第30話「ママ、おかえり」
柊由紀が帰ってくるという連絡は、三日前に来た。
華は即座にLINEグループに転送した。グループ名は「柊家」。メンバーは凛と遼と華の三人で、普段ほとんど使われないが、たまにこういうときだけ動く。
「ママ帰ってくる!!!!!!!!!」
三秒後に凛から「知ってる」と返ってきた。
「なんで知ってるの」
「直接連絡来てた」
「先に教えてよ」
「あなたに教えたら騒がしくなるから」
「失礼じゃない!?」
遼からは三十分後に「そうか」とだけ来た。
当日。
凛は仕事から帰ってきてソファに倒れていた。コートも脱いでいない。スマホも見ていない。目を閉じている。
「お姉ちゃん、起きてる?」
「起きてる」
「起きてるなら玄関の荷物片付けて」
「あとで」
「ママが帰ってくる前に」
「あとで」
「あとでって言って絶対やらないやつ」
「今日は撮影が長かった」
「知ってる。でも荷物」
「……分かった」
凛が重い体を起こして、ぼんやりした顔で玄関に向かった。華はキッチンに戻った。
遼はモニターの前で作業を続けていた。
「遼、今夜ちゃんとした服着て」
「今着てる服はちゃんとしてる」
「穴あいてるじゃん袖」
「作業用だから」
「ママに会うんだよ」
「母親だろ」
「だから」
「だからって着替える必要がある?」
華が「もう遼は……」と言いかけてやめた。言い切っても変わらないことを、三年かけて学んでいた。
「分かった。好きにして」
「そうする」
インターフォンが鳴ったのは、夜の八時過ぎだった。
モニターを見ると、スーツケースを引いた女の人が映っている。
「ただいま」という声。
遼が解錠した。華が廊下を走った。凛がソファから落ちそうになりながら立ち上がった。
ドアが開いて、柊由紀が入ってきた。少し日焼けして、少し疲れた顔をしているが、笑っている。
「ただいま」
「おかえり!!!」
華が由紀に抱きついた。勢いが余ってスーツケースのハンドルが華の腕に当たった。
「痛っ」
「ごめん! でもおかえり!!」
「おかえりって言うより先に人を痛がらせる子はいない」
凛が玄関まで来て「おかえり」と言った。普通に言ったが、少し目が潤んでいた。由紀がそれを見て「泣かないでよ」と言った。
「泣いてない」
「泣きそうな顔してる」
「してない」
「してる」
「……久しぶりに会ったらそういうこと言う?」
「ごめんごめん、かわいいと思って」
「私のどこが」
「その顔が」
凛が「もういい」と言って台所の方に向かった。
遼がモニターの前から「おかえり」とだけ言った。振り返らずに。
「遼、こっち向いて」
「向いてる」
「向いてない」
遼がくるっと椅子を回した。
「向いた」
由紀が遼の顔を見た。
「……大きくなった?」
「変わってない」
「なんか変わった気がする」
「二ヶ月で変わらない」
「顔じゃなくて雰囲気」
「雰囲気も変わってない」
「なんか……落ち着いた?」
「前から落ち着いてる」
「前よりさらに落ち着いた」
「そうか」
「そうかって言う人間が一番落ち着いてる」
華が「本当にそれ」と同意した。
食卓に四人が揃った。
華が作った味噌汁と、遼が昼に作って余った豚汁と、凛が冷蔵庫から引っ張り出してきた何かが並んだ。
「お姉ちゃん、これ何の料理?」
「作ったのは私じゃない」
「じゃあ誰」
「遼」
由紀が遼を見た。
「遼、料理するようになったの?」
「たまに」
「なんで」
「腹が減るから」
「それはそうだけど」
「外食ばかりだと飽きる」
「じゃあ凛は?」
凛が「私は外食でいい派」とあっさり言った。
「飽きないの?」
「飽きてるけど楽だから」
「……女優がそれでいいの」
「女優は演技をする人であって料理をする人ではない」
「論理がおかしい」
「おかしくない」
「おかしい。遼はどう思う?」
「論理的には一応成立してる」
「遼!」
「でも正しくはないと思う」
「……まあそうね」
凛が少し唇を尖らせた。由紀が笑った。
「変わってないじゃない」
「変わってないよ、そりゃ」
「なんか家でだけ子供みたいになるの、昔から変わらない」
「子供じゃない」
「子供みたいって言った」
「大人が子供みたいになってる、って言ってほしい」
「それどう違うの」
華が「実質同じじゃん」と口を挟んだ。
「華は黙ってて」
「え、なんで私が」
「あなたが笑ってると収まるものも収まらないから」
「笑ってないし」
「笑ってる」
「笑ってないし」
「華、笑ってる」と由紀が言った。
「ママ!!」
遼が味噌汁を飲みながら静かに食べていた。
「遼、就職どうするの」
食事の途中で由紀が聞いた。
「考えてる」
「考えてるって何年言ってんの」と凛がすかさず言った。
「ねー!」と華がすかさず乗った。
「今も仕事はある」
「フリーランスでしょ」
「それのどこが問題?」
「安定性とか」
「今のところ問題ない」
「今のところはね」
「将来の心配より今の仕事に集中した方がいいと思う」
「それが心配なの!!」と凛。
「同じくそれが心配!!」と華。
由紀が「まあまあ」と二人をなだめながら、遼を見た。
「自分で選びなさい。でも逃げないで」
遼が少し止まった。
「逃げてない」
「本当に?」
「……本当に」
「ならいい」
「え、ここで終わり?」と華。
「それを聞けたら十分よ」と由紀。
「なんか収まった」と凛。
遼は何も言わなかった。
由紀が「遼はずっとそうだったよ」と言った。
「小さい頃から?」と華。
「小さい頃から。何かが気になって、でも何が気になってるか分からないまま、じっとしてた」
「それで台所の引き出し開けたり閉めたりしてたやつ?」と凛が言った。
「そうそう。華が泣いてたりしても遼だけ台所の引き出し開けたり閉めたりしてた」
「えっ、誰が泣いてたの」と華。
「あなたよ」と由紀。
「私!?」
「小さい頃は泣き虫だったじゃない」
「そんなことないし!!」
「そんなことあった。幸江さんちの裏でよく泣いてた」
「なんで幸江さんちの裏で!?」
「人に見せたくなかったんじゃないの」
「……覚えてない」
「母親は覚えてるから」
華が「恥ずかしい」と両手で顔を覆った。
遼が「記憶はある」と言った。
「遼まで!!」
「事実だろ」
「言わなくていい!!」
「知らなかったのは本人だけ、か」と凛。
「お姉ちゃんも黙ってて!!」
由紀が笑い続けていた。
「ただいまって感じがする」
「今頃!?」と華。
「帰ってきた実感が出てきた」
食事が終わって、凛は「明日も早い」と先に部屋に戻った。
華は片付けをしながらずっとしゃべっていた。撮影のこと、蒼真くんの話、奈々さんが面白いこと——遼が「奈々って誰だ」と聞いて、華が「宮本奈々!知らないの!?」と言って、遼が「知らない」と言って、華が「ありえない」と言って、そのまましばらく続いた。
由紀は洗い物を手伝いながら、それを聞いていた。
「ビデオ通話じゃこれが伝わらないのよね」
「何が」
「この感じ全部」
「どの感じ?」と華が聞いた。
「あなたたちの感じ全部」
華がちょっと考えてから「ありがとう……?」と言った。
「そうだよ、ありがとうが正解」と由紀。
「なんかよく分かんないけど嬉しい」
「それでいい」
遼はモニターに戻りかけていたが、少し止まった。
「……母さん、疲れてるだろ。早く寝ろ」
「そうする」
「荷物部屋に運ぼうか」
「いい。でもありがとう」
遼が少し止まった。
「……そうか」
由紀がスーツケースを引きながら廊下に出た。部屋のドアを開けかけて、振り返った。
「おやすみ」
「おやすみ」「おやすみ!」
「……遼」
「なに」
「好きな人いる?」
「……いない」
「そう」
少し間があった。
「なんで笑ってるの」と遼。
「笑ってない」
「笑ってる」
「おやすみ」
「……おやすみ」
廊下に出て、ドアが閉まった。
由紀は歩きながら、小さく笑った。
ぜったいいる。
なんとなくそう思った。
一週間後の朝。
由紀のスーツケースが、また玄関に出ていた。
凛は早い時間から起きていた。遼はまだ寝ていた。華だけが由紀と一緒に台所に立って、トーストを焼いた。
「ちゃんとご飯食べてね」
「食べる」
「遼が作ったりするの?」
「たまに」
「たまにじゃなくてちゃんと食べて」
「食べてる」
「食べてるって言うだけじゃなくて本当に食べて」
「……食べる」
華が口を尖らせた。
「私たちの心配より、ママの心配してよ」
「してるよ。同時にできる」
「……」
凛がコーヒーを持ってリビングに来た。
「何時の飛行機」
「十一時。早めに出る」
「車、呼んだ?」
「呼んだ」
「うん」
三人で朝食を食べた。遼は起きてこなかった。由紀が「遼は?」と聞いたら、凛が「昨日深夜まで作業してたので」と言った。由紀が「そう」と言った。
「起こしてくる」と華が立ち上がりかけた。
「いい」と由紀が言った。「寝かせておいて」
「でも、ママ行っちゃうよ」
「ビデオ通話できるから」
「……そういう問題じゃないと思うけど」
「華」
「なに」
「あの子は、そういう形で別れを惜しまないの」
結局、遼は起きてこなかった。
玄関で凛と華が見送った。スーツケースを引いた由紀が振り返った。
「ちゃんと三人でやれる?」
「やれる」と凛が言った。
「やれる!」と華が言った。
「そう、また連絡する」と由紀。
「うん」
「喧嘩しないで」
「するかも」と凛が言った。
「するー」と華が言った。
「……まあ、三人でやって」
ドアが閉まった。
凛と華が二人で玄関に立っていた。
「行っちゃった」と華が言った。
「行ったね」と凛が言った。
しばらく黙った。
リビングの方から、遼の「……ん」という声がした。起きたらしい。
「遼、ママ行ったよ!」と華が廊下に向かって言った。
しばらく間があった。
「……そうか」
「そうかって!」
凛が少し笑った。華が「笑うな!」と言った。凛が「だって」と言った。
いつもの朝に、戻っていった。




