柊凛 番外編「礼儀、というもの」後編
次の日も、上田は鈴木に何も言わなかった。
その次の日も。
凛はそれを見ていた。特に何も言わない。言う必要があるタイミングを、測っていた。
三上は手帳の「鈴木さんへの一言、今日中にあるか」というメモを、二日続けて線で消した。消してから、また書く。消してまた書く、という動作が三日続いた。四日目に、そのページを破った。
五話の収録が始まったのは、木曜の朝だった。
藤堂雅子が撮影所に入ってきたとき、廊下の空気がまた変わった。凛が入るときとは少し違う変わり方をする。凛のときは静まる。藤堂のときは、背筋が伸びる。
上田は控え室でヘアメイクの最中だった。三上から「藤堂さんが入られました」と伝えると、上田の顔がわずかに強張った。先日の廊下のことがまだ頭に残っているらしい。それは悪いことではないと三上は思った。
藤堂が控え室に挨拶に回ってきた。
上田が席を立って、頭を下げた。
「上田日向です。よろしくお願いします」
前回とは声のトーンが違う。少し、硬い。
「よろしく」と藤堂が言った。上田をひと目見て、何も言わずに出ていく。
上田がヘアメイクの椅子に戻った。鏡の中の自分を少しの間、見ている。
午前中のリハーサル。
藤堂の演技を初めて間近で見た上田は、二度、台詞のタイミングを外した。圧倒されたわけではない。ただ、見てしまった。藤堂が動くとき、空気が変わる。セットの中に重心ができる。気づいたら目が行っていた。
監督が「もう一度」と言った。
上田が「すみません」と言った。
今回は、少し違う声だった。原因が分かっている「すみません」。
凛はそれに気づいたが、何も言わなかった。
昼休憩。
上田が藤堂の控え室の前で立ち止まっている。
三上がそれを廊下の端から見ていた。上田がドアをノックしようとして、手を下ろす。また上げる。また下ろす。
凛が通りかかった。
上田が気づいて、少し慌てた。
「……いや、なんでもないです。行きます」
「どうぞ」と凛が言った。
「え」
「行きたいなら行けばいい」
上田が凛を見た。凛はもうそちらを向いていなかった。台本を開いて廊下を歩いていく。
上田はしばらくドアを見ていた。
それからノックした。
「失礼します。上田です」
「どうぞ」と中から声がした。
上田がドアを開ける。
三上は手帳を取り出した。何かを書こうとして、やめた。
中で何を話したかは分からない。十分ほどして、上田が出てきた。表情が、入る前より少し柔らかい。
廊下を歩きながら、鈴木とすれ違った。
上田が立ち止まった。
「あの」
鈴木が振り返る。
「先日、何度もやり直しさせてしまって、すみませんでした」
鈴木が少し目を見開いた。それから、短く頷く。
「いえ、こちらこそ」
「……こちらこそじゃないです、私が」
「分かりました。ありがとうございます」
鈴木がまた歩き始めた。
上田はその背中を少しの間、見ていた。
三上はそれを廊下の角から見ていた。手帳を出す。「鈴木さんへの一言——」と書きかけて、手が止まった。書く必要がなくなっていた。
夕方の撮影が終わったあと、控え室に藤堂が来た。
凛一人のときを狙ったように、三上が外に出た後で来た。偶然ではないだろうと凛は思った。
「今日の上田さん、よかったわね」と藤堂が言った。
「そうですね」
「あなたのおかげ」
「どうでしょう」
「謙遜しなくていいのよ、そういうときは」
凛は少し考えた。
「……上田さん自身が動いたと思っています。私は最初に少し話しただけで」
「その話し方が良かったのよ」と藤堂が言った。「怒鳴ってもなく、嫌みでもなく、ただ事実だけ言う。ああいう伝え方をできる人間が、今の現場にどれだけいるか」
凛は答えなかった。
「あなたはああいう子が嫌いじゃないでしょ」と藤堂が続けた。
「……嫌いではないです」
「気づいていないだけで、根っこは悪くない。ああいう子は、一回ちゃんと分かれば変わる。あなたはそれを知っていて動いた」
「直感ですけど」と凛が言った。
「直感でいい」と藤堂が言った。「続けなさい」
そう言って、立ち上がった。出ていく前に一度振り返った。
「来週も被るから、よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ドアが閉まった。
凛は少しの間、閉まったドアを見ていた。
問題が起きたのは、その翌週だった。
六話のリハーサルが終わった後、プロデューサーの田村が廊下で藤堂と話している。三上が偶然そのそばを通った。聞こうとしたわけではない。ただ聞こえた。
「上田さん、どうですか」と田村が言った。
「……」
藤堂が少し間を置いた。
「礼節の問題があります」
田村が頷いた。「具体的には」
「スタッフへの接し方、段取りへの意識、自分の言動がどう受け取られているかの自覚——それぞれ改善の余地があります。今週は少し変わってきていますが、安定しているかどうかはまだ見えない」
「次の作品での起用については」
また間があった。
「慎重に考えた方がいいかもしれません。制作サイドの判断ですが、私の印象としては」
三上は歩き続けた。足が少し速くなった。
凛のところに飛び込んできたとき、三上の顔が少し白かった。
「柊さん」
「どうしたんですか」
「藤堂さんが、田村さんに、上田さんの次回起用について慎重にと——」
凛が静かになった。
三上は続けた。「盗み聞きではなくて、廊下で聞こえて」
「分かりました」
「どうしますか」
凛はしばらく黙っていた。
手に持った台本を、ゆっくりと閉じた。
「藤堂さんはどこにいますか」
「確か、まだ廊下に」
凛が立ち上がった。
藤堂は一人でいた。廊下の端の窓のそばで、外を見ていた。
凛が近づいて、立ち止まった。
「藤堂さん」
「何?」と藤堂が振り返った。
「田村さんとの話、聞こえてしまいました」
藤堂が少し目を細めた。「聞こえていたの」
「三上が」
「なるほど」
短い沈黙。
「お願いがあります」
「言ってみなさい」
「上田さんへの評価を、今少し待っていただけますか」
藤堂がまっすぐ凛を見た。
「理由は」
「今週、変わってきています。鈴木さんに謝りに行きました。昨日の現場でも、自分から段取りを確認していた。時間はかかっていますが、動いています」
「動き始めたのは今週だけ」と藤堂が言った。「先週まではそうじゃなかった」
「そうです」
「安定するかどうかまだ分からない、と私は言いました」
「はい」
「それで、あなたはどう見ていますか」
凛は少し間を置いた。
「変わります。あの子は」
「根拠は」
「……直感です」
藤堂の目が、少し動いた。
「田村さんへの私の言葉は、印象として伝えたものです。決定ではない」と藤堂が言った。「ただ——印象を変えるのは、あなたの仕事ではなく、上田さんの仕事です」
「分かっています」
「それでも来たの?」
「……来ました」
また静かになった。窓の外に、暗くなりかけた空が見えた。
藤堂がゆっくりと言った。「田村さんに今日の段階での印象を補足します。今週の変化について。それ以上は私にはできません」
「ありがとうございます」
「ただ」と藤堂が続けた。「あなたが動いたことを、上田さんに言ってはいけません。あの子が自分で変わったと思って初めて意味がある。あなたが助けたと知ったら、それは本物にならない」
凛は頷いた。
「言いません」
「よし」と藤堂が言った。「帰りなさい。お疲れ様」
廊下を戻りながら、三上がそっと言った。
「……土下座するかと思いました」
「しません」
「でも、頭を下げに行ったんですよね」
「お願いをしに行っただけです」
「……同じじゃないですか」
凛は少し止まって、三上を見た。
「そうかもしれません」
また歩き始めた。
三上は手帳を出した。何か書こうとして、今日は何も書けなかった。
手帳を胸ポケットに戻して、凛の三歩後ろをついて歩いた。
その夜、上田が鈴木に声をかけているのを、三上が偶然見た。
深夜の片付けの時間。上田はもう帰るところで、鈴木は明日の機材の確認をしている。
「お疲れ様でした」と上田が言った。
「お疲れ様です」と鈴木が答えた。
短い会話。短い、ただの挨拶。
でも上田が先に声をかけていた。自分から。
三上は手帳を出した。
何も書かなかった。
書かなくていい気がした。
撮影最終日、クランクアップの日だった。
上田が最後のシーンを撮り終えて、スタッフルームで頭を下げている。一人ひとり。鈴木にも、大道具にも、録音にも。長い時間をかけて、全員に。
藤堂がそれを遠くから見ていた。
凛が隣に来た。
「見てるんですね」
「見てる」と藤堂が答えた。
しばらく二人で見ていた。
「変わったわね」と藤堂が言った。
「そうですね」
「あなたが動いたから」
「あの子が動いたから、です」
藤堂が少し笑った。「どっちでも同じよ」
「違います」
「似ているわ、少なくとも」
凛は答えなかった。
上田が頭を上げて、また次のスタッフのところへ歩いていく。ぎこちない。まだ慣れていない。でも、止まらない。
「来週の七話、頑張りなさいと言っておいて」
「言いません」
「なぜ」
「あの子は自分でやっています。私が何かを言う理由がない」
藤堂がまた少し笑った。
「正しいわね」
凛は答えなかった。
上田がまた一人に頭を下げた。スタッフが少し照れながら頷く。
三上は少し離れたところでそれを見ていた。手帳は今日も開かなかった。
ポケットの中に、先週のページを破った痕がある。何もない、きれいなページが、今日の分として残っている。
何も書かなかった。
それで十分だと思った。




