表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

142/178

柊凛 番外編「礼儀、というもの」前編

 撮影所の廊下には、いくつかの音がある。


 台車が床を走る音。無線のノイズ。ドアの開閉。誰かが台本をめくる乾いた音。それらが重なって、現場特有の空気を作る。


 ひいらぎりんはその読み方を、六年かけて体に入れた。廊下に一歩踏み込めば、今日の現場が丸ごと分かる気がする。段取りが詰まっているか、誰かが機嫌を損ねているか、昨日から引きずっている何かがあるか。


 今日の廊下は、少し張っていた。


 三歩後ろから三上みかみさきがついてくる。スケジュール帳が新品だ。前の一冊が先週で終わったらしい。


「今日の段取りですが」


「歩きながら」


「はい。午前中は二話の撮り直しと、三話の初回テスト。三話のゲストが今日初入りで」


「上田日向さん」


「ご存知でしたか」


「名前だけ」


 台本のページをめくりながら歩いた。廊下の奥、セットの準備をしている大道具のスタッフたちが見える。動きが少しせかせかしている。段取りが押しているか、あるいは——


 声が聞こえた。


「ちょっと待って。あーここ違います、もっと右。てかそもそもこの椅子の位置、最初から違くないですか?」


 若い女性の声。通りがよく、廊下の端まで届く。


 大道具スタッフの一人が、短く「確認します」と言った。


 凛は歩調を少し落とした。廊下の先に、背の高い女性の後ろ姿。白のパーカー。手にスマホ。大道具スタッフに向かって何か言いながら、マネージャーにも同時に話しかけている。


 上田日向うえだひなた。二十一歳。グラビア出身で、SNSのフォロワーが百二十万。


 スタッフが椅子の位置を直した。一言も言わずに。


 上田はもうスマホの画面に目を落としている。


 三上がかすかに何かを書く音。手帳のページをめくる音が続いた。


   


 控え室に向かう途中、待機スペースの前を通った。


 藤堂ふじどう雅子まさこが折りたたみ椅子に座って、台本を読んでいる。


 五十二歳。業界歴三十年。今回のドラマで五話にゲスト出演する。滅多に人を見ない目が、今は台本ではなく廊下の方を向いていた。正確には、さっきまで上田がいた場所の方を。


 一瞬のことだった。でも分かった。


 藤堂が台本に視線を戻す。ページを繰る手が、静かだった。静かすぎた。


 凛は足を止めなかった。


 控え室まで歩いて、ドアを閉める。


「三上さん」


「はい」


「藤堂さんと上田さんが被る日、いつですか」


「五話です。来週の木曜から」


 今日が月曜。あと十日。


「分かりました」


 三上が何か書いた。何を書いたのかは聞かなかった。


   


 リハーサルが始まった。


 上田は遅刻しない。台詞も入っている。監督の指示にもちゃんと従う。声もいい。表情の作り方も悪くない。伸びる子だと思う。


 問題は、間にある時間の使い方だった。


 出番でないとき、スマホを見ている。スタッフが準備している間、マネージャーに話しかけている。悪意はない。これっぽっちもない。ただ気づいていないだけだ。自分が何をしているかに。


 照明の鈴木すずきが、カメラ位置の調整をやり直した。上田が確認しないまま戻ってきたからで、鈴木は何も言わなかった。黙って動く。大道具が手伝った。二人で、静かに。


 上田はその間もマネージャーと話している。


 凛は台本を読みながら、全部見ていた。


 二度目のリハーサルで上田の段取りが本番と違う。監督が止める。上田が「すみません」と言う。反射的な謝罪で、原因を探していない声だった。


 鈴木がまた位置を直した。三度目。


 三上が手帳に何か書いた。


   


 昼休憩に入った。


 凛は坂本さかもとのところへ行って衣装の確認をして、戻ってきた。上田はスタッフルームの隅でお弁当を食べながらスマホを見ている。鈴木は別の場所で食べていた。


 遠い席。


 凛が三上に言った。「休憩の後半、上田さんの時間を少しもらえますか」


「作ります」


「十分で大丈夫です」


 三上がすぐ動いた。上田のマネージャーに話して、休憩の後半に時間を確保する。上田は「え、何かあったんですか」と聞いたらしい。三上は「ご挨拶かと思います」と答えた。


 正確ではないが、嘘でもない。


   


 廊下の端、窓のそばで二人が向かい合った。


 三上は少し離れた場所にいた。会話は聞こえない。でも見える。


 凛が話し始める。上田が最初は普通に聞いていた。少しして、表情が変わった。眉が寄る。唇が引き結ばれる。何か言い返した。凛が短く答えた。また上田が何か言う。


 最後に、凛が一言だけ言って、立ち上がった。


 上田が戻ってきた。三上の横を通り過ぎるとき、目が少し下を向いている。


 凛が戻ってきた。表情は変わっていない。


「どうでしたか」


「どうでしょう」


「……伝わりましたか」


「今は分かりません」


 台本を開いて、次のシーンの確認に入った。


 三上は手帳を開く。「上田日向(要観察継続)」と書いた。少し考えて、下に「鈴木さんへの一言、今日中にあるか」と書き足した。


   


 午後の撮影が始まった。


 上田は鈴木に何も言わなかった。


 三上はそれを見た。手帳に書きかけて、やめた。


   


 藤堂雅子が控え室から出てきたのは、夕方の撮影が始まって二時間ほど経った頃だった。今日は出番がない。挨拶のために顔を出しに来ている。


 凛が先に気づいて、挨拶に行った。


「今回よろしくお願いします」


「こちらこそ」と藤堂が言った。「評判通りの挨拶ね」


「恐れ入ります」


「少し時間ある?」


「少しなら」


 藤堂の控え室に入った。お茶が出た。


 座ってすぐ、藤堂が言った。「今日、新人の子に何か言いに行ったでしょ」


 凛は少し止まった。


「少し話をしました」


「廊下から見てた」


「……ご存知でしたか、上田さんのことを」


「前の現場で一緒だったから」


 一言で分かった。前の現場で何かあったのだ。藤堂が今日、あの目をしていた理由が。


「あなたが先に動いたのね」と藤堂が続けた。「なぜ?」


「あなたが言えば現場の空気が変わります。私が言えば、先輩に叱られた新人で終わる」


「ほかには?」


「ほかにはないです」


 藤堂がお茶を一口飲んだ。


「伝わった?」


「まだ分かりません」


「正直ね」と藤堂が言った。少しだけ口元が緩んだ。「あの子、悪い子じゃないのよ。ただ——」


「気づいていないだけですね」


「そう。だからたちが悪い」


 凛はお茶を飲んだ。


「様子を見ます」と言った。


「一人で引き受けなくていいのよ」と藤堂が言った。「困ったらうちに言いなさい」


「ありがとうございます」


 短い沈黙があった。


「凛ちゃんって、昔からそういう動き方をするの」


「どういう動き方ですか」


「引き受ける側に行く」


 凛は少し考えた。


「……そうかもしれません。気づいたらそうなっている、という感じで」


「損な性分ね」


「よく言われます」


「でも嫌いじゃない」と藤堂が言った。「続けなさい」


 凛は「ありがとうございます」と言って、残りのお茶を飲んだ。


   


 撮影が終わったのは夜の七時過ぎだった。


 スタッフが片付けを始める。凛が鈴木に「今日ありがとうございました」と声をかけた。鈴木が「お疲れ様です」と答えた。短い言葉だけれど、鈴木の顔がほんの少し和らいだ。


 三上はそれを見た。手帳は開かなかった。


 廊下に出ると、前の方から上田の声が聞こえた。マネージャーと並んで歩いていた。スマホを見ながら話している。


「今日の現場さ、なんかぬるくない? もうちょっと緊張感ほしいんだよね。段取りもなんか遅いし、全体的になんか」


「うん」とマネージャーが相槌を打った。


「凛さんにも色々言われちゃってさ、礼儀がどうとか段取りがとか。意外とああいうタイプなんだ、って感じで。説教くさいというか——」


 廊下の角に、人が立っていた。


 上田がスマホから顔を上げた。


 藤堂雅子が、控え室から出てきたところだった。コートを着て、荷物を持って、帰る格好のままそこにいる。


 三上の手帳が、胸ポケットの中で存在を主張した。開く気にはなれなかった。


 廊下が静かになった。


 どこからどこまで聞こえていたか、上田には分からない。ただ、藤堂の目が自分を見ていた。怒っているわけではない。冷たいわけでも、呆れているわけでも、おそらくない。ただ、静かに、見ていた。


「上田さん」と藤堂が言った。


「……はい」


「今日からでしたね、ここの現場」


「はい、今日からです」


「そう」


 藤堂がそう言って、歩き始めた。上田の横を通り過ぎるとき、一度だけ視線が動く。


 そのまま廊下の奥へ、消えていった。


 上田は動けなかった。マネージャーが小声で言った。「……今、どこまで聞こえてたと思う」


 答えられなかった。


 しばらくして、廊下に人が増えた。撮影終わりのスタッフたちの流れの中に、上田は立ったまま動かなかった。


 凛は少し離れた場所にいた。


 見ていた。でも近づかない。今は近づかない方がいい。


「帰りますか」と三上がそっと言った。


「ええ」


 歩き始めた。廊下の端、大道具の片付けをしている鈴木の横を通り過ぎるとき、「お疲れ様でした」ともう一度声をかけた。


 鈴木が振り返って、丁寧に頭を下げた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ