柊家の夜明け前 Episode 10「凛が生まれる日」
九月の終わり。
商店街の頭上を、乾いた風が抜けていく。
惣菜屋「たなか」の軒先で、田中幸江はコロッケを揚げながら、隣の家の灯りを横目で確認していた。台所の窓。白いカーテン越しに、由紀の影。
今日も早起きしている。
まあ、当然だろう、と幸江は思う。もう生まれてもおかしくない頃合いだ。それどころか、医者には「来週が予定日」と言われていると、先日由紀から聞いていた。
海斗は、まだ帰っていない。
柊由紀、二十八歳。
台所に立って、お湯を沸かしている。
お腹が大きい。腰に手を当てながら、やかんが沸くのをじっと待つ。立っているだけで息が上がるようになったのは、ここ二週間のことだ。それでも座っていると落ち着かない。体が動くことを確かめたくて、台所に立つ。
窓の外で、商店街が動き始めている。
八百屋の主人が段ボールを積んでいる。豆腐屋のおじさんが軽トラで路地に入ってくる。幸江さんがもう火をつけている。油の匂いが、窓の隙間からわずかに入ってくる。
いつもの朝だ。
でも今日は、何かが違う気がする。
由紀はそれを、うまく言葉にできない。ただ、体の芯にある重さが、昨日とは少し違う。
やかんが鳴る。
お茶を淹れて、縁側に持っていく。庭の梅の木に、雀が二羽止まっている。葉が黄ばみかけて、秋の光の中でぼんやりと光っていた。
海斗は、今どこにいるだろう。
インドだ。正確には、帰国の便の中かもしれない。昨晩の電話では「明日の午後には着く」と言っていた。明日の午後。今日の体の感覚が、少し気になった。
由紀はお茶を一口飲んで、腰を伸ばす。
大丈夫。予定日はまだ先だ。
そう思いながら、もう一口飲んだ。
午前十時。
陣痛が始まった。
最初は「気のせいかもしれない」という強さだった。でも二十分後には、気のせいではなくなっていた。由紀は落ち着いて産院に電話し、それからタクシー会社に電話した。
呼び出し音が鳴った。繋がった。
「ただいま台数が不足しておりまして、一時間ほどお待ちいただく場合が——」
由紀は電話を切った。
次の波が来た。思ったより強い。壁に手をついて、やり過ごした。
一時間は待てない。
荷物を持って玄関を出て、隣の惣菜屋の引き戸を叩いた。
開く前に、中から幸江が飛び出してきた。
「由紀ちゃん! 顔が違う!」
「どうしよう。産院に電話して——タクシーが一時間待ちで」
「一時間!? あたしが乗せてく!」
「幸江さん、お店が——」
「知るか!」
エプロンのまま軽トラの鍵を持って走り出した。由紀は少し安心した。
しかし安心するやいなや、次の波が来る。
由紀を乗せた幸江の軽トラが、商店街を抜けていった。
産院に着いた。
処置室に移される前、由紀は幸江に言った。
「海斗さん、今たぶん飛行機なので、着いたらこっちの病院に電話してくると思います」
「あたしが成田まで迎えに行く!」
「幸江さん」
「軽トラあるし!」
「成田まで軽トラで行かないでください。タクシーかなんかで来ますから」
幸江が口を閉じた。一秒あって、「……分かった」と言った。
幸江がでかい声で言って、廊下に出ていった。
由紀は分娩室に入った。
窓の外に、青い空が見える。
九月の終わりの空は、高くて、澄んでいる。
この空の下のどこかに、海斗がいる。
昨日の電話で、そろそろかもしれないと話した。海斗は「明日には着く」と言っていた。
由紀はそれだけ考えて、目を閉じた。
同じ時刻、成田行きの機内。
柊海斗、二十八歳。
通路側の席で、技術書を読んでいた。
インドの案件は予定通り終わった。問題なく、そして問題以外のことも特にない。淡々と仕事をして、淡々と帰るだけだ。いつもそうだった。
昨日の電話が、頭の隅にある。
由紀が「そろそろかもしれない」と言った。予定日は来週だが、と返したら、「そういうものじゃないかもしれない」と由紀が言った。由紀がそう言うなら、そうなのだろう、と海斗は思った。
技術書を閉じた。
読める気がしなくなった。
成田に着いたのは午後の初めだった。
入国審査を抜けて、まず公衆電話へ向かった。家に電話した。呼び出し音が鳴り続けた。出ない。
海斗は受話器を持ったまま、少し考えた。
次に、産院に電話した。
「柊由紀の夫ですが」
「あ、柊様。奥様は本日午前中に運ばれて——」
海斗は受話器を置いた。
タクシー乗り場へ走った。いつもならケチる高速の区間も、今日は使った。そういうことを考えなかった。
産院の待合室。
幸江は背筋を伸ばして椅子に座っていた。エプロンのままだということに、ここに来てから気づいた。外すタイミングを失った。
廊下を看護師が歩く。幸江は目で追う。違う、こっちじゃない。また別の人が通る。
壁の時計を見る。まだ一時間も経っていない。
「……長えな」
誰にともなく呟いて、また背筋を伸ばした。
由紀と知り合ってから、三年が経つ。
最初は「変な旦那を持つ、礼儀正しい若い奥さん」というだけだった。でもすぐに分かった。この人は、ただ礼儀正しいわけじゃない。芯があって、静かで、自分の場所をちゃんと持っている人だ。舞台をやっていたと聞いて、ああ、と思った。そういう人だ。
今は旦那が海外に行くことが多くなって、一人でいることも増えた。でも弱音を言わない。困っているときも、顔に出ない。だから幸江は、余計に気になる。
廊下の奥で、声がした。
赤ちゃんの声ではない。でも何かが動いた気配がある。
幸江は立ち上がった。
まだ早い、と思いながら、廊下を見た。
海斗が産院に着いたのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。
産院の自動ドアを抜けたところで、幸江と目が合った。
「間に合った!」
幸江がでかい声で言った。廊下に響いた。
「……まだですか」
「さっき呼ばれて、もう少しかかりそうだって先生に言われてた。でも由紀ちゃんが『待てます』って言って——」
「待てるんですか、そういうことを」
「待ったんだよ。由紀ちゃんだから」
看護師が廊下に出てきた。海斗の顔を見て、「お父さんですか」と聞いた。
「はい」
「では、こちらへ」
海斗は廊下を歩いた。幸江が「行ってきな」と小声で言った。
分娩室に入った。
由紀がいた。
顔が、少し青白い。でも目が、海斗を見てちゃんと動いた。
「……来た」
「来ました」
海斗は由紀の隣に立った。手を握る。由紀の手は、思っていたより温かかった。
「遅かった」
「飛んでいる時間は」
「分かってる」
由紀が少し笑った。笑いながら、少し眉が寄った。次の波が来ている。
「いるから」と海斗は言った。
「うん」
それだけだった。
それだけで、充分だった。
それから少しして。
声が聞こえた。
小さくて、高くて、でもはっきりとした声。
産院の、午後の光の中。
柊凛が、生まれた。
廊下の椅子で待っていた幸江のところへ、看護師が顔を出したのは、それからしばらくしてからだった。
「生まれましたよ。女の子です」
幸江は、しばらく黙っていた。
それからでかい声で言った。
「そうか!」
看護師がびっくりして、廊下の向こうに引っ込んだ。幸江は気づかずに、膝の上に置いた手を、ゆっくり握った。
女の子か。
由紀ちゃんの子だ。
どんな顔をしているだろう。
目が覚めたら、泣いているだろうか。泣かない子だったりするだろうか。
幸江は天井を見た。
エプロンのまま来てしまった、と今更また思った。
赤ちゃんを初めて抱いたのは、由紀だった。
当たり前のことで、当たり前の順序で、でも由紀にとっては、それがこれほど重いものだとは思っていなかった。
小さい。
こんなに小さいものが、自分の中にいたのか。
重さが、手のひらに伝わってくる。温度が伝わってくる。
赤ちゃんは、目を閉じている。
まだ世界を見ていない。
でもその顔は、眠っているのではなく、どこか考えているような顔をしている。静かで、険しくて、集中しているような。
由紀は、その顔を見て、ふっと思った。
この子は、私より先に大人になるかもしれない。
根拠はない。ただそう思った。
どこか、自分とは違う種類の強さを持って生まれてきた気がした。
「見ますか」
由紀は海斗の方を見た。
海斗が頷いて、腕を差し出した。
海斗が赤ちゃんを抱いた瞬間、体がわずかに固まった。
壊れそうで、怖い、という感覚ではない。
それよりもっと、単純で、説明のつかない何かだった。
この重さを、知らなかった。
工具の重さも、基板の重さも、荷物の重さも、全部知っている。でもこの重さは、どれとも違う。
赤ちゃんが、少し動いた。
目が、うっすら開いた。
焦点が合っていない目。でも、何かを見ようとしている目。
海斗はその目を、しばらく見ていた。
何かを確かめるように、じっと見た。
それから、静かに言った。
「……強い目だ」
由紀が、海斗の横顔を見た。
海斗は赤ちゃんから目を離さない。
「強い目をしている」
もう一度、同じことを言った。
由紀はその言葉を聞いて、うまく説明できない気持ちになった。泣くわけではない。でも、胸の中に何かが静かに満ちてくる感じがした。
この人は、ちゃんと見ている。
生まれたばかりのこの子の目の中に、何かを見つけて、それを言葉にした。
海斗にしか言えない言葉で。
廊下に出た海斗に、幸江が飛びついてきた。飛びついてきた、というのは比喩で、実際は駆け寄ってきた。
「どうだった! 元気か!」
「元気です」
「由紀ちゃんも!?」
「よく頑張りました」
「そりゃそうだよ!」
幸江がまたでかい声を出した。今度は廊下を歩いていた入院患者の老婦人が振り返った。
「女の子です」と海斗が言った。
「聞いた! よかった! 名前は!?」
「まだ決めていません」
「今から決めるんか」
「何案かあるので、由紀と話します」
幸江は海斗を見た。この人は、こういう場面でも淡々としている。でも、目が、いつもと少し違う。何かを抱えた後の目だ。
「……どんな顔してた」
「赤ちゃんの顔ですか」
「そう」
海斗は少し考えた。
「強い目をしていました」
「強い目」
「はい」
幸江は笑った。
何がおかしいわけでもないのに、笑えた。
「そうか。強い目か」
「はい」
「じゃあ、大丈夫だ」
なんとなく言った言葉だったが、海斗は頷いた。
「そう思います」
翌朝。
幸江はコロッケを四つ揚げて、産院に持っていった。
産院にコロッケを持ち込むのが適切かどうかは、幸江は考えなかった。由紀ちゃんが頑張ったのだから、コロッケを食べてほしかった。それだけだった。
由紀はベッドの上で、赤ちゃんを抱いていた。
窓から朝の光が入って、二人を照らしていた。
「幸江さん」
「コロッケ持ってきた」
「……産院にコロッケ持ってきていいんですか」
「知らない。でも来た」
由紀は笑った。
「ありがとうございます」
「名前、決まった?」
「決まりました。凛、です」
「凛」
幸江は繰り返した。口の中で確かめるように。
「柊凛」
「はい」
「いい名前だ」
由紀が、少し目を細めた。
幸江は赤ちゃんを覗き込んだ。
小さい。こんなに小さい。でも、目の辺りが、どこかしっかりしている。
「強い目だな」
「……海斗さんも同じことを言いました」
「そうか。あの人も分かるじゃないか」
幸江はコロッケを置いて、立ち上がった。
「食え。早く元気になれ」
「はい」
「困ったことがあったら言え」
「はい」
「言わなくても気づくけど」
由紀がまた笑った。
幸江はエプロンのまま、産院を出た。
外に出ると、商店街がもう動いていた。
九月の終わりの朝。空は高く、風は乾いて、気持ちがいい。
隣の家に、もうすぐ赤ちゃんが帰ってくる。
賑やかになる。
幸江はそれを、少し楽しみに思いながら、惣菜屋の暖簾をくぐった。
それから数日後。
柊家に、小さな灯りが一つ増えた。
夜中にふと明かりがつく。由紀が授乳している。海斗がそれを見ながら、机の前で基板を眺めている。眠れない夜に、二人でお茶を飲んでいる。
台所の窓から、幸江の惣菜屋の灯りが見える。
まだ動いている。
幸江も眠れない夜があるのか、と由紀は思う。それとも早起きなのか。
どちらでもいい。
窓の向こうに灯りがある、それだけで、少し心強い。
凛が泣いた。
由紀が抱き上げる。
泣き声は小さくて、でもはっきりしていた。
自分がいることを、ちゃんと伝えようとしている声だった。
海斗は、赤ちゃんを見るとき、いつも少し間があった。
覗き込んで、目を合わせて、それから何かを考えている。考えた結果を口にすることはあまりない。でも由紀には、海斗が何かを感じているのが分かる。
ある夜、由紀が凛を寝かしつけて戻ってきたとき、海斗が言った。
「凛は、何かを決める人間になる気がする」
「何かを決める」
「うん。自分だけじゃなく、周りのことも含めて、引き受けながら決める人間だと思う」
由紀は少し考えた。
「それは、大変だね」
「そうかもしれない」
「でも、あなたが言うなら」
「うん」
「そうなのかもしれない」
二人は少し黙って、隣の部屋を見た。
凛が、眠っている。
静かに、深く、この世界に根を張るように。
部屋に、九月の夜風が入ってくる。
梅の木が、暗闇の中でわずかに揺れた。
柊凛。
生まれた日の、午後の光の中で、その目は強かった。
何も見えていないのに、見ようとしていた。
どこにも焦点が合っていないのに、何かを捉えようとしていた。
二十四年後、その目は、国民的女優と呼ばれる女の目になる。
カメラの前でも、舞台の上でも、日常の中でも、ぶれない目。
計算から入る、設計された感情の目。
でも本当はそれだけじゃない。
あの日、産院の午後に、海斗が見たものがある。
強い、という言葉では足りないかもしれない何か。
自分で引き受けることを、生まれた日から決めていたような、そういう目。
それが、柊凛の始まりだった。




