第11.5話 柊家アーカイブ02「行っていいよ」
三月の終わり。
夜の九時を過ぎた頃、柊家のキッチンに灯りがついていた。
母の由紀が、一人で後片付けをしていた。
夕食の残り物を冷蔵庫にしまい、シンクを拭き、エプロンを外す。
いつも通りの、静かな夜だ。
リビングからは遼のテレビの音が聞こえていた。といっても、遼がテレビを見ているわけではない。音を流しながら機械をいじっているのだ。それも、いつも通りだった。
華は自分の部屋に引っ込んでいた。十一歳の華は、最近「もう子供じゃない」と言い張って、夕食後は一人で過ごすことが多くなっていた。由紀には微笑ましかったが、今夜はむしろ好都合だった。
問題は、凛だ。
今日の凛は、夕食の間中ずっと黙っていた。
由紀はそれが気になっていた。
中学を卒業したばかりの凛が黙っているのは、珍しいことではない。もともと口数が多い子ではなかった。でも今日の沈黙は、少し違う種類の沈黙だった。
「凛」
由紀は廊下に出た。
凛の部屋のドアに、灯りが漏れていた。
「ちょっといい?」
少しの間があって、「うん」と答えが返ってきた。
由紀はドアを開けた。
凛は机に座っていた。教科書が広げてあったが、読んでいるふうではなかった。視線が、どこかを向いていた。
「何か、あった?」
「別に」
「そう」
由紀は凛のベッドの端に腰を下ろした。
急かさなかった。
柊由紀という人間は、感情を急かすのが得意ではなかった。というより、そうしなくていいと知っていた。人は、準備ができたときに話す。
しばらく沈黙が続いた。
凛が口を開いたのは、五分ほど経った頃だった。
「ねえ、ママ」
「うん」
「遠藤さんから連絡来たんでしょ」
由紀は、少し固まった。
遠藤朱里。由紀がかつて同じ小劇団で舞台を踏んでいた、旧友だ。由紀より一つ年上で、いつも舞台の端で笑っていた。結婚を機に由紀が劇団を離れた後も、朱里は続けた。三十代でヨーロッパに渡り、現地の演劇人たちと小さな劇団を立ち上げたと、年賀状で知った。
その朱里から、先週メッセージが来た。
一緒にやらないか、と。
「……どこで聞いたの」
「スマホの画面、見えた。ごめん、わざとじゃなかったけど」
「そう」
「断ったの?」
由紀は少し間を置いた。
「まだ返事してない」
「でも、断るつもりでしょ」
凛はまっすぐ由紀を見ていた。
由紀は視線を逸らした。それが答えだった。
「なんで」
「なんでって……あなたたちがいるから」
「それだけ?」
「それだけ」
凛は少し沈黙した。
窓の外で、風が木を揺らす音がした。
「私、知ってたよ」
「何を」
「ママが我慢してるの」
由紀は答えなかった。
「ずっと知ってた。私が小学生のときから」
「凛……」
「ママって、舞台が好きだよね。演劇が好きだよね。前に劇団のDVD、こっそり見てたの知ってるよ。あの頃のまま見てた」
由紀はしばらく黙っていた。
否定する言葉が出てこなかった。
「好きだよ」
素直に言った。
「じゃあ、行けばいいじゃない」
「あなたたちを置いて行けない」
「私がいるから」
凛の声は静かだった。
感情が乗っていないわけではなかった。むしろ、多すぎるほど乗っていた。ただ、抑えることに慣れていた。
「私、来年から高校生だよ。遼は中学生。華だってもう五年生だよ。三人でやれるよ」
「でも……」
「ご飯は作れる。洗濯もできる。買い物も行ける。華の学校の送り迎えも私がやる」
「凛、それは」
「できるって言ってるの」
由紀は言葉に詰まった。
凛を見た。
中学を卒業したばかりの、十五歳の娘。
その顔に、子供の甘さはなかった。
「ママが我慢してる方が、嫌なんだよ」
凛が言った。
「見てるのが嫌。あのDVDを見てるときの顔を見てるのが嫌。楽しそうなのに、こっちに帰ってきたら普通の顔するのが。嫌なんだよ」
由紀の目が、潤んだ。
堪えようとした。
堪えられなかった。
「……ごめん」
「謝らないで」
「でも」
「ごめんって言うくらいなら、行ってよ」
凛は由紀をまっすぐ見ていた。
「私がいるから。大丈夫」
由紀は声を出さずに泣いた。
母親として、泣いてはいけないと思った。でも、止まらなかった。
凛は立ち上がり、母の隣に座った。
肩に寄りかかるでも、抱きつくでもなく、ただ隣に座った。
それが凛のやり方だった。
しばらく、二人は黙っていた。
廊下の向こうから、遼の「ん?」という声が聞こえた。何か気になることを見つけたらしい。それきり静かになった。
隣の部屋では、華が椅子を引く音がした。
「一つだけ聞いていい」
由紀が聞いた。
「うん」
「寂しくないの」
凛はすぐには答えなかった。
少し考えて、言った。
「寂しいよ」
由紀が息をのんだ。
「でも、ママが我慢してる方が、もっと嫌」
由紀はまた泣いた。
今度は声を出して泣いた。
凛は黙って隣にいた。
翌朝、由紀は遠藤朱里にメッセージを送った。
「行く」
たった二文字だった。
その間、凛は台所で朝食を作っていた。
トースト、目玉焼き、サラダ。
人数分より一つ多く作った。
遼が起きてきたとき、「作っといた」と一言だけ言った。
「ありがとう」と遼が言った。それだけだった。
華が起きてきて皿を見た。
「お姉ちゃんが作ったの?」
「うん」
「やった」
華は素直に喜んで、椅子に座った。
由紀がスマホを持ったまま台所に入ってきた。
目が少し赤かった。
「ありがとう」
凛は由紀を見た。
「お礼はいい」
「凛」
「早く食べて。冷めるよ」
由紀は笑った。
少し泣きながら笑った。
遼がトーストを齧りながら、特に何も言わなかった。
朝の光が、柊家のダイニングに差し込んでいた。
その春から、由紀は世界を飛び回るようになった。
毎月、口座に振り込みがある。桁が一つ多い。
月に一度、ビデオ通話がある。
「寂しくなかった?」と由紀は必ず聞く。
凛は必ず「大丈夫」と答える。
本当のことを言えば、少し寂しかった。
でも、由紀が電話越しに話すときの顔は、あの頃DVDを見るときの顔と、どこか似ていた。
凛は、それで十分だと思っていた。




