第8話 息子の力
天正8年(1580年) 6月 但馬・竹田城
播磨北部と但馬の境にある竹田城。
山に囲まれたこの城の朝は、霧から始まる。
谷を埋める白い靄が、石垣の裾を隠し、やがてゆっくりとほどけていく。
秀長は城の櫓からその様子を眺めながら、手の中の文をもう一度読み返していた。
折り目の正しい、小さな文字。
息子の筆跡だった。
「……ふ」
思わず、息が漏れる。
加増の報せは、すでに長浜にも届いている。
播磨と但馬、合わせて10万5千石。
武将として、これ以上ない栄誉だ。
だが今、秀長の胸を満たしているのは、石高でも、領地の広さでもなかった。
「帳面の形を変えました」
その一文。
そして、
「父上が戻られるまで、長浜のことは心配なさらずに」
という一節。
桑山重晴が、横から覗き込む。
「若様の文でございますか」
「ああ」
秀長は苦笑しながら頷いた。
「祝いの言葉に続けて、帳面の話とは……」
藤堂高虎が腕を組む。
「普通の子ではありませんな」
「まだ六つでございましょう」
「その歳で“数字が早く集まるようになりました”と申しますか」
「それはそれで、お家にはありがたい」
桑山が真面目に言う。
「国を取る者は多くても、国を治める者は少ない」
「殿のご嫡男であればこれ以上の資質はございませぬ」
秀長は黙って文を畳み、懐にしまった。
城を落とし、国を奪い、兵を動かすことは難しくない。
だが――
奪った土地を、荒らさず、逃がさず、憎ませず、回し続ける。
それは、剣よりも難しい。
秀長自身、それを骨身に染みて知っている。
「帳面を分け、検算役を置き、父上は大きな数字だけ見ればよい」
竹若の言葉を思い出す。
誰に教わったわけでもない。
書物にもない。
戦国の武将の発想でもない。
それでいて、理に適っている。
藤堂が静かに言った。
「……麒麟児、ですな」
「あの歳で書物を読み、理解するだけでなく、それを活かした仕組みを考えだすとは」
秀長は、空を見上げた。
六月の空は高く、雲はゆっくりと流れている。
(あの子は……)
剣を振るう姿も、馬を駆る姿も、まだ想像できない。
武功を挙げ、首級を挙げ、城を落とす――そういう武将の道ではないだろう。
だが、帳面を広げ、静かに人と土地と数字を見つめる姿なら、ありありと思い浮かぶ。
(皆は私に似ていると言う)
(兄者にも似ているようにも思う)
(…では…私と兄者を混ぜて一人にしたような者なら、我ら兄弟を超える才をもつのか?)
加増は嬉しい。
だが、これは「国持ち大名」になったという話ではない。
あくまで織田家の家臣、方面軍の一将として、切り取った土地の一部を預けられただけのこと。
国境も定かでない。
石高も、検地が終わらねば仮の数字だ。
いつ取り上げられても、不思議ではない。
桑山も藤堂も、その現実をよく知っている。
だからこそ――
「長浜が回っているなら、こちらも安心して政ができる」
秀長はそう言って、踵を返した。
「但馬の国衆を、もう一度集めよう」
「起請文を取り直す」
「年貢の率も、村ごとに決め直す」
「城の普請は石垣からだ」
一つ一つは地味な仕事だ。
だが、こうした積み重ねがなければ、“羽柴の国”など、ただの砂の城にすぎない。
桑山が苦笑する。
「加増の祝い話かと思えば、もう政談ですか」
「城も国も、放っておけば人のものになる」
秀長も小さく笑った。
「兄者のようにはできんのでな」
竹田城の下に、村々の屋根が見える。
人が暮らし、畑を耕し、年貢を納め、兵を出す土地。
まだ「借り物」の国。
だが――
(この国を、本当に“家の国”にできるかどうか)
(それは、あの子の代かもしれんな)
秀長は、そう思った。
天下を夢見るほど大それた話ではない。
織田の天下が続くなら、その下で生き残れる家であること。
奪われず、潰されず、名を残せる家であること。
その現実的な願いの先に、息子の姿があった。
【人物設定】
桑山重晴は織田信長に仕えた桑山氏の出身で、のちに羽柴秀長の与力・重臣となり、大和・紀伊の平定や一揆鎮圧などに従事した実戦派武将です。
史実では和歌山城主を務め、秀長没後も豊臣政権下で一定の地位を保ちました。
本作では、小堀正次が内政・築城を担うのに対し、桑山重晴は武断派の筆頭として軍事・治安維持を担当し、秀長からの信頼は厚く、単なる家臣ではなく腹心に近い関係です。
主人公に対しては厳格な教育係として接し、将来の統治者に必要な覚悟と戦場の現実を教える役割を担います。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。
日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
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