しばらく、お別れ。
◆
「しばらく、ここに帰ってくることはないんですね」
エミリアはつぶやいた。
胸にすぅすぅと秋の冷たい風が吹いているような気持ちだ。
セレネイド女子修道院を後にするときには、こんな気持ちにはならなかった。天歌教団に拾われて、物心ついてからずっと育ってきた場所。それなのに、ちっとも寂しいとか、悲しいとか、そんな気持ちにはならなかったのだ。
むしろ、わくわくとか。
どきどきとか、そわそわとか。
まだ見ぬ世界に心が浮き足立っていたような気がする。
南の大陸テロスへの船旅なんて、ほとんどの人は一生に一度だってできない経験だろう。
それなのに、寂しい気持ちだ。
思わず、リュックの紐をぎゅうと握っていると、アビゲイルがエミリアの頭にぽんと手を置く。
「おっと! しんみりするのはなしだぞ?」
「でも……」
「一生ここに戻らないわけじゃない、無事に元気で帰ってくるんだろ」
「……はい。そうですね」
エミリアは頷いた。
じっとアビゲイルの小屋を見つめる。
森の奥に建っている、見た目はボロボロの小さなお家。
周囲の畑も、すっかり作物は抜き去ってしまった。
いつもならば走り回っている全自動収穫魔導器も、全自動水まき機も、今は小屋の中に片づけられてしまって、うんともすんとも言わない。
(……ここが、私たちの帰る場所)
エミリアにとって、初めて得た「家」だ。
ここが心と体の帰ってくる場所だ。
「それに、私もジョンもいるのだから寂しくはないさ!」
「はい、そうですね」
もふもふのジョン。
いつもは騒がしい氷狼フェンリルが、「がう」と唸って、言った。
「……我は、一緒にはいけないぞ」
「えっ」
「そうなのか? 遠慮しなくても、船にもペット同伴パックはあるぞ!?」
「わふっ、そうではない! というか、我はペットではない」
アビゲイルのデリカシーに欠けた言葉に、ジョンが険しい顔をする。
「我は北の守護神獣として、長らくこの世界を守っている。北の大地……人間がケイモン大陸とか呼んでいる場所で、盟約主の復活を待ち望んでいた」
盟約主、というのはエミリアのことだ。
ジョンは多くは語らないが、世界樹の精霊と神竜の力を受け継いだ子が生まれるのを待っていたらしい。
「この中央の土地までが、我の来られる限界だ。我が南に行けば、冬が弱り、気候が乱れるだろう」
「そうすると、どうなるんですか?」
「……飢饉だ」
気候変動による不作。
その不作が引き起こす、飢饉。
ここ数百年、この世界で大規模な飢饉が起きてはいない。それは天歌教のおかげである、と信じられている。
しかし、昔は大飢饉によって多くの人々が命を落としていた。今でも長雨や冷夏のせいで作物が育たないことで庶民が腹を減らしてしまうことは、数年に一度は起きている。
飢饉というのは、多くの人が空腹で死ぬこと。
お腹が減って、悲しくて、寂しい気持ちのままで──
「そ、そそそ、それはいけません!!」
もふもふの犬だと思って、忘れていた。
神獣、氷狼フェンリルであるジョンは、この世界の冬に多大な影響を与えているのだ。自分たちの旅に連れ出すことで気候に変動があるなんて、もってのほかだ。
「……くわしくは言えないが、南にも我のようなものがおるかもしれない。会うことがあれば、色々とよくしてくれるはずだぞ」
「神獣がテロス大陸にもいるのか?」
「わからん。我以外はすでに消滅したかもしれないし、そうではないかもしれん……だが、世界の気候が乱れていないのならば、眠っている神獣は無事でいる可能性が高いと思うぞ。わふっ」
「ふむ……魔石の確保が最優先だが、神獣もまた興味深いっ!」
アビゲイルは目を輝かせた。
フェンリルの力を得たことで開発した魔導具、フェンリル印の冷蔵庫はアビゲイルの代表作となったのだ。
ミセス・ソーセージバゲット自慢のソーセージを新鮮なまま運搬できるようになったことで、彼女は近隣の街にまで商売をひろげはじめた。
よぼよぼだったのが嘘みたいなバイタリティである。
「エミリアと出会ってから、本当に退屈しないよ」
「そ、そうですかね?」
「ああ。寝ている暇が惜しいくらいに」
「アビゲイルさん! ちゃんと寝ないと体に悪いんですよ」
「君からそういう言葉が出てくるようになったのも、私にとっては興味深いよ」
ジョンはメリルリ市に留まって、バザールの用心棒をするつもりらしい。
もふもふで大きな犬は、バザールのみんなから大人気なのだ。
フェンリル印の冷蔵庫はジョンの魔力を流用しているため、ジョンが近くにいることで挙動も安定するだろうとアビゲイルは推測している。
「さて、出発だ」
「はいっ!」
住み慣れた家と、もふもふのジョン。
ふたつのものと、しばしお別れ。
エミリアはアビゲイルと手を繋いで、一歩を踏み出した。
目指すは、南の大陸テロス。
手始めに、まずは港町ヴィナへと向かうことにした。




