第33.5話「AURUMの休日」
黒瀬綺羅には、休日の過ごし方が二種類ある。
ひとつは「黒瀬綺羅」として過ごす休日。ファンミーティング、雑誌の撮影、業界関係者との食事。全部仕事だが「休日」という名目になっている。完璧な笑顔と低音ボイスを維持したまま、八時間で仕事を終える。
もうひとつは、完全にオフの休日。
今日はそっちだった。
黒のキャップ。黒のマスク。黒のパーカー。
全身黒で新宿の書店に来ている。身長百八十二センチの男が全身黒でフードを深くかぶって歩いていると、むしろ目立つ。それを本人は知らない。
三階の文芸コーナーを抜けて、四階に上がった。
目的のコーナーは決まっていた。
BL新刊棚。
発売日に確認しに来たかったが、スケジュールが詰まっていて今日まで来られなかった。一週間待ちに待ったやつが入荷しているはずだ。
棚の前に立つ。
タイトルを順番に確認していく。
(……あった)
黒瀬の心拍数が、静かに上がった。
表紙を見た。カバーイラストを確認した。帯のコピーを確認した。
完璧だった。
解釈一致が過ぎる。
手に取って、帯の裏まで確認して、もう一度表紙を見て——
「綺羅ちゃん」
声がした。
黒瀬の手が、止まった。
振り返った。
柊華が立っていた。手に文庫本を一冊持って、ニコニコしていた。
三秒、沈黙があった。
「……なんで」
「私も本買いに来てた。四階上がったら綺羅ちゃんいた」
「なんで四階に」
「面白そうなの見つけたから」
「いや、そういう意味じゃなくて」
黒瀬は手元を確認した。
BL新刊が、手の中にあった。
華が黒瀬の手元を見た。黒瀬が華の目を見た。華が黒瀬の目を見た。
「……」
「……」
「相変わらずガチだね」
「見るな」
「見えた」
「見るな!!」
書店の一階、カフェコーナーのいちばん奥。
黒瀬は帽子を下げて、壁側の席に座っていた。
テーブルの上に、さっきのBL新刊が一冊、伏せて置いてある。
向かいに華が座って、コーヒーを飲んでいた。
「偶然だね」
「偶然じゃない。引っ張ってきたのお前だろ」
「動揺してたから」
「してない!!」
黒瀬は声を抑えながら、しかし確実に動揺していた。
王子様の顔はもう、とっくに剥がれていた。
華はコーヒーを一口飲んで、テーブルの上の本を見た。
「それ、今日出たやつ?」
「見るな」
「表紙きれいだね」
「見るな!!」
「攻め受けどっち派?」
「……」
黒瀬が黙った。
華はにこにこしながら続けた。
「幼なじみ系? ライバル系?」
「……」
「私、幼なじみ系が一番好き。ずっと側にいたのに気づくやつ」
黒瀬の沈黙が、少し変わった。
「……ライバル系」
声が低かった。
「え、言ってくれるんだ」
「……今更隠しても意味ないだろ」
「そうだよ! 隠さなくていいんだよ!」
華が身を乗り出した。
「ライバル系のどのパターン? 最初から火花散ってるやつ? それとも最初は普通で気づいたら、みたいな?」
「両方あっていい」黒瀬が渋々答えた。「ただ、気づきのシーンに緊張感がいる。唐突に「好きかもしれない」は受け付けない」
「分かる!! 積み上げがいるよね」
「積み上げが全て。一話目から伏線を貼れ」
「それ!! 私もそれ思う!」
二人の声のトーンが上がっていた。
黒瀬のテンションが、もう少し上がった。
「しかも気づきのシーンは、絶対に二人きりじゃないといけないの。第三者がいたら台無しだから」
「そうそう! 二人だけの空間で——」黒瀬、止まった。
自分の口調が今の一瞬だけ変わったのに、気づいた。
華がにこにこしていた。
「……」
「「なの」って言った」
「言ってない」
「言ったよ。「台無しだから」の前に」
「言ってない!!」
周囲のテーブルに、何人かの客がいた。全員が何となく気づいていた。「この二人、かなりマニアックな話をしている」と。正体には気づいていない。
黒瀬は少し我に返って、声を落とした。
「……お前と話すといつもこうなる」
「いい意味で?」
「いい意味でだ」
華が笑った。
黒瀬も、ほんの少しだけ笑った。
「ところで」と華が言った。
「なんだ」
「遼に告白した子がいるらしくて」
黒瀬のコーヒーカップが、テーブルの上で少し止まった。
「……誰に」
「アメリカの子。TechVisionっていう会社の娘さんで。遼のとこに何度も来てたんだけど、どうやら気持ちを伝えたってお姉ちゃんから聞いた」
「……それで」
「遼が「考えます」って言ったらしい」
黒瀬の目の奥が、かすかに動いた。
「「考えます」」
「うん」
「告白に対して」
「うん」
「……まあ、即答できないなら考えます、はあり得る」
「そうだよね! 私もそれは思った」
「で、その後どうなったんだ」
「「じゃあ考えてる間も会いに来る」ってアメリカの子が言って」
沈黙。
「……なんでその返し方でファンになる人がいるんだ」
「でしょ!!」華が声を上げた。「お姉ちゃんも私もそれ思った!」
「考えてる間も来る、って何なんだ」
「遼は「止められないですか」って聞いたらしくて」
「…………」
黒瀬がしばらく黙った。
コーヒーを一口飲んだ。
「……その問答、二人ともおかしい」
「おかしいんだよ!!」
華が両手でテーブルを軽く叩いた。
「直球ど真ん中で投げたのに「考えます」。「じゃあ考えてる間も来る」。「止められないですか」。それぞれはちゃんとしてるのに二人合わせるとおかしい」
「……お前の兄、それが普通なのか」
「普通なんだよ! それが問題で!」
黒瀬はしばらく窓の外を見た。
「……それ、めちゃくちゃ面白い話だな」
「面白い?」
「本人だけ気づいてないやつじゃないか」
「そうなんだよ!!」
「それうちの家の話だけどね」
「知ってる」
黒瀬が静かに、しかし確実に何かを書き留めたそうな顔をしていた。
「……綺羅ちゃん、手帳出そうとしてない?」
「出してない」
「出そうとしてたよ」
「出してない!!」
一時間後。
二人は書店を出て、近くの公園のベンチに移動していた。
黒瀬はコンビニで買ったペットボトルを持っていた。華はアイスを持っていた。
しばらく他愛のない話をした。新しく出た映画の話。AURUMの次のライブの話。華が最近入ったドラマの話。
「水城くんとの共演はどう」と黒瀬が聞いた。
「楽しい。台本読み合わせのときの感覚が好き」
「役として向き合ってくれる感じがあって。表面的じゃないというか」
「……台本の外では」
「普通に話すよ。コーヒーとか一緒に飲んだりするし」
「ふうん」
黒瀬が少し間を置いた。華はアイスを食べながら、公園の鳩を眺めていた。
「華」
「うん?」
「自分の気持ち、ちゃんと確認してる?」
華がアイスを持ったまま、少し止まった。
「……なんで急に」
「急じゃないわよ。聞いておきたかっただけ」
「どういう意味?」
「撮影中は「役として楽しい」と「本人として楽しい」が混ざることがあるの。区別できてる?」
華はしばらく考えた。
「……考えたことなかった」
「考えておいた方がいいわ。あなた感覚型だから、混ざったまま進むことがある」
「綺羅ちゃん、なんかちゃんとしたこと言うね」
「普通のことよ」
「普通じゃないよ」
「普通だから」
華が黒瀬を見た。黒瀬は前を向いていた。王子様の顔ではなく、ただ人と話している顔だった。
「……ありがとう」
「別に」
「いや、ちゃんとありがとう。聞いてくれて」
「……どういたしまして」
黒瀬がペットボトルのキャップを回した。
公園の鳩が三羽、近くに来た。華がアイスの棒を見せると、一羽が首を傾けた。
「それで」と黒瀬が言った。
「うん」
「さっきの話の続きだけど」
「遼の話?」
「そう。「考えます」って言った子、その後どうなったの」
「まだないんじゃないかな」
「そう」
「気になる?」
「……構造的に気になるだけよ」
「構造的に」
「個人的には全くない」
「そっか」華が少し笑った。「じゃあ続報が入ったら教える」
「必要ない」
「嘘つけ」
「……必要ないったら」
黒瀬が、ペットボトルのキャップを締めた。
そのまま少し間があった。
「……「考えます」って言う人間が、複数の人間に同時に「面白い」と思われる構造、どうやって成立するのかしら」
「遼はそういう人だから」
「どういう人なの」
「なんか……普通にしてるだけなのに、気になる人が気になってしまう人」
「受け顔、とは違うか」
「受け顔?」
黒瀬が少し咳払いをした。
「……何でもない」
「今受け顔って言った?」
「言ってないわ」
「確かに言ってたよ」
「言ってない!!」
公園の鳩が、二羽飛び立った。
帰り道。
駅の改札前で、二人は別れた。
「今日はありがとう。急に付き合わせて」
「急に書店で話しかけてきたのはお前の方だ」
「それもそうか」
「……まあ。楽しかったわ」
黒瀬が言って、止まった。
華がゆっくり振り返った。
「……今「楽しかったわ」って言った」
「言ってない」
「言ったよ」
「……言ってない」
「言ったよ!!」
「ライバル系の話、また続けよう」黒瀬が話を強引に変えた。「それだけだ」
「絶対しよう! 次は私の新刊情報も持ってくる」
「持ってこい」
華が改札に入ろうとして、振り返った。
「あ、そうだ。さっきの受け顔の件」
「言ってない!!」
「言ったよ!!」
周囲の通行人が二人を見た。どちらも気にしなかった。
黒瀬は低音で「行け」と言った。華は笑いながら改札を抜けた。
帰りの電車の中。
黒瀬は一人で座っていた。キャップを深くかぶって、窓の外を眺めていた。
鞄の中に、今日買ったBL新刊が入っていた。それとは別に、もう一冊入っていた。華がレジで「これも買っといて」と押し付けてきた、幼なじみ系の新刊だった。
「私が好きなやつ。読んでみて」と言われた。
黒瀬は「別に幼なじみ系は守備範囲外だ」と言った。
華は「いいから読んで」と言った。
結局受け取った。
鞄の中を見ながら、黒瀬はぼんやりと考えた。
(遼×アリア、か)
華の話を聞いた限り、「考えます」と言った側の人間は今どういう状態なのか。告白を受けて、その後どう動いているのか。
黒瀬は鞄から手帳を取り出した。
ページを開いた。
ペンを持った。
「遼×アリア(仮)」と書いた。
書いた。
三秒見た。
丁寧に消した。
翌日のリハーサル前。
楽屋で五人が準備をしていた。
黒瀬が鞄を棚に置いたとき、手帳がぽとりと床に落ちた。
ちょうど近くにいた朝倉玲央が拾おうとして、開いたページに目が止まった。
消し跡がある。丁寧に消してあるが、うっすら文字の形が残っている。
「……リーダー、これ」
「あ、それ——」
黒瀬が手を伸ばした。
「「遼」……「アリア」……?」
「返せ!!」
楽屋に、黒瀬の低音が響いた。
白石奏斗が顔を上げた。橘悠真が振り返った。東條理人がメガネを押し上げた。
「リーダー、なんかあった?」と悠真が聞いた。
「何もない」
「玲央、何見たの」と奏斗が穏やかに聞いた。
「落ちた手帳に「遼」と「アリア」って書いてあって」
「誰だそれ」と悠真が言った。
「知り合いの名前だ」と黒瀬が言った。「何でもない」
「返せって必死だったんですか?」と玲央が言った。
「必死じゃない」
「何でもないなら返せって言わないですよね」
「……うるさい」
「リーダーの「何でもない」、統計的に見て信用できないんですよね」と理人が言った。
「お前が統計の話をするな!!」
楽屋が少し騒がしくなった。
黒瀬は手帳を鞄の奥にしまった。
深呼吸をして、完璧な王子様の顔に戻った。
「……リハーサルの時間だ。行くぞ」
「「「はーい」」」
四人がぞろぞろと立ち上がった。
廊下を歩きながら、玲央がそっと奏斗に耳打ちした。
「「遼」と「アリア」ってなんですかね」
「さあ」
「気になりません?」
「気にしない方がいい」
「なんで」
「黒瀬が怒ったら終わりだから」
「なんで」
「黒瀬が怒ったら終わりだから」
玲央が少し考えた。
「……確かに」
前を歩く黒瀬の背中は、いつも通り完璧だった。




