柊凛 番外編「礼儀、というもの」前編
撮影所の廊下には、いくつかの音がある。
台車が床を走る音。無線のノイズ。ドアの開閉。誰かが台本をめくる乾いた音。それらが重なって、現場特有の空気を作る。
柊凛はその読み方を、六年かけて体に入れた。廊下に一歩踏み込めば、今日の現場が丸ごと分かる気がする。段取りが詰まっているか、誰かが機嫌を損ねているか、昨日から引きずっている何かがあるか。
今日の廊下は、少し張っていた。
三歩後ろから三上咲がついてくる。スケジュール帳が新品だ。前の一冊が先週で終わったらしい。
「今日の段取りですが」
「歩きながら」
「はい。午前中は二話の撮り直しと、三話の初回テスト。三話のゲストが今日初入りで」
「上田日向さん」
「ご存知でしたか」
「名前だけ」
台本のページをめくりながら歩いた。廊下の奥、セットの準備をしている大道具のスタッフたちが見える。動きが少しせかせかしている。段取りが押しているか、あるいは——
声が聞こえた。
「ちょっと待って。あーここ違います、もっと右。てかそもそもこの椅子の位置、最初から違くないですか?」
若い女性の声。通りがよく、廊下の端まで届く。
大道具スタッフの一人が、短く「確認します」と言った。
凛は歩調を少し落とした。廊下の先に、背の高い女性の後ろ姿。白のパーカー。手にスマホ。大道具スタッフに向かって何か言いながら、マネージャーにも同時に話しかけている。
上田日向。二十一歳。グラビア出身で、SNSのフォロワーが百二十万。
スタッフが椅子の位置を直した。一言も言わずに。
上田はもうスマホの画面に目を落としている。
三上がかすかに何かを書く音。手帳のページをめくる音が続いた。
控え室に向かう途中、待機スペースの前を通った。
藤堂雅子が折りたたみ椅子に座って、台本を読んでいる。
五十二歳。業界歴三十年。今回のドラマで五話にゲスト出演する。滅多に人を見ない目が、今は台本ではなく廊下の方を向いていた。正確には、さっきまで上田がいた場所の方を。
一瞬のことだった。でも分かった。
藤堂が台本に視線を戻す。ページを繰る手が、静かだった。静かすぎた。
凛は足を止めなかった。
控え室まで歩いて、ドアを閉める。
「三上さん」
「はい」
「藤堂さんと上田さんが被る日、いつですか」
「五話です。来週の木曜から」
今日が月曜。あと十日。
「分かりました」
三上が何か書いた。何を書いたのかは聞かなかった。
リハーサルが始まった。
上田は遅刻しない。台詞も入っている。監督の指示にもちゃんと従う。声もいい。表情の作り方も悪くない。伸びる子だと思う。
問題は、間にある時間の使い方だった。
出番でないとき、スマホを見ている。スタッフが準備している間、マネージャーに話しかけている。悪意はない。これっぽっちもない。ただ気づいていないだけだ。自分が何をしているかに。
照明の鈴木が、カメラ位置の調整をやり直した。上田が確認しないまま戻ってきたからで、鈴木は何も言わなかった。黙って動く。大道具が手伝った。二人で、静かに。
上田はその間もマネージャーと話している。
凛は台本を読みながら、全部見ていた。
二度目のリハーサルで上田の段取りが本番と違う。監督が止める。上田が「すみません」と言う。反射的な謝罪で、原因を探していない声だった。
鈴木がまた位置を直した。三度目。
三上が手帳に何か書いた。
昼休憩に入った。
凛は坂本のところへ行って衣装の確認をして、戻ってきた。上田はスタッフルームの隅でお弁当を食べながらスマホを見ている。鈴木は別の場所で食べていた。
遠い席。
凛が三上に言った。「休憩の後半、上田さんの時間を少しもらえますか」
「作ります」
「十分で大丈夫です」
三上がすぐ動いた。上田のマネージャーに話して、休憩の後半に時間を確保する。上田は「え、何かあったんですか」と聞いたらしい。三上は「ご挨拶かと思います」と答えた。
正確ではないが、嘘でもない。
廊下の端、窓のそばで二人が向かい合った。
三上は少し離れた場所にいた。会話は聞こえない。でも見える。
凛が話し始める。上田が最初は普通に聞いていた。少しして、表情が変わった。眉が寄る。唇が引き結ばれる。何か言い返した。凛が短く答えた。また上田が何か言う。
最後に、凛が一言だけ言って、立ち上がった。
上田が戻ってきた。三上の横を通り過ぎるとき、目が少し下を向いている。
凛が戻ってきた。表情は変わっていない。
「どうでしたか」
「どうでしょう」
「……伝わりましたか」
「今は分かりません」
台本を開いて、次のシーンの確認に入った。
三上は手帳を開く。「上田日向(要観察継続)」と書いた。少し考えて、下に「鈴木さんへの一言、今日中にあるか」と書き足した。
午後の撮影が始まった。
上田は鈴木に何も言わなかった。
三上はそれを見た。手帳に書きかけて、やめた。
藤堂雅子が控え室から出てきたのは、夕方の撮影が始まって二時間ほど経った頃だった。今日は出番がない。挨拶のために顔を出しに来ている。
凛が先に気づいて、挨拶に行った。
「今回よろしくお願いします」
「こちらこそ」と藤堂が言った。「評判通りの挨拶ね」
「恐れ入ります」
「少し時間ある?」
「少しなら」
藤堂の控え室に入った。お茶が出た。
座ってすぐ、藤堂が言った。「今日、新人の子に何か言いに行ったでしょ」
凛は少し止まった。
「少し話をしました」
「廊下から見てた」
「……ご存知でしたか、上田さんのことを」
「前の現場で一緒だったから」
一言で分かった。前の現場で何かあったのだ。藤堂が今日、あの目をしていた理由が。
「あなたが先に動いたのね」と藤堂が続けた。「なぜ?」
「あなたが言えば現場の空気が変わります。私が言えば、先輩に叱られた新人で終わる」
「ほかには?」
「ほかにはないです」
藤堂がお茶を一口飲んだ。
「伝わった?」
「まだ分かりません」
「正直ね」と藤堂が言った。少しだけ口元が緩んだ。「あの子、悪い子じゃないのよ。ただ——」
「気づいていないだけですね」
「そう。だからたちが悪い」
凛はお茶を飲んだ。
「様子を見ます」と言った。
「一人で引き受けなくていいのよ」と藤堂が言った。「困ったらうちに言いなさい」
「ありがとうございます」
短い沈黙があった。
「凛ちゃんって、昔からそういう動き方をするの」
「どういう動き方ですか」
「引き受ける側に行く」
凛は少し考えた。
「……そうかもしれません。気づいたらそうなっている、という感じで」
「損な性分ね」
「よく言われます」
「でも嫌いじゃない」と藤堂が言った。「続けなさい」
凛は「ありがとうございます」と言って、残りのお茶を飲んだ。
撮影が終わったのは夜の七時過ぎだった。
スタッフが片付けを始める。凛が鈴木に「今日ありがとうございました」と声をかけた。鈴木が「お疲れ様です」と答えた。短い言葉だけれど、鈴木の顔がほんの少し和らいだ。
三上はそれを見た。手帳は開かなかった。
廊下に出ると、前の方から上田の声が聞こえた。マネージャーと並んで歩いていた。スマホを見ながら話している。
「今日の現場さ、なんかぬるくない? もうちょっと緊張感ほしいんだよね。段取りもなんか遅いし、全体的になんか」
「うん」とマネージャーが相槌を打った。
「凛さんにも色々言われちゃってさ、礼儀がどうとか段取りがとか。意外とああいうタイプなんだ、って感じで。説教くさいというか——」
廊下の角に、人が立っていた。
上田がスマホから顔を上げた。
藤堂雅子が、控え室から出てきたところだった。コートを着て、荷物を持って、帰る格好のままそこにいる。
三上の手帳が、胸ポケットの中で存在を主張した。開く気にはなれなかった。
廊下が静かになった。
どこからどこまで聞こえていたか、上田には分からない。ただ、藤堂の目が自分を見ていた。怒っているわけではない。冷たいわけでも、呆れているわけでも、おそらくない。ただ、静かに、見ていた。
「上田さん」と藤堂が言った。
「……はい」
「今日からでしたね、ここの現場」
「はい、今日からです」
「そう」
藤堂がそう言って、歩き始めた。上田の横を通り過ぎるとき、一度だけ視線が動く。
そのまま廊下の奥へ、消えていった。
上田は動けなかった。マネージャーが小声で言った。「……今、どこまで聞こえてたと思う」
答えられなかった。
しばらくして、廊下に人が増えた。撮影終わりのスタッフたちの流れの中に、上田は立ったまま動かなかった。
凛は少し離れた場所にいた。
見ていた。でも近づかない。今は近づかない方がいい。
「帰りますか」と三上がそっと言った。
「ええ」
歩き始めた。廊下の端、大道具の片付けをしている鈴木の横を通り過ぎるとき、「お疲れ様でした」ともう一度声をかけた。
鈴木が振り返って、丁寧に頭を下げた。




