柊家の夜明け前 Episode 6「機械も、間が大事なんです」
稽古場の空調が止まったのは、十月の下旬。
止まった、というより、音が変わった。動いてはいる。でも吐き出す空気がぬるく、熱を持っている。稽古の途中で誰かが「暑くないか」と言い、別の誰かが「空調おかしいんじゃないか」と言い、吉田が確認に行って「うん、壊れてる」と戻ってきた。
その日の稽古はどうにか終わる。ただ、明後日にも稽古が入っている。来週末は本番前最後の通し稽古だ。業者を呼ぶには少し時間がかかる。吉田の顔が困っていた。
朱里が由紀の隣に来た。
「田島、今日来てたよね」
「来てた」
「あいつに頼めば、また呼んでもらえるんじゃない。あの修理屋」
由紀は少し考える。
修理屋、という呼び方。田島から聞いた名前は、柊海斗。大学院生で工学系。論文は先週終わったと田島から聞いている。そしてまだ、会えていない。
「……頼んでみる」
「そうしなよ」
朱里がさっさと稽古場を出ていく。由紀は田島を探した。
翌日の夕方、田島から折り返しが来た。
「柊さん、来てくれるって言ってます。明日の夜でいいですか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
電話を切ってから、由紀は少し考えた。
明日、会える。
空調の修理に来るのだから、当然会える。そこで話の続きを聞けばいい。計算じゃないなら何なのか。聞きたいことはそこだけだ。なのに、なぜ今朝から心拍数が少し高いのかが、由紀にはよく分からなかった。
台本を開く。間の部分に鉛筆の印がある。いくつかの印に、小さく「?」を書き足す。この間は何なのか、まだ自分では答えが出ていない箇所だ。
明日、続きが聞ける。
翌日の夜。
稽古場に海斗が来たのは七時を少し過ぎた頃。
工具箱を持って、田島と一緒に入ってくる。由紀は稽古場の隅で台本を読んでいた。
顔を上げた瞬間、すぐに分かった。
一ヶ月前に照明を直した男だ。背格好と工具箱と、あの動き方の癖——慌てず、迷わず、まず全体を見てから動く。暗い稽古場の中でも、それは変わらない。
由紀は台本を閉じた。
閉じながら、自分が息を止めていることに気づく。意識して、ゆっくり吐く。稽古のときに朱里に言われた言葉が頭をよぎった。台詞の前に息を止めるな、と。今は台詞の前ではないのに。
海斗は空調の前に立って、室外機の音を聞いている。次に内部のカバーを外す。田島が「どこが問題ですか」と聞くと「まだ分からない。見てから」と返した。一言だけ返して、懐中電灯を取り出す。
由紀はしばらくそれを見ていた。
作業の仕方が、あの夜と同じだ。照明盤を直すときも、空調を見るときも、まず全体を見る。部品から入らない。状態から入る。どこが壊れているかではなく、何が起きているかを先に把握しようとしている。
稽古場には他に何人かいたが、誰も声をかけない。話しかけられる雰囲気ではない、というより、集中しているときに話しかけると邪魔になると、見れば分かる。
二十分ほどで空調が動き出した。
正しい温度の空気が出てくる。劇団員の誰かが「直った」と言い、場が少し和んだ。
海斗はカバーを戻しながら田島に何か言う。田島が頷く。由紀は立ち上がった。
「あの」
海斗が振り返った。
一ヶ月前と同じ顔。表情が読みにくい。驚いた様子もなく、警戒した様子もなく、ただ由紀を見ている。その目に、何の色もない。計算もない。ただ、見ている。
「先日、照明を直してもらったとき、少し話しましたよね」
「はい」
「間の話。続きが聞きたくて」
海斗が少し考えた。
由紀はその間を、黙って待つ。この男は急かすと言葉が出ない、という確信が、なぜかあった。一ヶ月前の五分間で、そのことだけは分かっていた。
「続き、というのは」
「計算じゃないなら何なのか、ということ」
もう一度、海斗が考えた。
今度は少し長い。由紀はそれを急かさなかった。急かして出てくる言葉より、考えてから出てくる言葉の方が、おそらく本当のことに近い。この男が口を開くまでの時間は、無駄な間ではない。必要な間だ。
「計算じゃない、と言ったのは」海斗が口を開く。「意識より先に体が動いているように見えた、ということです」
「体が」
「考えるより先に、間が生まれている。それは計算で出来ることじゃない」
由紀は少し黙った。
「でもそれは、どこからくるの」
「経験か、感覚か、どちらかだと思います。でもあなたの場合は、えーっと」
海斗が少し止まる。
由紀は海斗が名前を知らないことに気づいた。
「湊です」
「湊さんは、空間の温度を聞いている」
「温度」
「空気の流れ、客席の息遣い、舞台の湿度。それを全部まとめて受け取って、間を決めている。計算より速い。計算より正確だと思います」
由紀はその言葉を、頭の中でゆっくり繰り返した。
空間の温度を聞く。
そういう言い方をされたことはなかった。でも、言われた瞬間に「そうかもしれない」と思う。舞台に立つとき、何かを受け取っている感覚はある。客席の呼吸、空気の密度、光の角度。そのすべてが、間の長さに影響している。それが何なのか、ずっと言語化できなかった。でもこの男は、一度見ただけで言葉にした。
「機械も同じですか」
由紀が聞くと、海斗が少し目を細めた。
「似ています。機械も、音と振動と温度を同時に読んで、どこが問題かを探す。データじゃなくて、状態を聞く」
「状態を聞く」
「そうです」
由紀は少し考えた。
「演技って、感情で表現するものだと思ってた」
「そうじゃない?」
「そうだと思ってたけど、最近少し違う気がする。感情より先に、間がある。間があって、その中に感情が生まれる」
海斗が静かに聞いている。
「感情を先に作ろうとすると、間が遅れる。間が遅れると、客席の空気が変わる。変わったのが分かってから感情を出しても、もう遅い」
「機械と同じです」海斗が言う。「部品から入ると見落とす。状態から入ると全体が見える」
由紀は思わず、少し笑った。
笑うつもりはなかった。でも笑った。
海斗が少し驚いた顔をする。無表情に見えて、細かい変化がある人間だ、と由紀は思った。眉が少し上がった。目が少し広くなった。驚いている。
「なんで笑うんですか」
「同じこと考えてる人間がいると思って」
海斗は何も言わない。でも、何かを考えている顔をしている。
「機械と演劇が、同じことを考えてるなんて」
「変ですか」
「変というより……こういう話が通じる人間に、あまり会ったことがなかったから」
海斗が少し間を置いた。
「私もです」
由紀は黙った。
稽古場の空調が、正常な温度の空気を吐き出し続けている。
その音を聞きながら、由紀はこの会話がいつ終わるのかを考えていた。終わってほしくない、と思っていた。でもなぜそう思うのかが分からなかった。話の続きが聞きたかっただけのはずだ。続きは聞けた。それで十分なはずだ。
なのに、まだここにいたい、と思っている。
その感覚を、由紀は持て余した。
稽古場の外、路地に出たところで、朱里が煙草に火をつけた。
朱里は空調の修理の間、ずっと稽古場の片隅にいた。本を読んでいるふりをして、由紀と海斗のやりとりを横目で見ていた。
二人が話しているとき、笑い声はなかった。冗談もなかった。でも空気が少しずつ変わっていくのが、離れていても分かる。演劇を六年やってきた。舞台の上で何かが動く瞬間を、何百回と見てきた。あれは演技ではなかった。でも、舞台に似た何かがあった。二人の間に、ある種の「場」が生まれていた。
「私もです」という海斗の声が、静かに稽古場に落ちた瞬間。
朱里はそのとき、本をそっと閉じた。
しばらくして、由紀が外に出てきた。
「終わった?」
「うん」
「どうだった」
由紀は少し考えた。
「続きが聞けた」
「以上?」
「以上」
朱里が煙草の煙を吐く。
「変人だったでしょ」
「変人だった」
「でも分かった?」
「分かった」
朱里は笑わなかった。でも笑いそうな顔をしている。
「ああいうのを分かる人間って、そういないぞ」
「知ってる」
「だからさっさとしろよ」
由紀は答えなかった。
路地の風が通り抜けていく。秋の深いところに来ている。葉が少し落ち始めた路地を、人が行き来している。みんな自分の夜へ向かっている。
「今夜、何話した」
「間の話」
「また間」
「また間」
二人で少し黙った。
「あの人も、間の話をするの」
「機械の話として」
「違う入り口から同じとこに来てるじゃないの」
由紀は少し考えた。
「そうかもしれない」
朱里が路地の外を見た。
「由紀、あの人の名前は今度ちゃんと確認してきたよな」
「田島さんから聞いてた。柊海斗さん」
「いい名前だな」
由紀は何も言わなかった。
朱里が煙草を地面で消す。
「帰るか」
「帰る」
二人で路地を歩き始めた。
しばらく黙って歩いて、朱里が言った。
「由紀、今夜の顔、見たことない顔だった」
「どんな顔」
「困ってる顔。でも嫌な困り方じゃなくて……答えが出ないのに、問いを手放したくない、っていう顔」
由紀は返事をしなかった。
否定もしなかった。
そうかもしれない、と思う。答えが出ない。でも問いを手放したくない。あの会話の中に、由紀がずっと探していた何かの輪郭がある気がした。それが何なのかはまだ分からない。でも、輪郭だけは感じた。
「朱里」
「何」
「あの人、また来ると思う?」
朱里が少し間を置いた。
「呼ばなければ来ない。でも呼べば来る」
「そういうことじゃなくて」
「じゃあどういうこと」
由紀は答えなかった。
答えられなかった。また会いたい、と言えばいい。でもそれを朱里に言う言葉が、出てこなかった。
朱里が煙草を地面で消す。
「由紀が呼べば来る。それだけでいいじゃないの」
由紀は黙ったまま歩いた。
同じ夜。
海斗はアパートへの帰り道を歩いていた。
工具箱を右手に持って、商店街の端を通り過ぎる。十月の夜は肌寒く、空気が乾いている。自分の足音だけが聞こえる。
さっきの会話を、頭の中でなぞっていた。
感情より先に間がある。間があって、その中に感情が生まれる。
それを聞いたとき、何かが一致した感覚があった。機械を見るとき、海斗はまず状態を聞く。部品の問題より前に、全体の呼吸を読む。そのやり方を言葉にしたことはなかった。でも湊由紀という人間は、演劇でそれをやっていた。
「同じこと考えてる人間がいると思って」
笑いながら言っていた。
海斗は笑い返さなかった。笑い方が分からなかった、というより、そのとき笑うより先に「同じです」と言いたかった。
私もです、と言った。
言いながら、少しズレた気がした。「私も」という言い方が正確かどうか、今でも分からない。でも「こういう話が通じる人間に会ったことがなかった」という言葉に、返せる言葉はそれしかなかった。
空間の温度を聞く、と言った。
言いながら、本当にそういう言い方で合っているのかを考えていた。温度というのは比喩だ。実際に温度計で測れるわけではない。でも、状態を把握するという意味では正確だと思う。あの人は空気を読んでいるのではなく、空気の状態を直接把握している。読む、という言葉は解釈を含む。把握は、より直接的だ。
機械も同じです、と答えた。
答えながら、しかし演劇と機械は違う、とも思っていた。機械には感情がない。状態があるだけだ。演劇には人間がいる。感情があって、間があって、客席との関係がある。あの人の言っていることは、機械より複雑だ。でも、根っこにある発想は同じだった。
アパートの入り口に着く。工具箱を持ち替えた。
名前を聞いた、と思ってから、気づく。
由紀が「湊です」と言った。自分は名乗っていない。向こうの名前も、結局聞かなかった。
海斗は立ち止まった。
そのことに気づくのが、また少し遅い。
一ヶ月前も、名前を聞かなかった。今夜も、聞かなかった。二回会って、二回とも聞き忘れた。なぜ聞かなかったのか。聞くタイミングはあった。でも会話の流れの中で、名前を挟む間が生まれなかった。
間が、なかった。
それを考えてから、海斗は少しおかしいと思った。機械の修理をするとき、必要な情報は最初に確認する。それが手順だ。でもあの会話の中では、名前よりも話の中身の方が先に来た。名前を確認する前に、もっと大事なことが始まってしまった。
もっと大事なこと。
そういう言い方が正確かどうかも、よく分からない。
翌日、田島に会ったとき、海斗は聞いた。
「昨日の劇団の方、湊さんという方ですよね」
「そうですよ。湊由紀さん。知り合いになったんですか」
「少し話しました。直接、私から連絡してもいいですか、と伝えてもらえますか」
田島が少し首を傾げた。
「湊さんには名前、もう伝えてありますよ」
「そうでしたか。では連絡していいかどうかだけ、確認してもらえますか」
田島が少し驚いた顔をした。
「柊さんから言ってくるの、珍しいですね」
「そうですか」
「いや、全然。伝えます」
海斗は廊下を歩きながら、修士論文の次の章のことを考えた。
考えながら、「みなとゆき」という名前を、一度だけ頭の中で繰り返した。
なぜそうしたのかは、よく分からなかった。
その夜。
由紀はアパートに帰って、台本を開いた。
間の部分の「?」を眺める。この間は何なのか、まだ答えが出ていない箇所だ。でも今夜は、少し前より答えに近い気がした。感情より先に間がある。間があって、その中に感情が生まれる。それを言葉にしてもらった。言葉にしてもらって初めて、自分がそれをやっていたことが分かった。
問いはまだある。
計算じゃないなら何なのか。空間の温度を聞く、と言われた。でもそれはどこから来るのか。経験か、感覚か。由紀には、まだ分からない。
でも今夜、少し分かったことが一つある。
この問いを、同じように考えている人間がいる。違う場所から、違う言葉で、同じことを考えている人間が。
それが、なぜこんなに落ち着かない気持ちにさせるのか。
由紀は鉛筆を置いた。
窓の外、高円寺の夜がにぎやかに続いている。路地に人の声がして、遠くで電車が通る音がして、秋の風が窓の隙間から入ってくる。
「ひいらぎかいと」、という名前を、由紀は一度だけ声に出さずに口の中で動かした。
田島から聞いた名前だ。顔と名前が一致した夜でもある。
でも向こうは、まだ由紀の名前を知らない。
湊です、と今夜伝えた。でも「みなと」という字がどういう字なのか、あの人は知らない。由紀のことを、ほとんど何も知らない。演劇をやっていて、間の取り方に自分でも理由が分からないくせがある——そのくらいしか、知らないはずだ。
それなのに、一ヶ月前から由紀の頭の中にある。
その事実が、少し不思議だった。
由紀は台本を閉じた。
明日また稽古がある。来週末は通し稽古だ。やるべきことはたくさんある。
でも今夜は、台本を開く気になれなかった。かといって、眠れる気もしなかった。
眠れない理由を言葉にしようとして、うまくいかなかった。
ただ、窓の外の夜が、いつもより少し遠く感じた。




