第80話 母の涙と女の戦い
これまで「羽柴秀成」としていましたが、通称(仮名)を設定しました。
その名は源一郎。これからは「羽柴源一郎秀成」とさせていただきます。
元服し諱を授けられた「第50話」において源一郎という通称を授かるシーンを追記し、その後の各話において、必要に応じて「秀成から源一郎」へ修正しています。
天正11年(1583年)4月下旬 山城・山崎城 お初
山崎城の留守を預かっている秀吉の妻・ねねと、秀長の妻・お初の下へ、二人の使者が到着した。
秀長が信頼を置く家臣、小堀正次と羽田正親である。
「……以上が、先の合戦の結果にございます。柴田軍は総崩れ」
「修理亮(勝家)殿は越前・北ノ庄へと落ち延びましたが、それを追撃し、城を包囲した次第」
「修理亮殿は、城を燃やし、自刃してお果てになりました。我らの大勝利でございます」
小堀の力強い声が広間に響く。
ねねとお初は顔を見合わせ、安堵の吐息を漏らした。
本来なら、この報せに二人の奥方は沸き立ち、祝いの声が上がるはずであった。
だが、小堀の横に控える羽田が、武功を称えようと付け加えた余計な一言が、場の空気を凍らせた。
「特に、若君がご活躍されました。 美濃守様が『まだ早い』と制止するのも聞かず、自ら志願して木之本の本陣に随行され、かの半兵衛殿の再来かと見紛う鋭い献策を...」
羽田が胸を張って自慢げに語る横で、小堀が「あ、まずい」という顔をして目を伏せた。
しかし、時すでに遅し。
お初の握りしめた扇子が、畳の上で「パシッ」と乾いた音を立てた。
「今、何と言いました?…木之本と聞こえましたが?」
お初の声は、氷のように鋭く、鉛のように重い声だった。
小堀と羽田は、手柄を誇らしく語れば喜ばれると思っていたが、彼女の瞳に宿る「火」に気づき、思わず言葉を呑んだ。
「戦場に、あの子を連れて行ったのですか?」
「殿(秀長)も、義兄上(秀吉)も、何を考えておいでなのです」
「あの子は、まだ元服を終えたばかり。今回は、後方で戦を学ぶのが役目のはず。私はそのように聞いておりました。それを、何故そのような場所に? ...何かあったらどうするおつもりだったのですか!」
お初の震える声が、広間に響いた。
温厚な彼女がこれほど激昂するのは、家臣たちにとっても初めての経験であった。
お初は膝を突き出し、小堀たちを射貫くような視線で見据えた。
「そなた達は、何故止めてくれなかったのです」
その瞳には薄っすらと涙が溜まっていた。
小堀と羽田は、ただ首を垂れるしかなかった。
戦場では英雄譚であっても、後方を守る女性たちにとっては心配の種でしかない。
そこへ、静かにお茶を啜っていたねねが、柔らかく口を開いた。
「お初殿、落ち着きましょう。この者たちを叱っても、殿の耳には届きません」
「殿が戻られたら、二人並べて存分に問い詰めましょう。私も、我が夫の無茶には一言二言では足りませんから」
ねねの悪戯っぽい、しかし決意のこもった言葉に、
お初もようやく「……はい」と小さく頷いた。
ねねは小堀に尋ねた。
「ところで、お市の方と姫君はどうなされましたか?もしや修理亮殿と共に...」
「城が焼ける前に落ち延び、無事に保護してございます」
「美濃守様の手配で、前田又左殿と山路正国殿がお市の方を説得したとか。これにも若殿の助言が功を奏したと聞いております」
小堀が答えると、ねねとお初は安堵のため息を吐いた。
浅井ゆかりの者として、自らの夫が姫君たちを救い出したことを聞き、お初もようやく少しだけ毒気を抜いた。
「……小堀殿、羽田殿。ご苦労でした。お二人は下がって、身体を休めてください」
「近江に戻られたら、殿にこうお伝えください。『山崎の妻たちが、首を長くして、角を二本生やしてお待ちです』と」
ねねの言葉に、二人の重臣は救われたような、あるいは重刑を宣告されたような複雑な顔で退室していった。
ねね
静かになった広間で、ねねは溜息をつくお初の隣へ移動し、その肩にそっと手を置いた。
「お初殿、心配なのは分かります。子が傷つくかもしれぬと思うと、自分の身を切られるより辛いものでしょう」
「ねね様……私は、あの子に英雄になってほしいわけではありません。ただ、無事に、幸せな生を送ってほしいだけなのです」
「ええ、分かっていますとも。男たちは、天下という高みへ登ることに夢中で、足元を固めることの大変さを分かっていません……ならば、私たちが教え込むしかありませんね。戻ってきたら、藤吉郎様も小一郎殿も、そして源一郎殿(秀成)も、並べて三日三晩お説教をしましょう」
ねねの悪戯っぽい微笑みに、お初もようやく「ふふっ」と、弱々しくも微笑みを返した。
一拍置いて、ねねが決意のこもった調子で言葉を続けた。
「さて、お初殿。お怒りはごもっともですが、更に大事なことがあります」
「今回、源一郎殿が戦場で立派に立ち回り、しかも勝利に繋がる献策も行ったとのこと。これで大いに名を上げることになりました。つまり、羽柴家におけるあの子の価値が、天を突くほど跳ね上がったということです」
「今までは『美濃守の息子』でしたが、これからは『賤ヶ岳で戦った一角の将であり、織田の血を救った若君』として、諸将や公家が群がってきます。変な虫がつく前に、私たちが主導権を握らねばなりません」
お初が居住まいを正した。
「……左様ですね。戦場にまで出たとなれば、もう子供扱いはできません」
ねねの目が、鋭く、しかし温かく光る。
「殿は、あの子を羽柴の柱石に据えるつもりでしょう。そうなれば、織田の重臣や、斯波、京極などの古くからの名門との縁を結ぶことも考えられます」
「しかし、単なる政略の道具ではなく、しっかりと羽柴の家を、そして源一郎殿を支えられる芯の強い娘を選ばねばなりません。お初殿、心当たりはございますか?」
お初は少し考え込み、そして母としての顔で答えた。
「私は、あの子が戦から戻った時、泥にまみれた顔を見て笑って迎えてくれるような、そんな穏やかな、しかし困難に折れぬ肝の座った娘を……名門の出であることも大事でしょうが、羽柴の『根』を共に守れる者を探しとうございます」
「ええ、同感です」
ねねが深く頷く。
「そんな娘を、私たちが探しましょう。殿方が天下を目指すというのなら、私たちはこの家を、千年続く岩にしなければなりません。源一郎殿の嫁取りは、その第一歩なのです」
ねねの熱っぽい語りに、お初は首を何度も縦に振った。
「ところで、私の想像ですが、源一郎殿はあの3人の姫君に何やらご関心が強い様子」
「お初殿、母親として何か気づくことはありませんか?」
ねねは、真剣な目つきでお初の言葉を待った。
「まだ幼いからだとは思いますが、あの子は女子に関心を全く示しません。しかし、あの姫君のことは気にかけているように思います。伝え聞く話では、越前に向かう最中、道中の慰みにと京の大店で美しい匂い袋を揃えさせお贈りしたとか」
お初は顎に手を当て、我が子の行動を思い出しながら話した。
「で? どなただと思いますか?」
「え?あっ、三人の姫君のうち誰かということですか?」
「確か齢は、下から11歳、14歳、15歳。お歳なら全員に可能性がありますが...あの子のがどう思っているのかはわかりません」
「なるほど。同年代が好みか、年上が好みかで変わってくるということ...」
「これは一度、確かめる必要がありますね」
春の光が、二人の女性を優しく照らしていた。
だが、その背後に控える侍女たちは、主たちの「戦意」を察し、戦場から戻る男たちの無事を、別の意味で祈るばかりであった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第4章のタイトルは「連枝の絆」です。
羽柴の連枝(一門)である秀成や信吉(秀次)たちが、羽柴の屋台骨を固めていく姿を描きます。
ねねやお初など女性も含めて一族が結束して生き抜こうとする、熱い物語が始まります。
手を取り合い、世の荒波に立ち向かう、彼らの形にご注目ください。
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