第6話 静かな歯車
天正8年(1580年) 4月 近江・長浜城
それから、五年の歳月が流れた。
戦国の五年は、あまりに重い。
城が落ち、国が変わり、人が死に、主君が入れ替わり、地図の色が塗り替えられる。
その五年の間に、私は――
歩けるようになり、
字を覚え、
数を覚え、
帳面を読み、
そして「考えを隠す」術を覚えた。
天正八年(1580年)4月
長浜の城下は、かつての浅井の城下町とはまるで別の姿になっている。
道は広がり、蔵が並び、商人の往来が増え、夜になっても灯りが消えない。
繁栄。だが、それは偶然ではない。
父――羽柴秀長の仕事の結果だ。
だが、父は最近、長浜を不在にすることが多い。
播磨。
但馬。
竹田城。
中国攻めにおいて兄・秀吉が前線を駆け回る間、父は後方で城を預かり、国衆をなだめ、寺社と交渉し、年貢を定め、兵糧を集め、城代に桑山重晴を置き、占領地を「領国」に変える仕事をしていた。
戦は、城を落とせば終わるが、統治は、それから始まる。
播磨と但馬は、山が多く、道は険しく、国衆の自立心も強い。
昨日まで敵だった者たちを家臣にし、村を焼かず、百姓を逃がさず、税を取り、兵を出させる。
それは剣ではなく、帳面と書付と忍耐で戦う仕事だ。
父が長浜に戻ったのは、ほんの数週間前。
春の終わり、琵琶湖にまだ冷たい風が残る頃だった。
私は縁側に座り、城下を眺めていた。
小さな体。短い脚。
だが、視線の先にあるものは、大人と同じだ。
「若様、また帳面をお持ちですか」
乳母が苦笑する。
「遊び道具ではないのですよ」
「数字は面白い」
そう答えると、乳母は何も言えなくなる。
この五年で、私は「普通の子」ではなくなった。
城の者たちも、もう気づいている。
字が読める。
計算が速い。
話の内容を理解する。
そして何より――
政の間で交わされる話を、覚えている。
隠してはいるが、完全には隠しきれていない。
私は頭の中で、情勢を整理する。
織田信長――健在。畿内を掌握。
石山本願寺――事実上の降伏。
武田家――滅亡。長篠の敗北から五年、勝頼は持ちこたえられなかった。
毛利家――健在。中国地方最大の勢力。
そして、羽柴家。
中国方面軍司令官:秀吉。
後方・兵站・内政の統括:秀長。
羽柴家は、織田家中でも明確に「別格」になりつつある。
合戦の数。攻略した城の数。動員できる兵の数。
だが、それ以上に重要なのは、
「占領した土地が、荒れずに回っている」
という事実だ。
それは、父の仕事だ。
政の間は、今日も忙しい。
播磨から持ち帰った帳面。
但馬の村々の検地帳。
兵糧の出納。
城の修復費用。
国衆への知行割。
帳面の山は、五年前よりさらに高くなった。
「年貢収納ですが、予定より遅れています」
羽田正親。
近江国出身。元浅井家臣。
父の直属の部下であり、領国経営を任される実務官だ。旧臣団との調整役でもある。
「戦続きでは仕方ありませんね」
父は穏やかに言う。
「無理に締め上げると、来年の作付けに響きます」
「……殿は、甘すぎます」
小堀正次がぼやく。
「秀吉様なら、容赦なく取り立てますが」
父は苦笑した。
「兄者は前線の人間ですから」
「私は、後始末の人間です」
その言葉は、冗談のようで、本質だった。
私は柱の陰から、その背中を見ている。
播磨の山城を歩き回り、村役人と揉め、寺社と折衝し、夜は帳面をつけ続けた男の背中だ。
母は何も言わない。
だが夜になると、灯りの下で縫い物をしながら、何度も父の部屋の方を見る。
私は知っている。
この働き方を続けた人間の結末を。
十年後。
父は病に倒れ、回復しきらぬまま死ぬ。
豊臣政権最大の「静かな損失」。
それが、史実だ。
私は小さく息を吐く。
五歳の身体。
だが中身は、四十年生きた学者だ。
この国は、英雄の力で広がっている。
だが英雄は必ず倒れる。
倒れた後に必要なのは仕組み、制度。
私は机の上の帳面を見る。
どれも父の字だ。
誰にも任せていない。
誰にも渡していない。
播磨の帳面も、近江の帳面も、兵站も、年貢も、城の修復費も。
すべてが父に集中している。
――まずい。
根本的に、構造がまずい。
その日の夕方。
私は父の前に立った。
「父上」
父は驚いた顔をする。
「どうしました」
私は机の帳面を指す。
「これ多すぎる。最近休んでいないようで心配です。」
小堀と羽田が固まる。
父は苦笑した。
「そうですね……」
「だが、仕方がありません」
私は首を振る。
「分けないと」
「人に」
「仕事を」
「仕組みに」
沈黙。
羽田が、ゆっくりと私を見る。
「……若様」
「その言葉、誰に教わりましたか」
「誰にも」
私は答える。
小堀の目が細くなる。
羽田が喉を鳴らす。
私は続けた。
「帳面、三つに分ける」
「蔵の数」
「出し入れの帳面」
「命令の書付」
「毎月、比べる」
「ずれたら、理由を書く」
「書く人と、確かめる人、別にする」
「父上は、大きい数字だけ見ればいい」
言い終えると、部屋が静まり返った。
父は、しばらく私を見つめてから微笑んだ。
困ったように、優しく。
「おまえは……本当に、変わった子です」
そう言って、私の頭を撫でる。
「だが、ありがたい」
私は思う。
この人は、最後まで自分を「道具」として使う。
家族より、統治を優先する。
だからこそ――
私が止めなければならない。
私は頷いた。
「父上は、長く生きないといけない」
羽田が吹き出しそうになる。
小堀が、真顔で言う。
「……その通りです」
父は苦笑した。
「努力しましょう」
だが、その言葉は軽い。軽すぎる。
私は心の中で決めた。
この国の未来を変えるには、
まず、この人の働き方を壊す必要がある。
それが、私の最初の仕事だ。
【人物設定1】
羽田正親は近江出身の武将で、豊臣秀長に仕えた重臣の一人です。正親は賤ヶ岳合戦(1583年)において秀長軍の重要拠点守備を任されるなど、旧浅井領国での軍事・統治実務に通じていました。
また、紀伊国和歌山の城郭築造では普請奉行として藤堂高虎らとともに活躍し、和歌山城・大和小泉城(4万8千石)の城主として領国経営を担いました。秀長からの信頼は厚く、実務型の懐刀として重用されていたと思われます。
作中では、長浜に配置され、領国経営の実務者として活動しており、主人公に対して現場感覚と実務の厳しさを教える、地に足の着いた教育係として関わっていきます。
【人物設定2】
小堀正次は近江出身の武将で、もとは浅井家に仕え、浅井滅亡後は羽柴政権に参加した旧浅井系国衆の代表的存在です。史実では内政・普請・交渉に優れ、実戦よりも行政実務で評価された人物であり、その子が後に茶人・作事奉行として名高い小堀遠州(1579年生)です。
本作では礒野昌員の長女を妻に迎えた正次が、近江豪族層の中心的人物となり、昌員の次女を正妻とした秀長の近江統治を支える内政・制度設計担当の筆頭家臣として位置付けています。検地、年貢制度、城下町整備など、秀長の政権運営を実務面から支える有力なパートナーとして描いています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。
日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
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