束になって隅に積まれている。床にも何かある。何かは分からないが、機械の一部だと思う。
「変わってないね、この部屋」
「まあ」
「まあって言うと思った」
「事実だから」
「事実だとしても、もう少し言い方ある」
「……変わってないと思う」
「同じ」
遼がおにぎりを食べた。詩織はサンドイッチを一個取って、コーヒーのプルタブを開けた。
しばらく、静かだった。
窓から午後の光が入ってきている。外では鳥が鳴いている。部屋の中はキーボードの音と、二人がものを食べる音だけ。
この静かさが、詩織は嫌いじゃない。
遼の部屋の静かさは、他の場所の静かさと少し違う。何もないから静かなのではなく、遼がいて、何かに集中していて、その集中が空気になっている感じ。小学生のころからここに来るたびそう思っていた。
「プログラム、もうすぐ終わりそう?」
「あと少し」
「あと少しって、どのくらい」
「数日」
「数日か」
「長くて一週間」
「それ終わったら、TechVisionに行くの?」
遼がおにぎりを食べながら、少し間を置いた。
「……まあ、そうなると思う」
「そっか」
詩織はコーヒーを一口飲んだ。
「そっか」と言ったが、頭の中で「数日で終わる」「一週間」「TechVision」という言葉が順番に並んだ。並んで、それぞれの意味を確認した。
終わる。終わったら動く。遼の日常が少し変わる。
変わるのが怖いわけではない。ただ、「今まで通り」ではなくなる予感が、少しある。
「アリアさんって、どんな人?」
詩織は自分でも少し驚いた。思ったより早く口から出た。
遼がサンドイッチを取りながら、少し止まった。
「……賢い人だと思う」
「賢い」
「技術の話ができる。質問の仕方が正確で、答えを受け取る速度が速い」
「……そういう意味の賢い」
「他の意味はあまり分からない。でもそれは確か」
詩織は少し笑った。
賢い、だった。技術の話ができる、で始まった。遼が「賢い」と言うとき、それはほぼ技術的な話だ。感情とか関係性とか、そういう方向の言葉ではない。
それがどういう意味を持つのかは、詩織には分からない。
ただ、「温度」は確認できた。遼の「賢い人だと思う」に、詩織が恐れていたような熱さはなかった。もしかしたらあるのかもしれないが、少なくとも今日の声の出し方には、なかった。
「そっか」
もう一回、そっかと言った。
遼は何も言わなかった。コーヒーを一口飲んで、また画面の方を向いた。
「邪魔にならないなら、もう少しいていい?」
「どうぞ」
詩織はサンドイッチの二個目に手を伸ばした。
窓の外の鳥が、また鳴いた。
同じ日の午前中。
映画の撮影現場は、クランクアップまであと三日というタイミングだった。
午前の撮影が終わって、キャストとスタッフがぞろぞろと外に出た。篠原監督が次のシーンの確認をスタッフとしている。柊華はマネージャーと少し話をして、水城蒼真は台本を手に持ったまま空を見上げていた。
いい空だった。五月の青。
宮本奈々は建物の壁際で、ショートピースに火をつけながらそれを見ていた。
蒼真が華の方を向いて何かを言った。華が笑った。その笑い方が少し軽くて、蒼真の顔が少し赤くなった。
(今日も分かりやすい)
奈々は煙を吐いた。
そのとき。
建物の出口の方から、スーツの男が二人、こちらに向かってくるのが見えた。一人がバッグを持っている。一人がスマホを持っている。スタッフでも関係者でも、なさそうな歩き方だ。
目的地が分かった。
華だ。
奈々はショートピースを口から外した。
男の一人が「柊さん、少しよろしいですか」と声をかけた。週刊誌系の記者らしい声の出し方。スマホをこちらに向けながら続けた。「水城さんとの関係について、少し聞かせていただけますか」
華が気づいて、少し固まった。マネージャーが「すみません、今は——」と間に入ろうとした。
でも男は「一分だけ」と言いながら前に進もうとした。
そのとき。
「そこまでで」
蒼真が、華と記者の間に入った。
声は大きくなかった。でも止まった。
蒼真は特に表情を変えなかった。ただ、そこに立っていた。華の前に。
「撮影中です。対応できません」
記者が蒼真を見た。
「水城さん、華さんとの関係について——」
「撮影中です。対応できません」
同じ声の温度で、もう一度言った。
マネージャーが「柊のスケジュールについてはこちらに」と名刺を出した。記者が少し引いた。もう一人も引いた。二人で何か話してから、来た方向に戻っていった。
終わった。
全部で三十秒くらい。
華がようやく息をついた。
「……ありがとう、蒼真くん」
「いえ」
「なんかその、自然に入ってくれたね」
「気づいたら動いてました」
蒼真が少し照れた顔をした。華はまだドキドキしている顔をしていた。
壁際で、奈々がショートピースをくわえた。
(あ、やった)
口角が上がるのを、止めなかった。
蒼真のことは初日から分かりやすいと思っていた。今日のもそうだ。好きな人の前に入るとき、人は「気づいたら動いてた」という。計算してないのに動く。それが一番正直な動き方だ。
奈々は煙を一口吸って、別の方向を向いた。
蒼真と華がまだ何か話しているのが、横目に入った。
華の顔が、さっきと少し違う色をしていた。
(あの子も気づいてきてるんじゃないか)
気づいてきてる、というのは恋の話ではなく、「蒼真くんが特別な感じ」という話。それが恋かどうかは、まだ本人には分からないだろう。でも何かが違う、という感覚は出てきている。そういう顔をしていた。
昼休憩に入った。
奈々は蒼真を楽屋に呼んだ。呼んだというか、廊下で「ちょっといい」と声をかけた。
蒼真が「何ですか」という顔で来た。
「よかったじゃん」
それだけ言った。
蒼真が少し止まった。
「……何がですか」
「さっきの」
「さっきのって」
「前に入ったやつ」
蒼真の顔が、ほんの少し赤くなった。
「……別に、当然のことをしただけで」
「当然のことを自然にできるのがいいんだよ」
「奈々さん、見てたんですか」
「見てた」
「……」
「何も言わなくていいから」奈々がショートピースをポケットにしまいながら言った。「そのまま続けて」
蒼真が何か言いかけて、やめた。
奈々は廊下を歩き出した。
「奈々さん」
「うん」
「……なんで、そういうこと分かるんですか」
「二十年ここにいるから」
「それだけですか」
「それだけ」
奈々は振り返らずに答えた。
廊下の角を曲がった。
(それだけで十分でしょ)
心の中で続きを足した。二十年でいろんなものを見てきた。恋が始まるときの顔も、終わるときの顔も。気づく前の顔も、気づいた後の顔も。
蒼真のは、気づく前と気づいた後のちょうど間くらいだ。
華のも、そろそろそこに来る。
来たとき、二人でどういう顔をするか。
ちょっと楽しみだな、と思いながら、奈々は楽屋に戻った。
夕方。
凛が撮影から帰ってきた。
「詩織ちゃん来てた?」
「来た」
「ご飯食べた?」
「食べた」
「よかった」
凛がコートを脱ぎながら台所を覗いた。コンビニの袋がゴミ箱に入っている。おにぎりとサンドイッチの包みが見えた。
「詩織ちゃん、どのくらいいた?」
「一時間くらい」
「何してたの」
「いた」
「いた、って何してたんだよ」
「まあ、色々」
凛はため息をついた。
「色々ってなんなんだよ毎回」
「話したり、静かにしてたり」
「それが色々のすべてなの?」
「まあ」
凛は遼の背中を見た。また作業に戻っている。一時間、詩織が来て、話したり静かにしていた。それだけ。
でも、それでいいんだろうな、とも思った。
詩織ちゃんのことを考えると、凛はたまに少し複雑な気持ちになる。何が複雑なのかをうまく言葉にできないが、複雑だという感覚はある。
「プログラム、もうすぐ終わりそうなの?」
「あと少し」
「じゃあその間くらいちゃんとご飯食べて」
「食べてる」
「今日だけでしょ」
「今日食べたから今日は食べてる」
「そういう意味で言ってない!!」
遼が振り返った。
「詩織が差し入れ持ってきてくれた。毎日は頼めないから、自分で買う」
「……本当に自分で買えるの」
「買える」
「いつも言って買えないじゃん」
「今回は買う」
「本当に?」
「本当に」
凛は三秒考えた。
「……まあ、もうすぐ終わるんだったら、それでいっか」
「うん」
「でも忘れたら怒るから」
「忘れない」
「絶対」
「絶対」
凛がソファに倒れ込んだ。
遼がまた作業に戻った。
キーボードの音が再開した。
リビングの空気が、いつも通りに戻った。
深夜。
遼の部屋に灯りがついていた。
モニターの光だけが白く明るい。コーヒーが一杯、端に置いてある。今日は冷める前に飲んだ。
プログラムのデバッグを続ける。
もうすぐ終わる。
「もうすぐ」が、数日前から続いている。「もうすぐ」の感触がある。でもまだ終わっていない。終わるとはそういうものだ。終わる直前が一番時間がかかる。
作業しながら、頭の中に今日の詩織の声が残っていた。
「アリアさんって、どんな人?」
賢い人だと思う、と答えた。正確な答えだと思う。でも詩織がその後、少し間を置いてから「そっか」と言ったときの声の出し方が、いつもと少し違った気がした。
「そっか」はいつも言う。詩織は何かを聞いたときに「そっか」と返すことが多い。でも今日の「そっか」は、二回あって、二回とも少し間があった。
なぜ間があったのかは、分からない。
聞けばよかったかもしれない。でも聞かなかった。
遼はコーヒーを一口飲んだ。
画面に向き直った。
プログラムの続き。あと少し。
「もうすぐ」が、今日も続く。




