「桜井詩織、秋葉原に行く」後編
路地に伝説が生まれた。
その日の夕方から、電子部品街の古参たちの間でこんな話が広まっていた。
「聞いた? サイバーさん、彼女がいるらしいよ」
「マジで?」
「海外の観光客が囲んだやつを、割り込んで守ったって」
「それ確か見てた。路地の奥で」
「黒髪の綺麗な子だった。サイバーさんと並んで歩いてたよ」
「幼なじみって言ったって聞いたけど」
「でも彼女って言ったって話もある」
「どっちなの」
「どっちでもいいでしょ、サイバーさんが守ったんだから」
当事者二人は、そのとき九軒目の部品屋にいた。
遼はレジスターの棚を見ていた。
詩織は少し離れた場所で、棚の端に積まれている部品のサンプルを見ていた。小さな透明のケースに、さらに小さな金属の粒が入っている。何かよく分からないが、精密なものが入っているのは伝わってくる。
先ほどのことは、もう考えないことにした。
考えても、答えが出ない。
遼は「早く追い払える言葉を選んだ」と言った。それが事実だ。詩織が「でも、もしかして」と考え始めたら、それは詩織の都合のいい解釈だ。小学生のころからずっと、都合のいい解釈をしすぎて何度か自爆してきた。今日はしない。
今日は、ここにいる。遼の横にいる。
それで十分だ。
「詩織」
「うん」
「疲れた?」
振り返ると、遼がこちらを見ていた。
「疲れてない」
「さっきから動いてないけど」
「見てた、部品を」
「分かる?」
「全然」
「そうか」
遼が棚に向き直ろうとした。
「でも、なんかきれいだと思って」と詩織が言った。
「何が」
「小さいの全部。精密で」
遼が少し止まった。
「……そうかもしれない」
「遼にはきれいとかじゃなくて、用途で見えてるんだよね」
「用途もあるけど、きれいはきれいだと思ってる」
「思ってるの」
「積層セラミックコンデンサとか、小さい方が容量大きかったりするから、なんかいいなと思う」
「小さい方が大きい」
「そういうことがある、たまに」
詩織は「そうか」と思った。
遼がきれいだと思っているものを、詩織も少しきれいだと思った。同じ感想に至ったのが、少し嬉しかった。
十軒目を出たところで、遼が「今日はこれで終わり」と言った。
エコバッグの中身が増えていた。
「全部買えた?」
「必要なのは買えた。あと二、三個足りないけど、次来たときでいい」
「また来るの」
「来る。月に一回か二回くらい」
「毎回この量買うの?」
「その日によって違う」
詩織は「そうか」と思いながら、遼のエコバッグを見た。
「持とうか」
「いい。ありがとう」
ありがとう、と遼が言った。
詩織はその「ありがとう」をしばらく頭の中に置いた。遼が「ありがとう」と言うのは、珍しいわけじゃない。でも今日は少し、ちゃんと聞こえた気がした。
帰り道に、PC坊主の店に寄った。
遼が「コーヒーもう一杯飲む」と言ったので、詩織もついて行った。
店に入ると、PC坊主がカウンターで何かを読んでいた。二人を見て、本を置いた。
「終わったか」
「終わりました」と遼が言った。
「今日は早いな」
「必要なのは揃ったので」
コーヒーが二杯出てきた。
詩織は「ありがとうございます」と言ってカウンターに座った。
PC坊主が詩織を見た。サングラスの奥で、何かを確認するような目の動きがあった。
「幼なじみ、って言ってたな」
「はい」
「何年になる」
「十七年くらいです」
「長いな」
「小学生のころからなので」
PC坊主が遼を見た。遼はコーヒーを飲みながら、今日買った部品のレシートを確認していた。
「この子、よく来てたか?」とPC坊主が遼に聞いた。
「詩織が?」
「アキバに」
「来てなかったと思う。今日初めてじゃないか」
「そうか」とPC坊主が詩織に言った。「初めてか」
「はい」
「どうやった」
「全然分からなかったです」
「部品が?」
「全部」
「遼の方も?」
「遼の方は……」
詩織は少し考えた。
「遼が楽しそうだったので、それは分かりました」
PC坊主がコーヒーを一口飲んだ。
「遼、楽しそうやったか?」
「俺は普通でしたけど」と遼が言った。
「普通でしょう」とPC坊主が言った。「あんたにとって楽しいは普通やから」
遼は「そうですか」と言った。
「傍から見たら楽しそうに見えるんだよ」と詩織が言った。
遼が詩織を見た。
「そうか」
「目が違う、部品見てるとき」
「そうかな」
「そうだよ。高校のとき、放課後に理科室でソレノイドコイル巻いてたとき、同じ顔してた」
遼は少し間を置いた。
「……覚えてるの」
「覚えてる」
「そんな昔のこと」
「覚えてる」
遼はコーヒーを飲んだ。
PC坊主がカウンターの下で何かをしていた。会話を聞いていないふりをしていたが、口元が少し動いていた。
店を出て、駅に向かって歩いていた。
夜になっていた。中央通りのネオンが明るい。観光客と地元の人間が混ざって歩いている。遼はエコバッグを持って、詩織の少し前を歩いていた。
「遼」
「うん」
「さっきのことなんだけど」
「どっちの?」
「海外の人たちのやつ」
「ああ」
遼が少し速度を落とした。詩織と並ぶ形になった。
「本当は幼なじみだけど、って言ってたよね」
「言った。説明するより早い言葉を選んだので」
「うん」
「正確じゃなかった。ごめん」
「いや、謝らなくていい」
「困った?」
「困ってない」
「そうか」
遼はまた前を向いた。
詩織は遼の横顔を見た。
困ってない、というのは本当だった。困っていない。ただ、整理ができない。遼が「Yes」と言った瞬間のことが、頭の中で何度も再生される。遼は普通の顔をしていた。躊躇もなかった。追い払うための言葉だと分かっている。分かっているのに。
「また来るかもしれない」と遼が言った。
「アキバに?」
「詩織が来たいなら」
「……遼は?」
「俺は来るから、どうせ」
「それは一緒に来てもいいってこと?」
「来たければ来ていい」
詩織は少し笑った。遼からの誘い文句としては、これで十分だった。十分以上だった。
「次もついていく」
「分かった」
遼はそれで話が終わったと思っているらしく、またエコバッグの中身を確認するように持ち直した。
詩織は並んで歩きながら、「サイバーさんの彼女」という言葉を思い出した。
界隈ではそういう話になっているらしい。
なっているらしいが、事実とは違う。
でも次もついてくることになった。
その事実だけは、今日確かに起きた。
翌日。
電子部品街の古参たちの間で、昨日の話がまだ続いていた。
「サイバーさんの彼女、綺麗な人だったよな」
「黒髪のセミロングの子でしょ」
「部品屋を全部ついて回ってたみたいだよ」
「詳しいの?」
「全然分からなかったってPC坊主から聞いた」
「PC坊主、喋ったの?」
「常連に少し言ってたらしい」
「でも一緒に来たってことは、そういうことでしょ」
「まあ、そうかな」
「サイバーさんが彼女を連れてきた。それでいいんじゃない」
そのころ詩織は自室で、「さいばーさんのかのじょ」という文字を頭の中で何度も繰り返していた。
事実ではない。
事実ではないのだが、遼が「Yes」と言ったのは事実だ。
早く追い払うための言葉だったのも事実だ。
でも。
詩織はノートを開いた。読んでいた本の続きを読もうとした。ページが進まなかった。
また来ていい、と言われた。
来たければ来ていい、と。
それは遼らしい言い方で、遼以外がその言い方をしたら少し冷たいが、遼が言うと違う意味になる。遼が「来ていい」と言うとき、それは「来てほしい」に近い。小学生のころから遼を見ていたから、詩織にはそれが分かる。
分かる。
分かるのだが。
詩織はノートを閉じた。
スマートフォンを見た。遼からLINEは来ていない。
来るわけがない。遼は今ごろ、昨日買ってきた部品で何かを作っている。サイバーさんの彼女などという話は、遼の頭の中に一欠片も残っていない。
それが遼だ。
それが遼なのだ。
詩織は「ままならないな」と思いながら、また本を開いた。
今度はページが進んだ。
少しだけ、進んだ。




