「高瀬悠斗は、普通にしようと決めた」
振られたことがある人間なら分かると思うが、翌日の朝というのが一番しんどい。
夜はまだいい。家に帰って、シャワーを浴びて、何かを飲んで、一人で天井を見る。その時間は自分のものだ。感情を持て余してもいいし、整理しようとしてもいい。
でも翌朝は、会社がある。
高瀬悠斗は朝七時半に起きて、コーヒーを淹れながら「今日は普通にしよう」と決めた。
普通に、と言ってもそこまで難しい話ではない。高瀬は基本的に感情を顔に出さないタイプだ。締切を三週間飛ばす作家と電話しながら平常心を保つ人間が、振られた翌日に顔に出すのは、それはそれで失礼という気がした。
桜井さんがきちんと答えてくれた。
それは、間違いなく良いことだった。
「少し考えさせてください」と言われた。催促するものでもないし、するつもりもなかった。でも一晩待っている間、答えがどちらになるかは、なんとなく分かっていた。
桜井さんが「少し考えさせてください」と言ったときの目が、迷っている目じゃなかった。迷っていない目で「少し考えさせてください」と言う人間は、答えを出す時間を取っているだけだ。
答えが来たのは翌日の午後、昼休みが明けて少し落ち着いた頃だった。
詩織が高瀬のデスクに近づいてきた。
「少しいいですか」
「どうぞ」
「昨日のことなんですが」
「はい」
「ごめんなさい。気持ちに応えられないです」
高瀬はしばらく黙った。
驚いた顔ではなかった。驚かなかった、というより、驚く準備ができていた。
「……そうですか」
「はい」
「好きな人がいるんですか」
詩織が少し間を置いた。
「……たぶん」
「たぶん、か」
高瀬は小さく笑った。
「なんとなく、分かってました」
「え」
「詩織さん、誰かのことを考えているときの顔してたので」
「……そんなに出てましたか」
「出てなかったですよ。でも、なんとなく」
「すみません」
「謝らなくていいです。ちゃんと伝えてくれてよかった」
高瀬が「仕事、頑張りましょう」と言って、自分の作業に戻った。
詩織が自分のデスクに戻っていく背中を、高瀬は見なかった。見ないようにしたわけでもなく、手元の原稿に目が戻っただけだ。
後味が悪くない。
ちゃんと言ってくれた。それで十分だった。
職場について、席に着いた。
PCを立ち上げながら、昨夜担当作家から来たメールを確認する。件名が「原稿の件」になっていて、高瀬は開く前から内容が分かった。
「高瀬さん、また一週間ください」
三度目だった。
高瀬は「了解です。待ちます」と返信して、コーヒーを飲んだ。
こういうことは続く。どの作家も、締切を守れない理由がちゃんとある。理由があるからといって締切が延びていいわけでもないが、理由のない締切破りと理由のある締切破りは、対応が変わってくる。
仕事というのはそういうものだ。
「高瀬さんおはようございます!!」
声が来た。
同じ部門の同期、田中だった。入社二年目、テンションが一定して高い。悪い人間ではないが、朝の第一声がいつも大きい。
「おはよう」
「今日、新しい作家さんの打ち合わせありますよね。楽しみですね!!」
「うん。まあ」
「高瀬さんって、なんでそんな落ち着いてるんですか」
「落ち着いてないといけないから」
「なんで」
「向こうが緊張してるときに、こっちも緊張してたら話が進まないから」
田中が「なるほど!!」と大きな声で言った。
高瀬はコーヒーを一口飲んだ。
落ち着いてないといけない理由は、もう一個あったが、それは言わなかった。
昼前に、詩織が席に戻ってきた。
打ち合わせから帰ってきたらしく、ノートとペンを持っている。高瀬は目が合った瞬間に普通に頷いた。詩織も普通に頷き返した。
二言だった。
それで良かった。
高瀬は自分の担当原稿に戻った。三百ページのゲラに、付箋が十二枚ついている。赤字を入れながら、頭の別の部分で昨夜のことを少し整理した。
好きな人がいる、と詩織は言った。
高瀬はその瞬間に「ああ、そっか」と思った。思った、というより、確認した感覚だった。
最初から、なんとなく感じていた。
詩織が遠くを見るような顔をするとき、それは職場の外の誰かのことを考えているときだった。何気ない話の中で、特定の「誰か」の話が出てくる頻度が高い人間がいて、詩織にとってのその「誰か」は、高瀬には最初から見えていた。
名前は知らない。でも「います」と言われた瞬間に、ああ、その人か、と合点がいった。
自分が蒔いた種だ。
そういうことだ。
昼休みに、田中がトレーを持って隣に座ってきた。
「高瀬さん、最近なんか元気ないですか」
「そう見える?」
「いつも通りっちゃいつも通りですけど……なんかちょっと、元気ないかな、て」
なかなか鋭い。
「そう? まあ、少し疲れてるかも」
「無理しないでくださいよ。高瀬さんってなんでも一人で抱えるから」
「そんなことない」
「そんなことあります。この前の、作家さんの原稿遅延も、一人で対応してたじゃないですか」
「俺の担当だから俺がやるだろ」
「でもああいうときって、大変ですよね」
「大変だよ。でも、そういう仕事だから」
田中がラーメンをすすりながら「高瀬さん、いつ弱音吐くんですか」と言った。
「弱音吐いても原稿は来ないから」
「仕事の話じゃなくて、プライベートとかで」
「プライベートは……まあ、友達と飲むかな」
「最近飲みました?」
「来週飲む予定がある」
「よかった。絶対ちゃんと吐き出してきてください」
「吐き出す、とまでいかないけど」
「吐き出してください」
田中が真剣な顔で言った。
高瀬は「分かった」と言って、定食の味噌汁を飲んだ。
悪い後輩だ、とは思わなかった。
午後。
詩織が資料をまとめているのが、高瀬の席から見えた。
集中しているときの詩織は、ペンを持ったまま少し止まることがある。考えているのか、何かを思い出しているのか。その止まり方が、なんというか、本を読んでいるときの止まり方に似ていた。
面白い人だな、と最初に思ったのも、そういう止まり方を見たからだった。
映画の帰り道に「夕暮れって、本のラストページみたいですね」と言った人だ。そういう言葉が出てくる人間は、普段から言葉を丁寧に扱っている。
好きになる理由としては、十分すぎるくらいだ。
振られた理由も、言われなくても分かる。
そういう人間が、高瀬より先に誰かを見ていたというだけのことだ。
夕方、退勤前に詩織が「高瀬さん、この書類の確認、明日でもいいですか」と声をかけてきた。
「いいよ。明日の午前中でいい?」
「はい。ありがとうございます」
「あと、その資料の三ページ目、数字が一個古いやつのままになってる」
詩織が資料を確認した。
「……本当だ。ありがとうございます、気づきませんでした」
「最初は全部そんなもの。慣れたら自然に目がいくから」
「そう言ってもらえると助かります」
「事実を言ってるだけだけど」
詩織が少し笑った。
高瀬も少し笑った。
そのくらいの会話だった。
変なわだかまりも、余分な空気も、なかった。
そういうふうにできる人間だ、桜井詩織という人は。
きちんと断って、きちんと翌日からもそこにいる。それは簡単なことじゃない。勇気が要る。高瀬はそれをちゃんと知っていた。
金曜の夜、大学の友人の田島と飲んだ。
田島は高校から付き合いがある。高瀬のことを「ゆうと」と呼ぶ数少ない人間で、ことあるごとに「お前は昔からそういうやつだった」という言い方をする。
「で、振られたんだろ」
席に着いて三分で言われた。
「なんで分かるの」
「声。電話で会う日決めてるとき、ちょっとだけ元気なかった」
「そんなに出てた?」
「ゆうとにしてはだいぶ出てた。ゆうとって普通は何があっても同じ声だから、ちょっとでも違うと分かる」
「そうか」
「どんな人」
「職場の後輩。一年目」
「どこが好きだったの」
「帰り道に、夕暮れのこと本のラストページみたいって言った」
「……それだけで好きになったの」
「それで分かった。こういう言葉が出てくる人間は、日頃から言葉と真剣に向き合ってる」
「出版社向きだな」
「実際向いてた。仕事ぶりを見てても、ちゃんとそういう人だった」
「振られた理由は」
「好きな人がいるって」
「へえ」と田島が言った。「その人より先に言わなかったの」
「知らなかった。でも言われた瞬間に合点はいった」
「合点いったの、振られてから?」
「言われる前から、なんとなく見えてた。でも俺は俺で好きだったから、動いた」
「で、振られた」
「で、振られた」
田島がビールを飲んだ。
「悔しくないの」
「悔しいと言えば悔しい。でも、そういうもんだろ」
「そういうもん、で片付けるか普通」
「片付けてないよ。ちゃんと悔しい。ただ、桜井さんが誠実に答えてくれたのは本当だから、そこはちゃんと思ってる」
「好い奴だな」
「向こうが」
「お前も」
高瀬は「そういうわけでもない」と言って、串焼きを食べた。
「次、どうすんの」
「どうするも何も、仕事は続くから」
「気まずくないの」
「昨日、普通に仕事の確認したよ」
「え」
「数字が一個古かったから教えた。そしたら普通にお礼言われた」
「……それって、お前が正直気まずいやつじゃないの」
「桜井さんが普通に話しかけてくれたから、こっちも普通に返せた。向こうの方が偉い」
田島がしばらく高瀬を見た。
「ゆうと、やっぱお前は昔からそういうやつだった」
「そういうやつって何だよ」
「なんか、ちゃんとしてる。損な方にちゃんとしてる」
「損なことはしてないよ」
「してるよ。普通、振られたら少しくらい引きずって醜くなるもんだろ」
「引きずってないとは言ってない。ただ、それを桜井さんにぶつけるのは違う」
「なんで」
「向こうは正直に答えてくれた。こっちが面倒くさくなるのは筋が違う」
田島が「なんか」と言って笑った。
「なんかモテそうだけど、なんかうまくいかないやつの典型だわお前」
「ひどいな」
「褒めてるよ。次は絶対うまくいけよ」
「また好きな人ができたら、動くだけだろ」
「そういうとこだよ」
二人でしばらく笑った。
金曜の夜の居酒屋、混んでいて、うるさかった。
高瀬は串焼きをもう一本取りながら、来週の月曜のことを少し考えた。
また仕事がある。担当作家の原稿はまだ来ていない。新しい打ち合わせがある。詩織の資料確認が午前中にある。
普通の月曜だ。
振られた後の月曜も、原稿が遅れた後の月曜も、特別扱いする理由はない。来たら来たで、そこにいる。
そういう仕事だし、そういう人間だ。
高瀬悠斗、二十五歳、文芸編集者三年目、振られて一週間。
まあ、そういうこともある。




