第28.5話「柊家の土曜日」
佐倉ひなは、前の晩からそわそわしていた。
正確には「そわそわしている自分をどうにかしようとしているが、どうにもならない」という状態で、ベッドに入ってスマホを見て、寝返りを打ってまた見て、もう寝ようとしてまた見て——気づいたら三時。
別に遠足じゃないのに。
翌朝、目の下にうっすらクマを作りながら鏡の前でファンデーションを叩く。ちゃんとしなければという気持ちと、ちゃんとしすぎると変に思われるという気持ちが、同時にある。
結果として「普通に可愛く仕上げた」状態で、遠藤美咲のマンションに向かった。
「ひなちゃんおはよ! 目の下クマあるよ」
美咲が玄関を開けるなり言う。
「知ってる」
「眠れなかったの?」
「……普通に眠れなかった」
「そっか〜」
美咲の顔が「全部分かった」という顔になっている。にこにこしながら靴を履いている。ひなは「普通に電車乗ってこう」と言って先に歩き出した。
電車の中、美咲はよくしゃべる。先週のバラエティの話、MCの研究が一段階進んだ話、昨日のインスタがなぜか伸びた話。ひなはそれを聞きながら、「柊家まであと何分」を頭の隅で数えていた。
いつの間にか、こういう人間になっていた。
柊家のインターフォンを押したのは、華だ。
「来てくれた!! 上がって上がって!」
華の声は相変わらず元気。ドアが開く。
廊下を通ってリビングへ。
リビングのテーブルに、部品が並んでいる。
ケースが開いて、いくつかの小さな金属片と基板が整列。その前に、遼が座っている。ルーペ型のメガネをかけて、細いピンセットを持ったまま、こちらを見た。
「どうも」
「……どうも」
ひなの声が少し裏返った。
「お邪魔します! 遼さん、またお邪魔しました!」
美咲が元気よく言う。
「どうも」
「遼さんって呼んでいいですか」
「どうぞ」
「遼さんって、今何作ってるんですか」
「制御基板の修理です」
「へえ! 難しそう!」
「普通です」
美咲が「ほら普通だって言った」という顔でひなを見る。ひなは「分かってる」という顔で返した。このやり取りが視線だけで成立するのは、二年の付き合いがあるからだ。
華がお茶を入れてきた。テーブルが二つのゾーンに分かれる。部品の方が遼、人間の方がひなと美咲と華。
「遼さんってずっとあんな感じなの?」と美咲が小声で聞く。
「ずっとあんな感じ」と華。
「仕事中って感じですね」
「仕事かどうかも分からない。なんか好きでやってる」
「趣味で基板修理するんだ……」
「するする。なんか依頼が来るらしくて」
「依頼!?」
「知り合い経由でって。直さなくていい、って言っても直す」
ひなはお茶を飲みながら、遼の手元をちらっと見る。
ピンセットで小さな部品を持ち上げて、別の場所に置く。その動作が、なんというか、淀みない。ためらいがない。迷っている様子が一切ない。どこに何を置けばいいか、全部分かっている人間の動き方。
(やっぱりかっこいい)
思ってしまった。思ってしまったことに、少し顔が熱くなる。
「ひな、顔赤い」と美咲が言う。
「お茶熱かった」
「嘘つかないで」
「うるさい」
「ねえ遼さん、今何個部品あるんですか」
美咲が遼に声をかけた。
「この基板に関しては、確認が必要なものが十四個です」
「全部覚えてる?」
「覚えてます」
「すごい」
「普通に管理してれば分かります」
「遼さんの普通、だいぶ範囲広いですね」
遼が少し首をかしげる。何を言っているのか分からない、という顔。
「いや、普通の人は十四個の部品を全部覚えてないんですよ」
「そうですか」
「そうですよ」
「……まあ」
美咲が「まあって言った」という顔でひなを見た。ひなは「そういう人だから」という顔で返す。華は慣れているのか、プリンのパッケージを開けながら「まあって言うよね」と言った。
「プリンある」
遼が言ったのは、それから十分後のことだ。作業の手を止めないまま。
「冷蔵庫に三個入ってる。食べる人は取ってきていいです」
華が「やった」と立ち上がった。美咲が「いただきます!」と続く。
ひなは、固まった。
プリン。
この家では争奪の対象だ。何度か来る間に知っている。知っているが、知っているだけで、今この瞬間に遼から「プリンある」と言われるとは思っていなかった。
「ひなちゃん、来ないの?」華が振り返る。
「……行く」
冷蔵庫の前に華・ひな・美咲の三人が集まる。プリンが三個。
「三人でちょうど」と美咲。
「凛さんは?」とひなが聞いた。
「今日撮影で……あ」と華。
「凛さん、プリン好きなんだよね」と美咲。
「好きだけど、三個しかない」
少し間があった。
「じゃあ私はいいよ。凛さんの分にしましょう」と美咲がさらっと言った。
「え、美咲も食べなよ」
「大丈夫、大丈夫。そんなお腹もすいてないし」
華とひなが一個ずつ取った。凛の分、一個が残る。
ひなが手に取ってから、遼がこちらを見ていることに気づく。
「あ、あの、いただきます」
「どうぞ」
遼はまた作業に戻った。
ひなはプリンを持ったまま、しばらく立っている。
固まっていた自分に対して、ただ「どうぞ」。気を遣った様子もなく、特別扱いもなく、ただ普通に。
それが、なんかいい。
テーブルに戻った。華とひながプリンを食べる。美咲はお茶を飲みながら混ざっている。
美咲が華に「春を告げる鐘って、もうすぐクランクアップなの?」と聞く。「まだもう少しある! でも終わりに近づいてきた感じはする」と華。撮影の話になると華の顔が少し変わる。真剣になるというか、目の奥が深くなる感じ。ひなはそれをいつも面白いと思っている。
遼は向こうで作業中。
「遼さんって映画見に行ったりしますか」と美咲が向こうに向かって聞いた。
「あまり」
「華さんが出てる映画は?」
「出たら見ます」
「わあ、いいじゃないですか」
「普通のことなので」
華が「普通か〜」と笑った。
ひなは笑いながら、遼の後ろ姿を見ていた。
作業台に向かって、背筋がまっすぐ。さっきと同じ集中の顔。美咲がいくら話しかけても、華がプリンを食べていても、何も乱れない。ここが遼の場所で、ここでこうしているのが遼という人間で——それが全然変わらない。
好きになる要素が多すぎる、とひなは思った。思ってから、頭の隅に押し込む。
「遼さん、何か手伝えることあります?」
気づいたら口から出ていた。
遼がこちらを向く。
「……手先は器用ですか」
「え、どのくらいが必要ですか」
「細かい作業ができれば」
「やってみます」
華と美咲が、同時に「ひな……」という顔をした。ひなは「普通に聞いただけ」という顔を作る。
遼が「じゃあこれ」と言って、細い綿棒のようなものと小さなケースを渡してきた。
「これで接点を拭いてください。力を入れすぎないで、一方向に」
「分かりました」
「壊れても弁償しなくていいので」
「……弁償しなくていいんですか」
「これは不要品なので」
「そうなんですか」
「練習用に余ってたやつです」
なんかそういうところが、とひなは思った。
練習用に余ってたやつを、ちゃんと「弁償しなくていい」と言う。気遣いなのか普通なのか判断できない。でも、言ってくれる。
綿棒を受け取って、言われた通りにやってみた。
遼が隣で見ている。
距離が近い。
近いというか、技術的な確認のために近いのは分かっている。分かっているが、近い。
「そうです。力はそのくらい」
「……これで合ってますか」
「合ってます」
合ってる、と言われた。
ひなは無言のまま、一方向に、静かに綿棒を動かした。
美咲は、少し離れた場所でその一部始終を見ていた。
華と並んでソファに座って、お茶のコップを両手で持ちながら。
ひなが、遼の隣で黙々と作業している。
遼も、遼で、普通に作業中。ひなのことを「華の友達が手伝いを申し出た」以上の何かとして認識していない。それが遼という人間だというのは、一時間もいれば分かる。
(ひな、好きな人の隣でドキドキしながら部品磨いてる……)
美咲はスプーンを置いた。
「大変だな」でもあるし、「楽しそうだな」でもある。どっちが多いかというと、たぶん今のひなには楽しそうな方が多い。部品磨き、普通に楽しそうにしている。遼に「合ってます」と言われてから、明らかに顔が少し明るくなった。
おめでたい。愛おしい。
美咲は華の方を向いた。華が「何?」という顔をしている。
何でもない、というように笑って、また前を向いた。
華はまだ気づいていない。それでいい。
そこに、ドアが開いた。
「ただいま——何事!?」
凛が帰ってきた。
リビングを見渡す。見知らぬ二人。テーブルに並んだ部品。華がプリンの空き容器を持っている。
「あ、凛さんお帰りなさい! 遠藤美咲です、初めまして!」
「……初めまして」
「プリン、凛さんの分ちゃんと残しておきましたよ!」
「え」凛の顔が少し変わった。「残してくれたの?」
「一個残ってます」
「……ありがとう」
華が「美咲がとっておこうって言ってくれたんだよ」と言った。凛が美咲を少し見る。値踏みするというより、確認するような目。
「優しいね」
「華ちゃんのお姉さん、素敵ですね」
「……どうも」
凛が荷物を置きながら、ひなの方を見た。
「あなたは?」
「佐倉ひなです。何度か来たことあります」
「ああ、華の友達の」
「はい」
「遼の隣で何してるの」
「接点を拭いてます」
凛が遼を見た。
「人に仕事させてる」
「頼んできたので」
「まあいいけど」
凛は冷蔵庫を開けて、プリンを取り出した。食べながらソファに倒れ込む。
「撮影、今日長かった?」と華が聞いた。
「長かった。でも終わった」
「お疲れ」
「ありがとう」
凛がプリンを食べている。美咲がその横に座って「凛さんって家でもああいう感じなの?」と華に小声で聞いた。華が「うん」と答える。「なんか、すごく落ち着いてる」「家にいるとかなり素だよ」「へえ」
凛が「聞こえてる」と言った。
美咲が「すみません!」と謝った。
凛が少し笑う。
「華の友達ならいいよ。うるさくしてくれた方が楽」
「うるさくしますね!!」
「そんなに元気じゃなくていい」
華が「美咲ちゃんはいつもそんな感じ」と説明した。
ひなはその会話を聞きながら、作業を続けていた。
接点が一個、きれいになった。遼が「次はこれ」と別のものを渡してくる。
「上手ですね」
「……ほんとですか」
「力加減が安定してます」
また褒められた。
ひなは綿棒で接点を磨きながら、じわじわと「この空間にいていいんだ」という感覚になっていた。
好きな人の隣で、何か手伝えることをやっている。遼はひなのことを「華の友達」として扱っていて、それ以上でもそれ以下でもない。遼の視点ではそれが全て。
でも、この隣。
この、しんと静かな作業の隣が、今ものすごく好きだ。
(なんでこんなに落ち着くんだろ)
落ち着く理由は分かっている。分かっているが、分かっていても落ち着く。
リビングでは、華と美咲と凛の会話が続いている。
遼の作業台の前は、静かだ。
ひなが綿棒を動かす音と、遼がピンセットを使う音だけ。
「これも終わったら今日の作業は終わりなので」と遼が言った。
「頼んでしまってすみませんでした」
「いえ、手伝いたくて言ったので」
「そうですか。……ありがとうございます」
ひなは手元を見た。
自分が磨いた接点の列。ちゃんと並んでいる。
「上手くできましたか」
思わず聞いた。
「上手くできてます」と遼が答えた。
「……よかった」
声が少し小さくなった。自分でも分かった。でも、よかった。本当によかった、と思った。こんな小さなことで、こんなに嬉しいのか、という気持ちと一緒に。
夕方、帰る時間になった。
「また来てもいいですか」と美咲が華に聞いた。華が「いつでも来て!」と言った。
凛が「来てもいいけど遼は相手できないと思うよ」と言った。
美咲が「大丈夫です、遼さんの隣で作業するだけで十分なので」と答えた。
遼が「そうですか」と言って基板に向かった。
凛が「……なんかいろいろ大丈夫か」と小声で言った。華が「なんのこと?」と聞いた。凛が「なんでもない」と言った。
ひなは靴を履きながら、リビングの方を見た。
遼は作業を再開している。
「ありがとうございました」とひなが言った。
「どうぞまた来てください」と遼が答えた。
短い言葉。でも、ちゃんと言ってくれた。
マンションを出て、駅に向かう道。
美咲が歩きながら「どうだった」と聞いた。
「どうって」
「柊家」
「楽しかった」
「そうじゃなくて」
「……楽しかった」
美咲が「そっか」と言って、少し笑う。
「応援するから」
「何を」
「分かるでしょ」
ひなは少し黙った。
「……分かる」
「うん」
「でも、華ちゃんの」
「分かってる」
「難しいよ」
「分かってる」
美咲は「分かってる」を繰り返した。でも否定はしない。応援する、も撤回しなかった。
夕暮れの東京。
ひなはスマホを取り出して、通知を確認した。何もない。
通知がないのに見た理由は自分でも分からない。
「また来よ」と美咲が言った。
「来る」とひなが答えた。
その一言で、今日のことが、少し完結した気がした。
同じ夕方、柊家のリビング。
遼が作業を終えて、部品を片付けている。
「今日の子たち、また来るの?」と凛が聞いた。
「来るって言ってたから、来るんじゃないか」
「なんで遼に言ったの」と華が聞いた。
「特に意図はない」
「来たら来たで」
凛が華を見た。華が凛を見た。
「遼、佐倉さんが好意を持ってることに気づいてる?」
凛が聞いた。
「華の友達の」
「そう」
「……知らない」
「知らないか」
「普通に友達として来てると思ってたけど」
「まあ……そういうことにしておこうか」
凛がソファに倒れ直した。
遼は片付けを終えて、プログラムの作業に戻った。
華は「え、なんか私知らない話してた?」と両者を見た。
「なんでもない」と凛。
華は「え〜」と言いながらも深追いしなかった。
引き際が早い。この三兄妹の中で距離の測り方が一番上手いのは案外華だ。
遼はモニターに向かいながら、少し考えた。
ひなが手伝いを申し出たとき、力加減が安定していた。褒めたら、声が少し小さくなった。
……まあ、よく分からない。
作業に戻った。




