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プロローグ

「酸素はね、肺のあたりに溜めるんだよ」


小学校からの帰り道。

夏の夕陽に染まった並木道の木陰で、二歳年下の弟――晞夏きかは、振り返ってそう言った。


白と黒の縞模様のランドセルについたキーホルダーが、からんと小さく鳴る。

まるでいたずらでも仕掛けるみたいに、楽しそうな笑顔だった。


「こう……肺のところに、ぎゅーって?」


言われた通りにやってみる。


胸のあたりに空気を集めようとして、私は眉を寄せながら「うー……」と唸った。

いつの間にか息まで止めてしまっていたらしく、頬がみるみる赤くなっていく。


そんな私を見た晞夏は、とうとうお腹を抱えて笑い出した。


「ちょっと、晞夏! またお姉ちゃんをからかったでしょ!」


「からかってないよ。姉ちゃんのやり方が変なんだって。そんな力入れなくていいのに」


「だって分かんないもん! 力を入れないのに集めるって、変じゃない?」


「……たしかに、説明は下手かも」


「うん、すっごく変!」


ぷくっと頬を膨らませる私に、晞夏は困ったように笑ってから、そっと手を伸ばした。


そして、私の手を握る。


夕陽を映した水色の瞳が、優しく揺れていた。

まだ小学生なのに、その目だけは時々、年齢に似合わないほど大人びて見えることがあった。


「姉ちゃんは大丈夫だよ。これからは僕が守ってあげるから」


「だめ。私がお姉ちゃんなんだから、弟を守るのは私のほう」


「姉ちゃんって、ほんと頑固だよね」


「弟が姉を守るなんて、変なの」


そう言いながら、私は晞夏の頭をくしゃっと撫でた。


晞夏は少し照れたように目を細めてから、胸を張って言う。


「じゃあ決めた。僕の夢は、姉ちゃんが安心できる立派な男になること」


「へえ? 晞夏は“男らしい”って何か分かってるの?」


「もちろん。僕は姉ちゃんの十倍……ううん、十万倍賢いからね」


「そこまで言う?」


思わず笑ってしまう。


昔から晞夏は、なんでもできた。

勉強も。運動も。

先生たちは口を揃えて「賢い子ね」と褒めていた。


それに比べて私は――


勉強は苦手。

運動も普通。

ちょっとだけ得意なのは新体操とゲームくらい。


「……はぁ」


小さくため息をつくと、晞夏はそんな私を見上げて、少しだけ真面目な顔になった。


「でもね」


握っていた手に、きゅっと力がこもる。


「姉ちゃんは、僕にとってたった一人のお姉ちゃんだよ」


「……」


「それに、僕がどうしても真似できないものを、姉ちゃんは持ってる」


「私が?」


「うん。絶対に諦めないところ」


その言葉に、私は思わず目を丸くした。


「本で読んだんだ。人はね、諦めなければ、つらかったこともいつか自分を守る力になるんだって」


晞夏は少しだけ考えて、それから笑った。


「……金平糖みたいにね」


「こんぺいとう?」


「うん。つらいことを一個ずつ包んでいけば、きっと強くなれる」


意味はよく分からなかった。


だけど、晞夏が言うと、不思議と本当のことみたいに聞こえた。


だから私は、負けじと言い返した。


「じゃあ私だっていっぱい勉強して、晞夏より百倍……ううん、百万倍賢くなる!」


その瞬間、晞夏は吹き出した。


「やっぱり笑った!」


「ち、違うって……っ」


「こらーっ!」


私たちはそのまま夕暮れの道で笑いながら追いかけっこをした。


息が落ち着いて、また手をつなぐ。


晞夏はいつも笑っている。

けれど、こうして静かに並んで歩いている時だけは、時々どこか遠くを見ている気がした。


まるで――

私の知らない何かを、ずっと前から知っているみたいに。


「姉ちゃん」


「ん?」


立ち止まった晞夏が、私を見上げる。


あの透き通った青い瞳が、なぜかその時だけ、深い霧に包まれているように見えた。


見慣れているはずの弟なのに。


どうしてだろう。


ほんの少しだけ――

知らない誰かに見えた。


「姉ちゃん、早く帰ろ」


「……うん」


沈みかけた夕陽が、ゆっくりと街から消えていく。


夜はいつだって、思い出したくない記憶を連れてくる。


それは――半年前。


晞夏が病室で倒れ、

そして私の世界が壊れた、あの日のことだった。

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