SILENT AEGIS ──TechVision特殊部隊、東京作戦記録── 番外「FALLEN AGENTS」 ――柊凛・柊華、監視チームを落とす――
六月の、第二週。
TechVision Security Division東京支局の監視チームは、三班編成で動いていた。
一班が柊遼担当(橘チーム)。
二班が柊凛担当(村瀬チーム)。
三班が柊華担当(相田チーム)。
それぞれ男性三名、女性一名の四名構成。
女性陣は、チーム間の連絡係も兼ねていた。
二班の女性担当は、仁科梓、三十一歳。元警視庁公安部。
三班の女性担当は、前田由美、二十八歳。元内閣情報調査室。
この二人が後に「あの週は地獄だった」と語ることになるとは、この時点では誰も知らない。
最初に異変が起きたのは、二班だった。
月曜日の朝。
仁科梓は、監視車両の後部座席でモニターを確認していた。
使用機材はソニーのFDR-AX700《※1》に望遠レンズを取り付けたもの。光学ズーム20倍に電子ズームを合わせると、百メートル以上離れた対象者の表情まで確認できる。
※1【ソニーFDR-AX700】業務用4Kハンディカム。1インチセンサーを搭載し、低照度での映像品質が高い。報道や監視活動に使われる民生機の上位モデル。望遠レンズとの組み合わせで長距離監視に対応できる。
仁科の隣に、二班の男性メンバー・松本がいた。
三十四歳。元海上保安庁。体格がいい。口数が少ない。
モニターに、柊凛が映っていた。
撮影現場の入口で、スタッフと話している。
仁科は記録を取りながら、ふと松本を見た。
松本が、モニターから目を離せなくなっていた。
仁科は少し間を置いてから言った。
「松本さん、記録は取ってますか」
「……あ、はい」
松本が手元のメモに目を落とした。
何も書いていなかった。
仁科はもう一度モニターを見た。
柊凛が笑った。
松本が、わずかに姿勢を正した。
仁科は目を細めた。
同じ日の午後。
仁科は、三班の前田由美に連絡を入れた。
「前田さん、ちょっと聞いていいですか」
「何ですか」
「松本さんが、対象者をずっと見ています」
「記録のためでしょう」
「記録なのに何も書いてないんですが」
「……それは」
「どう思いますか」
前田は少し間を置いた。
「偶然じゃないですか」
「そうですかね」
「そうですよ。松本さんはベテランです」
仁科は電話を切った。
モニターに、また柊凛が映っていた。
松本が、メモを持つ手を止めた。
仁科は小さくため息をついた。
火曜日。
三班でも同じことが起きていた。
前田由美は、車内で一人ぼやいていた。
対象者・柊華の撮影現場を、班の男性メンバー三人が交代で監視している。
交代のサイクルは二時間ごとのはずだ。
ところが。
「交代します」と声をかけると、三人とも「もう少しやります」と言う。
前田は名簿を見た。
伊藤(三十二歳、元陸上自衛隊・偵察)。
坂本(三十五歳、元公安調査庁)。
古川(二十九歳、元警察庁セキュリティ対策課)。
三人とも、優秀な人材だ。
なのに今日は全員、二時間以上ポジションを離れない。
前田は古川に通信を入れた。
「古川さん、交代時間が過ぎています。ポジション変わってください」
「あ、もう少し状況を確認してからにします」
「何を確認していますか」
「……対象者の動線です」
「対象者は今日の撮影終わって楽屋にいます。動線の確認は不要では」
「念のために」
前田は電話を切った。
坂本に通信を入れた。
「坂本さん、今どこにいますか」
「現場の外周を確認しています」
「外周確認は昨日終わってます」
「……再確認です」
「再確認の理由は」
「念のために」
前田は電話を切った。
伊藤に通信を入れた。
「伊藤さん」
「はい」
「何してますか」
「監視です」
「何を」
「対象者を」
「対象者は楽屋にいます。監視できる位置にいますか」
「……位置を調整しています」
「調整先は」
「楽屋の出口が見える場所です」
前田は電話を切って、しばらく天井を見た。
それから仁科に連絡を入れた。
「仁科さん。うちの班の男三人が全員ポジション離れなくなりました」
「……うちもです」
沈黙。
「仁科さん、これ」
「わかってます」
「どうしますか」
「とりあえず記録を続けます。上には報告しません」
「同意します」
水曜日。
仁科梓は、昼の休憩時間に松本の行動記録を見返していた。
月曜から今日まで三日分。
問題はなかった。
記録は正確だった。対象者の動線、接触者、滞在時間、全部書いてある。
ただ——
記録の精度が、普段より高かった。
服の色を書く欄に、「淡いアイボリーのシャツ、首元のボタン一つ開け」と書いてあった。
仁科は少しだけ目を閉じた。
それから、自分の記録を見た。
「対象者・柊凛、午後二時十七分、撮影終了後に共演者と軽食。四人テーブル。右端に着席。紅茶を注文。飲む前に少し冷ます仕草あり」
仁科はペンを持ったまま動きを止めた。
紅茶を冷ます仕草まで書く必要があったか。
…………
なかった。
仁科は記録帳を閉じた。
木曜日。
二班と三班が合同で使う中継地点——港区のマンションの一室——で、仁科と前田が顔を合わせた。
前田が先に口を開いた。
「仁科さん、古川が昨日コンビニでプリンを買っていました」
「……それは」
「対象者が撮影の合間に「プリンが食べたい」と言っていたのを記録に書いていました。買ったプリンは自分では食べていません」
「……どこへ」
「ゴミ箱に捨てていました」
沈黙。
「買った意味は」
「わかりません」
また沈黙。
「前田さん、うちの松本は」
「はい」
「今日の記録に「対象者、午前中から少し疲れた様子。撮影後に目を細めて空を見る癖がある」と書いていました」
「……それは」
「人間観察の記録じゃないです」
「……同意します」
仁科はコーヒーカップを持って、窓の外を見た。
前田が静かに言った。
「仁科さん、私も少し聞いていいですか」
「何ですか」
「昨日、対象者・柊華が撮影終わりに傘を忘れたんです。雨が降り始めていたので」
「はい」
「対象者は気づかずに歩いていって——坂本が傘を拾って」
「持っていきましたか」
「持っていけませんでした。でも」
前田が少し間を置いた。
「「傘を届けたかった」と言っていました。ぼそっと。独り言で」
仁科は天井を見た。
「前田さん」
「はい」
「これは問題ですね」
「はい」
「ただ」
「はい」
「私も昨日、対象者が雨の中で一人で待っているのを見て、早く車が来ればいいと思いました」
前田が少し間を置いた。
「仁科さん、それは監視員として自然な感情だと思います」
「でも担当は対象者を守ることじゃなくて記録することです」
「……そうですね」
「なのに「早く車が来ればいい」と思いました」
沈黙が続いた。
前田が小さく言った。
「私も思いました」
金曜日。
夕方の撮影現場付近。
指向性マイク《※2》のヘッドセットをつけた仁科が、ベンチに座っていた。
※2【指向性マイク】特定の方向からの音を選択的に収音するマイク。周囲の雑音を除去し、狙った方向の会話を拾える。ガンマイクとも呼ばれ、電波法や盗聴防止法の範囲内での使用が前提となる。
対象者・柊凛が、マネージャーと歩いてくる。
マネージャーが「今日お疲れ様でした」と言っている。
柊凛が「ありがとう、でも明日の方が大変そう」と答えている。
マネージャーが「大丈夫ですよ、凛さんなら」と言っている。
柊凛が少し笑った。
仁科のイヤホンに、松本の声が入った。
「仁科さん」
「何ですか」
「対象者、今日は顔色が昨日より良い気がします。記録に入れますか」
仁科はわずかに間を置いた。
「入れなくていいです」
「でも体調の変化は安全管理上——」
「入れなくていいです」
松本が黙った。
柊凛が車に乗り込んだ。
松本が小さく言った。
「……お疲れ様でした」
車は走り去った。
仁科はヘッドセットを外して、空を見た。
快晴だった。
同じ頃、三班の前田は別の場所にいた。
対象者・柊華の事務所前。
柊華が共演者と話しながら出てきた。
よく笑う子だ、と前田は記録に書いていた。三日目から気づいていた。
前田のイヤホンに、伊藤の声が入った。
「前田さん、対象者が笑っています」
「見えています」
「記録しますか」
「内容が伴う笑いだけ記録してください。理由のない笑いは省略です」
「対象者は理由なく笑うことはありません。笑う理由が必ず何かあります」
前田は少し止まった。
「伊藤さん、三日間の観察でそれがわかりますか」
「わかります」
前田は何も言わなかった。
柊華が事務所の車に乗り込んだ。
乗り込む前に、空を少し見上げた。
伊藤が小さく言った。
「空を見ました。快晴を確認したんだと思います」
前田は通信を切った。
それからしばらく、自分が今まで積み上げてきた「プロとしての客観性」という概念について静かに考えた。
土曜日の夜。
仁科と前田が、中継地点の部屋で向かい合っていた。
コーヒーが二つ、テーブルに置いてある。
仁科が先に口を開いた。
「週次報告書を書こうとして、止まりました」
「私もです」
「事実だけを書けばいいんですが」
「はい」
「事実の中に「対象者が笑ったとき、松本が五秒間メモを取るのを忘れた」という事実も含まれますか」
「……それは書かなくていいです」
「「伊藤が対象者の笑いの理由を三日間で分類していた」は」
「書かなくていいです」
「「坂本がプリンを買ってゴミ箱に捨てた」は」
「書かなくていいです」
仁科はコーヒーを一口飲んだ。
「前田さん、私は昨日、対象者が現場入りするとき少し緊張した様子だったのを見て、「うまくいくといい」と思いました」
「……それは」
「監視員として、どう評価しますか」
前田は少し考えた。
「仁科さん、私は今日、柊華が撮影で上手くいかない場面を繰り返していたとき、「次はいける」と心の中で思っていました」
沈黙。
「私たちは、どうなっていますか」
また沈黙。
仁科が静かに言った。
「全員、落ちています」
「はい」
「男性陣は全員確実に。私たちも——方向性は違いますが」
「はい」
前田が少し間を置いてから言った。
「仁科さん、私は決めました」
「何をですか」
「柊華さんは、何があっても絶対に守ります」
仁科は少し目を細めた。
「前田さん、私たちの仕事は記録です。守るのはECHOチームの仕事です」
「わかっています。でも——守ります。何があっても」
仁科はコーヒーカップを見た。
少し間を置いて、言った。
「……私もです」
「柊凛さんですか」
「はい」
「何があっても」
「何があっても」
二人はコーヒーを飲んだ。
しばらく沈黙があった。
前田が言った。
「報告書、どう書きますか」
「事実だけ書きます。「監視対象・柊凛および柊華、行動パターンに異常なし。警戒すべき接触者なし」」
「以上ですか」
「以上です」
前田が少し笑った。
「仁科さん、一個だけ聞いていいですか」
「何ですか」
「松本さんって、凛さんのどこが一番——」
「聞こえません」
「でも」
「聞こえません」
「私、伊藤さんが「笑いの理由を分類していた」って聞いてから、少し理解できると思ってしまって」
「前田さん」
「はい」
「我々はプロです」
「はい」
「明日も記録を続けます」
「はい。……でも守ります」
「守ります」
二人はコーヒーを飲み干した。
翌週の月曜日。
ECHOチームのヴィクター・ライが、監視チーム三班の週次報告書を受け取った。
一班(橘チーム・柊遼担当):異常なし。
二班(村瀬チーム・柊凛担当):異常なし。
三班(相田チーム・柊華担当):異常なし。
ヴィクターは三つのレポートをざっと読んだ。
問題はなかった。
ただ——
二班の報告書の末尾に、一行あった。
「備考:対象者の安全確保について、担当チームとして最優先事項と認識。いかなる事態においても対応可能な態勢を維持する」
三班の報告書にも、同じような一行があった。
「備考:対象者の警護について、担当チーム一同、最大限の注意を払うことを確認済み。いかなる状況においても対応する」
ヴィクターは少し考えた。
監視チームの報告書に、こういう一行が入ることは通常ない。
監視と警護は別の仕事だ。越権とまでは言えないが、通常ではない。
ヴィクターは報告書を閉じた。
盆栽に水をやりながら、少し考えた。
まあ、いいだろう。
仕事は正確にこなしている。
守ろうという気持ちは、悪いことではない。
ヴィクターは盆栽の葉を一枚直した。
報告書は特に差し戻さなかった。
※本話はSILENT AEGIS ──TechVision特殊部隊、東京作戦記録──の番外編です。本編の時系列とは独立しています。




