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姉と妹が国民的女優ですが、俺は機械をいじっていたい  作者: よんまるよん
第二部「世界が広がっている」

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SILENT AEGIS ──TechVision特殊部隊、東京作戦記録──第二話「SIX PEOPLE」

 六月。

 午前一時五十三分。


 みなとの、別のビル。


 同じ通りを二本入った先の、これまたどこにでもある雑居ビルの四階。

 「株式会社TGSアドバイザリー」——入口のプレートにはそう書いてある。警備コンサルティング会社。クライアントは法人のみ。ウェブサイトはあるが中身が薄く、問い合わせフォームのメールアドレスだけが貼り付けてある。


 TechVision Security Division、東京支局。

 通称、ECHOチーム。


 平時は六人が、この四階のフロアで活動している。

 フロアの中身は、外から想像できるものとは少し違う。

 オフィスチェアはある。デスクもある。コーヒーメーカーもある——ただしロバートが買った業務用の大型機で、一般的な警備会社には似つかわしくない。壁の一面に大型のモニターが四枚並んでいる。奥に小さな会議室。その隣に、鍵付きのロッカーが六列。ロッカーの中身については、書かない方がいいだろう。


 ヴィクター・ライは、河野からのメールを読み終えてから、六人に連絡を入れた。

 文面は短かった。


 「ASAP。四階。」


 以上だった。


   


 最初に来たのはエリック・ソウザだった。


 午前二時三分。

 ドアを開けた瞬間、コーヒーメーカーに直行した。

 185センチの体格に似合わない、静かな足音だ。軍隊で十年以上、音を立てないことを叩き込まれた人間の歩き方をしている。


 エリック・ソウザ、三十六歳。ブラジル系アメリカ人。

 元MARSOC《※1》——海兵隊特殊作戦軍の出身だ。アフガニスタンに二回、イラクに一回。直接行動作戦《※2》を専門とし、ブリーチング《※3》と爆発物処理(EOD《※4》)に習熟している。

 体格は大きい。94キロ。肩幅が広く、首が太い。だが動きに角がない。あれだけの体が、ほとんど音を立てずに移動する。


 ※1【MARSOC(Marine Raiders)】アメリカ海兵隊特殊作戦軍。正式名称はUnited States Marine Corps Forces Special Operations Command。海兵隊の中でも特に選抜された隊員で構成される特殊部隊。


 ※2【直接行動作戦(Direct Action)】特殊部隊が直接目標を攻撃・制圧・捕獲する作戦様式。狙撃・突入・破壊工作などを含む。


 ※3【ブリーチング(Breaching)】ドアや壁などの障害物を強制的に突破する技術。爆発物・油圧工具・散弾銃などを用いる方法がある。


 ※4【EOD(Explosive Ordnance Disposal)】爆発物処理。不発弾・IED(即席爆発装置)・手榴弾などを安全に処理する専門技術。


「ヴィクター、何が出ましたか」


 コーヒーを注ぎながら聞く。振り向かずに。


「河野さんのレポートを待っています。来たら全員に共有します」


「おおよそ、どんな案件ですか」


柊家ひいらぎけの関係者が、Ouroborosの通信に出ました」


 エリックが少し間を置いた。


「……柊家、ですか」


 エリックがコーヒーカップを持って振り返った。


「有名な家族ですね」


「TechVisionにとっては重要な関係者です」


「守ります」


「そうしてください」


 エリックはカップを持ったまま、自分のデスクに着いた。


   


 次に来たのは鮎川あゆかわしょうだった。


 午前二時七分。

 ドアを開けて、エリックを見て、ヴィクターを見て、何も言わずに自分のデスクに着いた。


 鮎川翔、三十一歳。日本人。

 元海上自衛隊特別警備隊(SBU《※5》)の出身だ。海自の中でも最精鋭の部隊で、人質救出・テロ対処・艦船臨検などを専門とする。在籍中、狙撃の適性評価で部隊内最高スコアを出した。

 細身だ。73キロ。特殊部隊員に見えない体格をしている——が、体幹の強さが異常だ。立っているときも座っているときも、芯の部分が揺れない。


 ※5【SBU(Special Boarding Unit)】海上自衛隊特別警備隊。2001年9月に設置された海自最精鋭の特殊部隊。不審船対処、海賊対処、人質救出などを任務とする。選抜・訓練の厳しさは陸上自衛隊の特殊作戦群と並ぶとされる。


 鮎川が口を開いたのは、着席してから二分後だった。


「柊、ですか」


「そうです」


「……了解しました」


 会話が終わった。

 鮎川は端末を起動して、天気アプリを開いた。東京の翌朝の気象データを見ている。風速、湿度、気温。何かのためのデータだ。


 エリックが小声でヴィクターに言った。

「鮎川さん、もうスコープの準備してますよ。たぶん」

 ヴィクターは答えなかった。


   


 サラ・キムは午前二時十一分に来た。


 ラップトップを二台抱えて入ってきた。片方は個人用、片方は業務用だ。いつも両方持ち歩く。それぞれの用途が厳密に分けられていて、絶対にケーブルを繋がない。物理的に分離することがセキュリティの基本だという考え方を、彼女は字義通りに実践している。


 サラ・キム、二十九歳。韓国系アメリカ人。

 元NSA《※6》サイバーオペレーション部門の出身だ。NSAに入ったのは大学院修了後。専門は通信傍受と電子妨害。現場での武器はGlockグロック19——ただし「使わないのが仕事」と本人は言っている。実際、これまでの作戦で一度も使っていない。


 ※6【NSA(National Security Agency)】アメリカ国家安全保障局。通信・電子情報の収集・分析を専門とする情報機関。CIAが人的情報(HUMINT)を担うのに対し、NSAはSIGINT(通信・電波情報)を主戦場とする。世界最大規模の諜報機関の一つ。


「河野さんのレポート、私にも転送してください」


 着席しながら言った。挨拶より先だった。


「まだ来ていません」


「来たら即時で」


「わかりました」


 サラはラップトップを二台並べてセットアップを始めた。接続、認証、ウィンドウの配置——手順が決まっていて、毎回同じ順番でやる。儀式に近い。


 エリックが「サラ、コーヒーいる?」と聞いた。


「いらない。眠れなくなる」


「何時間寝たんですか」


「三時間半」


「俺は二時間」


「それは自慢にならない」


「自慢してません」


 鮎川が天気アプリを見たまま言った。

「明日の朝、風は北北西から三メートルです」

 誰も返事をしなかった。


   


 マルクス・ヴォルフが来たのは午前二時十七分だった。


 ドアを開けた瞬間、部屋の空気が少し変わった。

 大きい。190センチ、96キロ。金髪の短髪。スラブ系の骨格に、ゲルマン系の端正さが混在している顔つきだ。動きは重力に逆らっている印象がある——あれだけの体が、なぜそんなに静かに動くのかという。


 マルクス・ヴォルフ、四十歳。ドイツ人。

 元KSK《※7》——ドイツ陸軍特殊部隊の出身だ。専門は戦術車両運用とCQB《※8》。格闘術はドイツ式システマ《※9》を習得している。


 ※7【KSK(Kommando Spezialkräfte)】ドイツ連邦陸軍特殊部隊。1996年設立。NATOの特殊作戦において中核的な役割を担う。選抜過程は欧州でも最難関のひとつとされる。


 ※8【CQB(Close Quarters Battle)】近接戦闘。屋内・狭所での10メートル以内の交戦を前提とした戦術体系。銃の構え方、移動方法、チームの動きすべてが通常の野外戦闘とは異なる。


 ※9【システマ(Systema)】ロシア軍特殊部隊が開発した戦闘術。柔軟な動きと呼吸法を組み合わせ、相手の力を利用して制圧する。ドイツ軍はこれを独自に改良して採用している。


 マルクスはコーヒーメーカーの前に立って、エリックのカップを見た。


「エリック、何杯目ですか」


「一杯目」


「いつもより少ない」


「まだ来たばかりです」


 マルクスは自分のカップに注いで、冷蔵庫を開けた。何かを探している。


「ヴィクター、チョコレートはどこですか」


「買っていません」


「……」


 マルクスは冷蔵庫を閉めた。

 チョコレートがないことを確認してから、自分のデスクに着いた。

 以上だった。


   


 最後に来たのはジュリア・ファレオロだった。


 午前二時二十一分。

 ポニーテールを結びながら入ってきた。歩きながら結んでいる。両手を頭の後ろに回したまま、まっすぐ歩く。


 ジュリア・ファレオロ、三十四歳。サモア系ニュージーランド人。

 元NZSAS《※10》の衛生兵だ。SASの中でも衛生兵は特殊な位置づけで、戦場での外科処置から尋問補助、後方安全確保まで幅広く担う。武器はMP5SD《※11》とGlock17。声が大きい——ただし、手術中だけは怒鳴らない。


 ※10【NZSAS(New Zealand Special Air Service)】ニュージーランド陸軍特殊空挺部隊。英国SASを範とした精鋭部隊で、東ティモール・アフガニスタンなどに展開した実績を持つ。規模は小さいが質は世界水準とされる。


 ※11【MP5SD】H&K(ヘッケラー&コッホ)社製のサブマシンガン。SDはSchalldämpfer(ドイツ語でサイレンサー)の略。銃身にサプレッサーが内蔵されており、9mm弾を使用しながら発射音を大幅に抑えられる。屋内制圧に適した銃器。


「全員いますね」


 ポニーテールを結び終えてから、部屋を見回して言った。


「はい」とヴィクターが答えた。


「河野さんのレポートはまだですか」


「もうすぐです」


「じゃあコーヒー飲みます。マルクス、チョコレートないの?」


「ない」


「なんで」


「ヴィクターが買っていない」


「ヴィクター、チョコレートは必要です」


「作戦に必要ですか」


「集中力に必要です」


「買っておきます」


「今すぐじゃなくていいけど」


 ジュリアはコーヒーを注いで、マルクスの隣に着席した。


 六人が揃った。


   


 午前二時二十八分に、河野からのレポートが届いた。


 ヴィクターが全員の端末に転送した。

 部屋が静かになった。六人がそれぞれの画面でレポートを読む音——キーボードのスクロール、マウスのクリック。それ以外の音がなくなった。


 三十七ページ。

 ヴィクターは読むのが速い。七分で終えて、残りの全員が読み終わるのを待った。


 最後に顔を上げたのはエリックだった。


「……Ouroborosが柊を狙っている、ということですか」


「現時点では、そう読めます」とヴィクターが答えた。「ただし確証はまだ状況証拠の段階です」


「『柊』という名前が平文で出た。コードトークのパターンに混じって」


「はい。前後の文脈は暗号化されていて、夏目さんが現在解析中です」


「人員確認のコードが八、ということは——」


「実行部隊が八名という推測が成立します」


 エリックがコーヒーカップをデスクに置いた。


「八名」


「はい」


「こちらは六人です」


「知っています」


 鮎川が天気アプリから目を離して言った。


「不利ではありません」


 全員が鮎川を見た。

 鮎川は続けた。


「奇襲と制圧のタイミングを取れれば、数の差は関係ない。彼らは犯罪組織の実行部隊です。正規の特殊部隊ではない。動き方が違います」


「鮎川さんの言う通りです」とヴィクターが言った。


「でも」とサラが口を開いた。「まだ実行まで時間があります。今夜の段階でやることを整理したい」


「そのためにここに集まっています」


 ヴィクターは立ち上がって、ホワイトボードに向かった。


 マーカーを取って、一行書いた。


 「HIIRAGI」


 マーカーを置いた。


「今夜から七十二時間以内に、この名前を守ります。守り方は一つ——相手が動く前に、相手を潰す。先手。制圧してから連絡。これ以外の選択肢はありません」


 部屋が静かだった。


「質問は」


 エリックが手を挙げた。


「クライアントへの報告は」


「ロバートさんには私から入れます。デイビッドへの報告はロバートさんが判断します」


「柊家への通知は」


「しません」


「……しない、というのは」


「彼女たちは何も知らない。知る必要がない。知らないまま終わらせます。それが仕事です」


 エリックは少し間を置いてから、「わかりました」と言った。


 ジュリアが「チョコレートがあれば気合いが入るんですが」と言った。

 誰も笑わなかったが、部屋の空気が少しだけ軽くなった。


   


 ブリーフィングが始まった。


 ヴィクターが仕切る。

 河野のレポートをベースに、現時点で判明していることと、判明していないことを分けて整理していく。


「判明していること——相手はOuroborosの傘下組織。笠置文雄の関連法人が回線を持っている。実行人員は推定八名。計画の一部にコードトークが使われている。岸谷冬馬が関与している可能性がある」


「判明していないこと——実行日時。実行場所。目的の詳細。笠置とクルスの現在の所在」


「サラ」


「はい」


「明日の朝から、笠置の関連法人の物件リストを洗ってください。集合場所と実行拠点の候補を絞り込みます。OSINT《※12》でできる範囲から始めて。法人登記、不動産の賃貸記録、建築確認申請書——公開されているものは全部使います」


 ※12【OSINT(Open Source Intelligence)】公開情報収集。SNS、ニュース、法人登記データベース、地図情報、行政文書など、一般に公開されている情報を組み合わせて諜報活動を行う手法。現代の情報戦において最も基本的かつ重要な技術のひとつ。


「了解。法務局のデータベースとGoogleストリートビューと、あとは——」


「全部使っていい」


「全部、というのは」


「全部です」


 サラが少し間を置いてから「了解」と言った。それ以上聞かなかった。


「エリック、マルクス」


「はい」


「明後日以降、現地偵察に入ります。場所が特定できたら、すぐに動ける準備をしておいてください。ブリーチングの機材チェックも今日中に」


「ブリーチングは爆発物系で行きますか、それとも機械式ですか」


「状況次第です。ただし都市部の想定なので、音と破片の制御は優先します」


「C2の小量使用か、油圧式か」


「エリックの判断に委ねます」


「わかりました」


 エリックとマルクスが目を見合わせた。

 長い付き合いの人間同士の、言葉のいらないやり取りだった。


「鮎川さん」


「はい」


「狙撃陣地の選定は、場所が固まり次第。今夜は気象データと地図の確認で構いません」


「すでに東京都内の主要エリアの風向データを取り始めています」


「助かります」


 鮎川は何も言わなかった。


「ジュリア」


「はい」


「医療キットの点検と補充。それと——今回の作戦、負傷者が出た場合の後方搬送ルートを考えておいてください。近隣の病院の受け入れ体制も」


「都内ですか」


「都内です。ただし場所はまだ特定できていません」


「都内全域で候補を出しておきます。搬送手段は車でいいですか」


「車です。ただしECHO名義の車両は使えません。別の調達を考えます」


「レンタカーですか」


「法人名義で借ります。TSGの別名義で取れます」


「了解しました」


 ジュリアはメモを取りながら頷いた。

 手術中と同じ、落ち着いた顔をしていた。


   


 ブリーフィングが一区切りついたのは午前三時を過ぎた頃だった。


 ヴィクターが「以上です。質問は」と言った。


 エリックが手を挙げた。


「一つだけ」


「どうぞ」


「柊家は、本当に何も知らないんですか」


「知らないです」


「凛さんも、華さんも」


「誰も」


 エリックは少し考えてから言った。


「……普通に生活しているんですね。今も」


「はい」


「それを守るために、俺たちは今夜からここで動いている、と」


「そうです」


 エリックはコーヒーカップを見て、少し黙ってから言った。


「悪くないですね、そういう仕事」


 ヴィクターは何も言わなかった。


 サラが「センチメンタルな話は後にしましょう」と言った。


「同意です」とマルクスが言った。


「チョコレートがあれば、もっと集中できるんですけど」とジュリアが言った。


「買います」とヴィクターが言った。「明日の朝」


「今夜じゃなくていい」


「今夜のコンビニは遠い」


「別に急いでない」


 鮎川が端末から顔を上げた。


「コンビニなら二百メートル先にあります」


「……鮎川さん、なんで知ってるんですか」


「偵察です」


 エリックが「偵察の定義が広い」と言った。


   


 それぞれが持ち場の準備に入った。


 サラは二台のラップトップを並べて、データベースへのアクセスを始めた。法務局の法人登記情報から、笠置文雄と関連する名前を洗い出す作業だ。網の目を広げていく。一つの名前から、次の名前へ。法人から法人へ。住所から住所へ。


 エリックは機材ロッカーを開けて、ブリーチング用の器具を確認していた。油圧スプレッダー、ハロゲン電動ソー、C2爆薬《※13》の残量。一つずつ確認して、足りないものをリストアップした。


 ※13【C2爆薬】軍用塑性爆薬の一種。粘土状で任意の形に成形できる。C4の同系統で、起爆には電気式雷管が必要。ドアの蝶番や錠前を精密に破壊するのに使われる。適切に使えば、破片と爆風の範囲を最小限に制御できる。


 マルクスはホワイトボードに向かって、東京都内の主要道路網を書き始めた。作戦車両の進入ルートと退避ルートを、複数パターン考えておく。地図アプリは使わない。頭の中に叩き込む。それがマルクスの流儀だった。


 鮎川は気象データを確認しながら、ノートに数字を書いていた。手書きだ。デジタルに残さない情報がある。狙撃の計算は特に。


 ジュリアは医療キットを広げていた。止血帯《※14》、胸部シール《※15》、コンパックガーゼ《※16》——一つずつ確認して、使用期限を見て、予備の数を数えた。


 ※14【止血帯(Tourniquet)】四肢の出血を制御するための医療器具。正しく使えば大量出血による死亡を防げる。特殊部隊では全員が使い方を習得している。


 ※15【胸部シール(Chest Seal)】開放性気胸(胸に穴が開いた状態)に対応するための処置用具。穴を密閉して肺の虚脱を防ぐ。銃創への応急処置で使用される。


 ※16【コンパックガーゼ(Combat Gauze)】止血剤が含浸された特殊なガーゼ。深い銃創や刺傷に詰め込んで止血する。現代の戦場医療における標準装備の一つ。


 ヴィクターは一人、ホワイトボードの前に立ったまま、何かを考えていた。


 「HIIRAGI」という文字を見ていた。


 この名前が何を意味するか——技術的な側面でも、組織的な側面でも、それは把握している。TechVisionにとって重要な関係者だ。CEOが個人的に動く程度の重要性を持つ。


 だが、それとは別の理由で、ヴィクターはこの件に集中していた。


 この仕事を始めてから十二年になる。守る対象は法人であることが多い。資産、情報、施設——そういうものを守る依頼が大半だ。人間を守る仕事は、それとは少し違う。人間は動く。予測できない動きをする。しかも今回の対象は、自分たちの存在を知らない。


 守られていることを知らない人間を守る。


 それがこの仕事の、最も静かな難しさだとヴィクターは思っている。


 盆栽に水をやることを思い出した。

 今朝はまだやっていない。

 事務所の窓際に、十七鉢ある。


 明日の朝、動く前にやれるだろうか。


 たぶん、大丈夫だ。


   


 午前三時四十分。


 サラが顔を上げた。


「ヴィクター」


「何ですか」


「笠置の関連法人、荒川区と足立区に物件が三つあります。うち一つ——足立区の倉庫、これ、賃貸契約が今年の一月に更新されています。直前に更新した理由が見当たらない。空き物件として出ていたのに」


「面積は」


「延べ床面積、約二百八十平米。鉄骨造、二階建て。用途は倉庫。でも周辺の同規模物件と比べて、賃料が二割ほど高い」


「高い賃料で借りている」


「はい。普通の使い方なら割に合わない賃料です。でも——」


「何かを置く必要がある用途なら、話は別です」


「そうです。それと——」


 サラが少し間を置いた。


「実は半月ほど前から、Ouroborosの傘下法人の動きが変だと思って追っていました。物件の短期移動、人員のパターン変化。今回の件とは別に、何かを準備している気配があった。目的は今も分かっていませんが——その調査をしていたおかげで、笠置の物件リストと岸谷の端末パターンは既に手元にありました」


 ヴィクターが少し間を置いた。


「それは今夜、初めて聞きました」


「報告できる形になってから上げようと思っていました。今夜、繋がりました」


 ヴィクターは何も言わなかった。

 数秒の沈黙の後、「続けてください」と言った。


 ヴィクターはサラを見てから、全員を見た。


「候補地、一番手。足立区の倉庫。明後日、エリックとマルクスが現地確認に入ります」


「了解」とエリックが言った。


「鮎川さん、周辺の地形を」


「今、地図を見ています」


 鮎川は既に地図アプリを開いていた。衛星写真と航空写真を切り替えながら、周辺ビルの高さを確認している。


「倉庫の北側、百八十メートル先に六階建てのビルがあります。屋上から正面が取れます」


「高さは」


「約二十一メートル。方位角から見て、問題ありません」


「風は」


「北北西三メートルなら、三百メートルで修正値は一センチ程度です。問題ない」


 エリックが「鮎川さん、まだ行ってもないのに」と言った。


 鮎川は答えなかった。


 マルクスが言った。


「行ってからでも同じことを言うでしょう」


「たぶん」とエリックが言った。


   


 部屋の外が、少しずつ明るくなり始めていた。


 六月の東京の夜明けは早い。

 午前四時を過ぎると、窓の外の黒が群青になり、群青が灰色に変わっていく。


 エリックが伸びをしながら言った。


「ヴィクター、今日の朝ごはん、どうしますか」


「各自でどうぞ」


「コンビニですかね」


「そうなるでしょう」


「マルクス、何食べますか」


「おにぎりとサンドイッチ」


「両方ですか」


「足りないので」


「……そうですね、大きいから」


 鮎川が言った。


「コンビニに行くなら、チョコレートを」


「え、鮎川さん食べるんですか」


「ジュリアが欲しいと言っていました」


 ジュリアが「ありがとう、鮎川」と言った。


 サラが「朝ご飯より作業の続きをしましょう」と言った。


「サラさん、人間は食べないと動けません」とマルクスが言った。


「私はあと二時間は大丈夫」


「それは人間の基準から外れています」


「集中していると忘れるだけです」


 ヴィクターは窓の外を見た。


 東京の夜明け。

 このビルから見える範囲に、柊という名前の人間が眠っているはずだ。どこかのマンションの部屋で、何も知らないまま。

 あと数日で何かが動こうとしている。

 その何かを、今夜から動いている六人が止める。


 「HIIRAGI」という文字が、ホワイトボードに書かれたまま残っている。


 ヴィクターはマーカーを取って、その下に一行書き加えた。


 「72h」


 七十二時間以内。


 一行書いて、マーカーを置いた。


「コンビニに行く人は、サラの分もなにか買ってきてください」


「いらないと——」


「買ってきてください」


 サラは少し間を置いてから「……ありがとうございます」と言った。


 エリックとマルクスが立ち上がった。

 ジュリアが「チョコレート、ブラックので」と言った。

 鮎川が「ミルクも」と言った。

 エリックが「鮎川さんも食べるんじゃないですか」と言った。

 鮎川は答えなかった。


 夜明けのコンビニへ、二人が出ていった。


 部屋に四人が残った。

 モニターの光と、夜明け前の窓の光が混じり合う時間。


 七十二時間のカウントダウンが、静かに始まっていた。




次回、第三話「THE OLD FOX」――笠置文雄、計画を語る。

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