SILENT AEGIS ──TechVision特殊部隊、東京作戦記録──第五話「THE CALL TO DAVID」
六月。
午前三時十四分(東京時間)。
前日、午前十一時十四分(カリフォルニア時間)。
港区、TGSアドバイザリー四階。
ロバート・チェンは、デスクの前に座っていた。
ラップトップが開いている。画面には、河野から送られてきたレポートが表示されている。三十七ページ。すでに三回読んだ。
手元に、サラから届いた追加の報告書もある。
クルスの顔認識結果。倉庫の内部人員の推定。笠置本人が現地を訪れていたという記録。
ロバートはそれらを見ながら、スマートフォンを持っていた。
発信ボタンを押せなかった。
三分間、そのままでいた。
ロバート・チェン、四十五歳。
TechVision SystemsCTO。
この仕事を長くやってきた。
難しい報告はいくつもしてきた。不採算事業の縮小。幹部の不正。セキュリティインシデント。
どれも、感情を切り離してデイビッドに伝えられた。
今夜は違った。
柊という名前が、ロバートにとって「案件」ではないからだ。
遼に初めて会ったのは、彼がまだ大学の実験室にいた頃だった。断られて、また行って、また断られた。それを繰り返すうちに、気がつけばあの家族全員のことを知っていた。凛が台本を読むときの癖。華が笑うときの声。三人で食卓を囲む夜の、何でもない空気。
その家族が、今、誰かに狙われている。
ロバートは発信ボタンを押した。
コールが三回鳴った。
「Robert.」
デイビッドが出た。
低い声。カリフォルニアは昼前だ。だが声に緊張はない。
"David. I have a report."
(デイビッド。報告があります)
"Go ahead."
(聞いています)
ロバートは画面を見ながら、順を追って話した。
Ouroborosの通信に柊という名前が出たこと。コードトークのパターンと一致したこと。実行人員が推定八名であること。クルスの身元が確認されたこと。笠置文雄が倉庫に直接出向いていたこと。
話し終えるまで、デイビッドは一度も口を挟まなかった。
沈黙が続いた。
七秒。
"How long to resolve."
(解決まで、何時間かかる)
"Victor says forty-eight hours. If we move now."
(ヴィクターは四十八時間と言っています。今動けば)
また沈黙。
"The family. Do they know anything."
(あの家族は、何か知っているか)
"Nothing. They're going about their day."
(何も知りません。今夜も普通に過ごしているはずです)
"Keep it that way."
(そのままにしろ)
"……Sir?"
(……はい?)
"They don't need to know. Not before, not after. This is our problem to solve. Ours."
(彼らが知る必要はない。前も後も。これは我々が解決する問題だ。我々の)
ロバートは少し間を置いた。
"……Understood."
(……わかりました)
電話の向こうで、短い沈黙があった。
"Victor has my full authorization. Tell him——No limits on resources."
(ヴィクターには全権を与える。伝えろ——使えるものは全部使え)
"Understood. I'll tell him."
(了解しました。ヴィクターに伝えます)
"Robert."
"Yes."
(はい)
"You did the right thing. Coming to me now."
(よくやった。今、私に連絡してきたのは正しい判断だ)
ロバートは何も言えなかった。
一秒待ってから、"Thank you."と言った。
電話が切れた。
ロバートはスマートフォンをデスクに置いた。
深夜三時の事務所。
モニターの光だけがある。
「リソースに制限はない」。
TechVisionという会社の規模で、デイビッドがその言葉を使うとき、何が動くかをロバートは知っている。ECHOチームだけではない。必要であれば、ロンドン支局もシンガポール支局も呼べる。資金は無制限に使える。情報機関との非公式なパイプも開く。
一言で、そのすべてが動く。
ロバートはヴィクターへのメッセージを打った。
「David confirmed. Full authorization. No limits on resources.」
(デイビッドが承認しました。全権委任。使えるものは全部使え)
数秒で既読がついた。
ヴィクターからの返信は一行だった。
「Understood.」
ロバートはラップトップを閉じた。
それから開き直して、もう一度レポートを見た。
笠置文雄が倉庫に来ていた——その事実が、まだ気になっていた。
老狐と呼ばれる人間が、わざわざ自分の足で現地に出向く。計画の最終確認か。あるいは別の何かか。
ロバートにはわからない。
わからないことは、わかる人間に任せる。それがロバートの判断の流儀だった。
同じ頃、カリフォルニア。
サンフランシスコ郊外の住宅街。
午前十一時二十分(カリフォルニア時間)。午前二時二十分(シンガポール時間)。
デイビッド・マクナマラは書斎にいた。
電話を切ってから、しばらく動かなかった。
椅子に座ったまま、窓の外を見ていた。カリフォルニアの昼。空が広い。
立ち上がった。
書斎の奥、窓際のキャビネットに歩み寄った。
その上に、一枚の写真が置いてある。
銀製のフレーム。少し古い。長い時間の重みがある。
四人が写っていた。
デイビッドと、アン。
柊海斗と、由紀。
場所はサンフランシスコのレストランだ。
海斗がまだ三十代の頃。デイビッドも若かった。アンはよく笑う人だった。由紀は舞台女優をやめたばかりで、まだ少し舞台の空気を纏っていた。
四人全員が笑っている。
デイビッドが笑っている写真は少ない。この頃はまだ、そういうことが自然にできた。
写真を少し見てから、スマートフォンを取り出した。
シンガポールの番号を呼び出した。
コールが二回。
「David.」
柊海斗の声。
落ち着いた声だ。深夜に電話がかかってきても、動揺を見せない人間だ。デイビッドはそれを昔から知っている。
"It's been a while."
(久しぶりだな)
"It has. You sound well."
(そうですね。お元気そうで)
"You too. Still bouncing around the world, I take it."
(お前もな。相変わらずあちこち飛び歩いているようだが)
"Occupational hazard."
(仕事柄、仕方ないですね)
デイビッドは少し間を置いた。
"Kaito. Are you free to talk?"
(海斗。話せるか)
"Of course. It's past two in the morning here, but I wasn't sleeping."
(もちろんです。こちらは深夜二時を過ぎていますが、眠れていませんでした)
デイビッドは少し間を置いた。
"I'll keep it short then. But first——"
(では手短にしよう。ただその前に——)
"Come to TechVision. You and Ryo, both. You'd be welcome."
(TechVisionに来い。お前も遼も。大歓迎だ)
海斗が少し笑った気配があった。
"Ryo moves at his own pace. So do I."
(遼は遼で動いています。私は私で。それぞれのペースがあります)
"I know. I just wanted to say it."
(わかっている。言いたかっただけだ)
"That's unlike you."
(冗談にしては珍しい)
"I'm allowed one occasionally."
(たまにはいいだろう)
軽口が一段落した。
デイビッドが、少し低い声になった。
"Kaito. I owe you an apology."
(海斗。謝らなければならない)
"For what."
(何を)
"I showed my face in Japan. The sumo tournament. It was reported. And now——"
(日本で顔を出した。相撲の件だ。報道された。そして今——)
"I know."
(知っています)
海斗が静かに言った。
デイビッドは少し止まった。
"I had a feeling. About the children. That sooner or later, something like this would happen. Looking at how those three live——it was inevitable."
(子供たちのことも、薄々は感じていました。遅かれ早かれ、何かに巻き込まれるような気がしていた。あの三人の生き方を見ていれば——そうなると分かっていました)
"……"
"If anything, I'm glad TechVision is involved. It means they're on the protected side."
(むしろTechVisionが絡んでいて良かった。守ってもらえる側にいられる)
デイビッドはしばらく何も言わなかった。
書斎の窓から、カリフォルニアの青い空が見えている。
"I will protect them. On TechVision's name. I promise you that."
(必ず守る。TechVisionの威信にかけて。約束する)
"I believe you."
(信じています)
海斗の返事は短かった。
だが迷いがなかった。
少し間があった。
デイビッドが言った。
"Kaito. You'll be fine. But——could you reach out to Yuki? Let her know to be careful. We'll send a team to Milan as well."
(海斗、お前は大丈夫だろうが——由紀さんにも注意を入れておいてくれないか。こちらでも現地のチームをミラノに向かわせる)
"Thank you."
(ありがとう)
一言だった。
"Take care of yourself."
(お前も気をつけろ)
"You too."
(そちらも)
電話が切れた。
デイビッドはしばらく、スマートフォンを手に持ったまま動かなかった。
それからもう一度、キャビネットの写真を見た。
四人。
アンはもういない。
十年前に逝った。あの頃デイビッドは五十二歳で、世界が急に静かになった気がした。静かになった世界で、仕事だけが動き続けた。
海斗と由紀は今、地球の別々の場所にいる。
シンガポールとミラノ。
かつて四人で笑っていた夜から、それぞれの時間が流れた。
そしてその子供たちが、今夜、誰かに狙われている。
デイビッドは写真から目を離した。
窓の外を見た。
カリフォルニアの昼の空。雲が少ない。東京とは違う空だ。
ロバートも、ヴィクターも、河野も、ECHOチームの六人も——今この瞬間、東京で動いている。
デイビッドにできることは、全権を与えることだけだ。
それ以外に、今夜この書斎でできることはない。
だがデイビッドは、ここにいながら確かに動いていた。
二人の間に遼という接点が生まれたのは最近のことだ。
だがそれ以前に——長い時間がある。
互いの配偶者を知っていた時間。一方が配偶者を失い、もう一方が配偶者と別れて暮らすようになった後も、時折連絡を取り合い、近況を交わしてきた時間。
似た種類の人間が、遠くから互いを確かめてきた、静かな時間。
どちらも多くを言葉にしない。
する必要がない。
デイビッドは書斎の電気を消した。
廊下に出て、寝室に向かった。
眠れるかどうかはわからない。
ただ、横にはなる。
四十八時間以内に、東京で何かが終わる。
次回、第六話「MAPPING THE KILL HOUSE」――エリックとマルクス、倉庫を測る。




