第七章「決戦! スヴァルタ・ヘイム!51」
「実は……草原を出てここへ向かう途中で、運悪く魔物の群れに遭遇しちゃって……。ずっと追い回されてたんです……」
ルミナは《恩賜》で手の傷を癒やしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
ふと空を見上げる。
さっきブラウンウルフに引き裂かれた木の葉が、風に揺れて舞い落ちていく。
それから信じられないものを見るような表情で、私へ視線を向けた。
「その手の傷は? それに、馬はどうしたんですか? 馬で来たんじゃなかったんですか?」
「ああ、うちの馬ですか……」
ルミナは困ったように苦笑すると、照れ隠しのように頬を掻き、森の奥へ続く小道を指差した。
「あの子なら……」
少し間を置いて、どこか寂しそうに笑う。
「どうせ私は助からないと思ったので……。馬だけは何も悪くありませんから、魔物に囲まれる前にお尻を思いっきり叩いて逃がしたんです。」
「……ぷっ……あははっ、あははははっ!」
思わず吹き出してしまった。
するとルミナは頬をぷくっと膨らませ、ぷりぷり怒りながら私の胸をぽかぽか叩いてくる。
もちろん全然痛くない。
「結局……楓玲さんに助けてもらっちゃいました……。なんだか、すごく情けないです。」
「何言ってるの!」
私は笑いながら軽く手刀で彼女の頭をこつんと叩いた。
だけど心の中では、驚きを隠せなかった。
普通、自分の命が危ない時に、真っ先に馬の心配なんてできるものなんだろうか。
私なんて初めて魔物に襲われた時は、怖くてその場に立ち尽くし、両手で身を守ることしかできなかった。
そんなこと、大人だって簡単にはできないはずだ。
……でも。
それが、私が一番尊敬しているルミナなんだ。
私が黙り込んだせいだろうか。
ルミナは少し俯き、小さな声で呟いた。
「私……やっぱり悪い子ですよね……。楓玲さんも、そう思ってますよね……」
「えっ? え? 何の話?」
首を傾げる私をよそに、ルミナは整然と並べられた樽へ目を向け、それから遠くの草原を静かに見つめた。
「……ようやく分かりました。」
「どうして大人たちが、あんなに怒っていたのか。」
「……うん。」
「その……私も、分かった。」
私も同じ方向へ視線を向ける。
草原の地平線。
そこには――
黒い点が、地平線を埋め尽くしていた。
いや。
点なんかじゃない。
数え切れないほどの魔物。
何百、何千――いや、それ以上かもしれない。
大小さまざまな魔物が黒い波となって、大地を覆い尽くしながら、こちらへ向かって押し寄せてきていた。
私とルミナは肩を並べたまま、その絶望的な光景を見つめる。
そして、どちらからともなく唾を飲み込んだ。
「楓玲さん……」
「私、やっぱり馬鹿ですよね……。」
「こんな状況なのに、用意したのは二十数個の樽だけなんて……。笑っちゃいますよね……。」
「……そうかもしれない。」
本当は励ましたかった。
「大丈夫だよ」って言いたかった。
だけど――
今だけは、その言葉がどうしても出てこなかった。
私自身の胸も、不安でいっぱいだったから。
(シャオチー……。)
(カイアさん……。)
(エイスおじいちゃん……。)
(みんなの言う通りだった。)
(これは、とても『勇者一人』でどうにかできる相手なんかじゃない……。)
これが――
『スヴァルタ・ヘイム』。
人々が"絶望"と呼ぶ災厄。
「それでも……」
ルミナは前を向いたまま、小さく呟く。
「私は、この作戦を試してみたいです。」
「つまり……タロの実を全部爆発させて、悪臭の壁を作る。」
「魔物たちに嫌がって迂回させて、『スヴァルタ・ヘイム』の進路を変えるってこと?」
私が確認すると、ルミナは静かに頷いた。
(この状況を見ても……。)
(まだ最初の気持ちを貫けるなんて。)
(ルミナ……。)
(勇者らしいのは、きっと私じゃなくて、あなたの方だよ。)
私は大きく深呼吸し、両手で軽く頬を叩く。
気持ちを切り替える。
目の前には、果てしなく続く魔物の大群。
さっきまでは、その圧倒的な存在感に呑まれそうになっていた。
だけど今は違う。
私はルミナの作戦を信じている。
そして、この作戦を成功させたいという気持ちも変わっていない。
振り返ると、ルミナは真っ直ぐ前を見据えて立っていた。
その瞳には、迷いも恐れもない。
私は小さく笑う。
そして樽の方へ歩み寄り、一歩だけ後ろへ下がった、その瞬間――
ヒュオオオオオオッ――!!
ズドォォォォンッ!!
耳をつんざくような風切り音が空を裂いた。
家ほどもある巨大な岩が、圧倒的な勢いで空から飛来する。
ルミナが導火線へ火魔法を使おうと手を伸ばした、その瞬間だった。
まるで死神の鎌のように。
巨大な岩は彼女のすぐ横をかすめ、地面へ叩きつけられる。
「きゃあああっ!」
ルミナは悲鳴を上げ、その場へ尻もちをついた。
全身を震わせ、顔は真っ青。
瞳には恐怖と混乱が浮かんでいる。
「ルミナっ!!」
轟音とともに岩が地面へ激突し、土煙が一気に舞い上がる。
私は迷わず煙の中へ飛び込み、必死に彼女の姿を探した。
そして――
巨大な岩のすぐそばで、ようやくルミナを見つける。
「ふ……楓……」
彼女は地面に座り込んだまま、小刻みに震え、まともに言葉も発せられない。
私はすぐに彼女を抱き起こし、顔や服についた土埃を払い落とす。
怪我は……ない。
どうやら酷く怯えているだけらしい。
安堵した私は、そのまま彼女を連れて近くの森へ避難しようとした――その時だった。
ヒュオオオオオオッ!!
ズドォォォォンッ!!
二つ目の巨岩が、今度は私たちが立っていた場所へ一直線に落ちてきた。
「くっ!」
風切り音を聞いた瞬間、私は反射的に横へ飛び退く。
間一髪。
致命の一撃を避けることができた。
風圧に吹き飛ばされることもなかった。
……だけど。
私の胸は、さっきよりも重く沈んでいく。
(煙の向こうなのに……。)
(見えてる?)
(こんなに正確に狙ってきた……?)
その攻撃は、ただ力任せに投げられたものじゃない。
明確な意思。
そして知性。
こちらを確実に仕留めようという、はっきりとした殺意が込められていた。
――怖い。
心の底から、そう思った。




