第77話 北ノ庄ー夫婦の語らい
天正11年(1583年)4月 越前・北ノ庄 柴田勝家
天正11年4月23日
賤ヶ岳で敗北した柴田勝家は、わずかな手勢とともに命からがら越前・北ノ庄城へと帰り着いた。
かつて織田家の宿老として北陸一円を差配した「鬼柴田」の威容はなく、その姿は、泥にまみれ、具足の緒も切れかかった一人の敗残兵に過ぎなかった。
逃げる柴田勢を追ったのは、皮肉にも昨日まで柴田の陣に連なっていた前田利家、不破直光、金森長近らの軍勢。
賤ヶ岳の激戦で夜通し戦っていた羽柴の本隊は、流石に疲弊しきって追撃の余力はなく、代わりに、干戈を交えることなく戦線を離脱した前田利家達の軍勢が、「旧主」勝家へと襲いかかった。
裏切った将が、自ら先鋒となって旧主を追い詰める。
戦国の理とはいえ、あまりに無慈悲な光景であった。
しかし、旗色を変えた者たちにとって、勝家の首、あるいはその降伏を引き出すことは、新しい主への忠誠を示す唯一無二の証でもあった。
北ノ庄城、天守の奥
北ノ庄城の天守、その最上階には死に臨む静寂が満ちていた。
城外からは羽柴勢の放つ鬨の声が響いてくるが、この一室だけは時が止まったかのようであった。
勝家は、静かに自分を待っていたお市の方と対峙していた。
「……負けた。もはや、これまでのようだ」
「羽柴の軍勢はすぐそこまで迫っておる。わしは城を枕に、火を放って果てるつもりだ」
勝家の声は枯れ果て、頬は痩け、瞳の光は今にも消え入りそうだった。
そして、お市の方の目を見つめ、静かに言った。
「貴方様は落ち延びてくだれ。秀吉の猿も、無体なことはしないはず」
お市の方は、ゆっくりと首を横に振った。
「共に参りましょう、修理亮殿。小谷の時とは違い、今度は迷いはございません」
「女子にも矜持がございます。二度も夫を置いて生き恥を晒すことは、武士の妻として、そして織田の女として認めることはできません。どうかお供をさせてくださいませ」
そう、凛とした声で答えた。
夫・浅井長政を失った十年前の悲劇。
あの時、兄、そして、織田家はまだ健在であった。
自らの死が織田家の行く末に影響を与える危惧もあり、兄の命で生き長らえることを選んだ。
しかし、今回は違う。
「兄は亡く、跡を継ぐべき甥達も家臣にいいように扱われている...もはや先は知れておりましょう」
「猿の天下を見るくらいなら、今ここで果てる方が幾倍もましでございます」
それを聞いた勝家は、声を張り上げて言った。
「ならぬ。貴女は落ち延びよ。織田の血を決して絶やしてはならぬ」
「幼き姫たちの母として、どうか生き延びていただきたい」
そう言って、深々と頭を下げた。
しかし、お市の方は、またも首を横に振った。
「あの子達は立派に育っております。だからこそ、今ここで、戦国の女の有り様を教えねばなりません。これが母として娘達に残せる最大の責務でございましょう」
夫婦がお互いの信念を語り合っていたその時、近侍が小走りで部屋に近づいてきた。
「申し上げます! 前田殿の使者が殿にお目通を願っております」
「……又左の使者か。まさか今更、降伏せよというわけでもあるまいが」
柴田勝家が、低い声で唸った。
その目には、怒りではなく、悲しみが覆っていた。
勝家は、お市の方とともに評定の間に入った。
そこには、二人の使者が平伏していた。
使者は頭を上げることなく、口上を述べた。
「修理亮様、又左衛門尉(利家)からの伝言にございます。『お市の方と三人の姫君を城から出されよ。織田の血を絶やしては、信長公に合わせる顔がない。この又左が命にかけて身の安全を保証いたす』と」
勝家は低く笑ったあと、
「裏切り者の保証など誰が当てにするものか。そもそもお主らがまともに戦っておれば、そのお市の方も姫君もこのような目になってはおらぬわ!!どの口が申しておる!!」
と、大声で怒鳴りつけた。
使者はびくりとも動じず、続けて述べる。
「我らへのお怒りはごもっとも、裏切り者の誹りも受けましょう。しかし、お市の方、姫君を道連れになさることは、大殿への忠義に反しはいたしませぬか」
それを聞いた勝家は口を横に結び推し黙った。
自分の思いと同じことを使者の口から聞かされ、言い返すことができなった。
「修理亮様」
そのとき、もう一人の使者がゆっくりと顔を上げた。
それは、勝豊の家老・山路正国だった。
正国は、昨年末、長浜城主・柴田勝豊とともに秀吉に降り、先日賤ヶ岳の合戦の直前に再び柴田側に寝返った男だ。
「おぉ正国ではないか。此度の合戦では再び我らに与してくれたこと礼を言う。しかし、又左の使者と共にここへ来るとはどういう了見だ?」
正国は勝家の顔を睨むように見つめ、言葉を吐いた。
「修理亮様。私は貴殿を許すことはできません。長浜を後詰できないことをわかりながら、我が主・勝豊殿を使い捨てに等しい扱いをされた」
「跡目の件、理解できぬわけではありませぬが、あまりにも酷な仕打ちにございました」
「勝豊殿は、信頼する親父殿からの仕打ちに思い悩み、身体を壊し、明日をもしれぬ身になり申した。羽柴筑前殿に降ったあと、美濃守殿の手により京で手厚く治療していただき、今はゆっくり回復に向かっております」
勝家は疲れ切った身体を持ち上げ、正国に近づくと、その肩に手を置いた。
「勝豊にも、お主にも済まぬことをした」
「恨みを持ちながらも、最後にわしに力を貸してくれたこと、心から礼を言う」
そう言うと、静かに頭を下げた。
「......」
正国は、それについて何も言わなかった。
今ここで、敗軍の将に対し、策のことを言う必要はない。
じっと勝家の顔を見つめていた正国は、別の言葉を紡いだ。
「…柴田の家名を絶やさぬため、勝豊殿に今後を委ねてはいかがでしょう。お市の方、姫君たちの身も勝豊殿という身内がお引き受けする形であれば、敵方に降るという恥辱は少しは免れましょう」
そして、勝家の横で静かに座っていたお市の方に顔を向け、努めて優しいことばで声をかけた。
「隣の使者が又左殿から、品を預かっているようでございます。検めていただきたい」
そう言うと、使者がすっと木箱をお市の方に差し出した。
お市の方が木箱を開けると、一通の文と衣が入っていた。
文には、前田利家からの懇願の言葉が綴られていた。
『戦国の世は、姫君のみで生きてゆくには余りに過酷にございます。姫君の幸せのためには、お市様……貴女様の後ろ盾が必要です。それに、羽柴の家臣には北近江ゆかりの者が多い。彼らを繋ぎ止め、羽柴の増長を牽制できるのは、貴女様を置いて他におりませぬ。どうか生きて、長政殿、そして勝家殿の菩提を弔ってくだされ。それが残された者の務めにございます』
そして、震える手で取り出した衣は、真新しい子供用の半纏だった。
「……あぁ」
お市の方は息を呑んだ。
その半纏の色――
それは、越前に嫁ぐ途中で立ち寄った長浜で、北近江の者から贈られた「匂い袋」と同じ色だった。
そして、あの時と同じ香りがほのかに漂った。
「あの時、私たちを案じてくれたあの香り……」
敵味方に分かれてなお、自分たちの命を案じ、生きてほしいと願う者たちが、あの北近江に、羽柴の陣中にいる。
かつて愛した夫と縁ある者たちの温もりが、冷え切ったお市の心を溶かしていった。
(続く)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
稚拙な部分があるかもしれませんが、日々推敲しながら加筆修正していっています。
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