第4話 秀吉、登場
城がざわつく、という現象がある。
鐘が鳴るわけでもなく、太鼓が打たれるわけでもない。
だが、人の歩き方が変わり、声の高さが揃い、空気が一段だけ張り詰める。
「羽柴殿が来られるぞ」
という一言が、どこからともなく流れてくる。
私はその日も、母の腕の中にいた。
お初は、女中に髪を整えられながら、少しだけ落ち着かなさそうにしている。
「そんなに緊張なさらずとも」
女中の一人が言う。
「……義兄、ですもの」
母は小さく息を吐いた。
羽柴秀吉。
この城の主であり、織田信長の寵臣であり、成り上がりの象徴。
そして――
史実の主役。
私は、母の胸元からそっと顔を出し、部屋の外の気配を探る。
足音が増えている。
鎧の音。
下駄の音。
廊下の先が、目に見えて騒がしくなっていく。
やがて、遠くから明るすぎる声が響いた。
「おおーい! 参ったぞ!」
空気が変わる。
それまで城を満たしていた雑音が一歩引き、代わりにその声だけが前に出てくる。
――来たな。
襖が開く。
現れた男は、まだ四十前後。
背は低く、噂どおりどこか猿に似た顔立ちだが、実物は思ったより整っている。
だが、それ以上に印象的なのは動きだ。
落ち着きがない。
視線が忙しい。
身体全体が、常に次の行動を探している。
まるで戦場の鼠。
あるいは商人。
「おお、お初殿! 元気そうで何よりじゃ!」
母はすぐに頭を下げた。
「お久しゅうございます、羽柴様」
「堅い堅い! 義妹ではないか!」
そう言って笑う。
声は大きく、態度は軽い。
だが――
私は見逃さなかった。
秀吉の視線が、部屋の広さ、女中の人数、出入り口の位置、窓の高さを一瞬でなぞったことを。
無意識に計算する癖だ。
「おお? これが噂の甥っ子か?」
秀吉が近づいてくる。
母が、私を差し出す。
「秀長様の……子でございます」
「ほう……」
秀吉は、じっと私の顔を覗き込んだ。
距離が近い。
酒の匂いが少しだけする。
だが、目は濁っていない。
鋭い。人を測る目だ。
「……ほうほう」
何かを値踏みするように私を見る。
私は泣かなかった。泣く理由がない。
「小一郎に似て、妙に落ち着いとる赤子じゃ」
褒め言葉か、嫌味か。
判断しかねる。
「名は?」
「竹若にございます」
「竹若か」
秀吉は笑った。
「竹は伸びるぞ。しぶといし、折れにくい」
悪くない評価だ。
やがて秀吉は立ち上がる。
「で、小一郎はどこじゃ?」
母が少し微笑む。
「政の間におります」
「相変わらずか……」
秀吉は肩をすくめた。
「小一郎は、生まれた時から帳面と算盤を抱いておったような男じゃ」
兄弟だけが使う名。
「小一郎」
父――羽柴秀長の幼名。
公の場では決して呼ばれない、私的な呼び名。
「やつは真面目すぎる。少しは楽を覚えればよいものを」
そう言いながらも、その声にはどこか信頼の色が混じっている。
秀吉は母に軽く手を振った。
「では、挨拶がてら政の間へ行ってくる」
そう言って立ち上がり、去っていった。
母は深く一礼した。
部屋に、静けさが戻る。
私は母の胸の中で、考える。
あれが羽柴秀吉。
後に天下を取る男。
そして父は、その弟。
その子が、私だ。
奇妙な縁だ。
私はただ生まれただけだが、生まれた場所は、どうやら普通ではないらしい。
母は私を抱き直した。
少し不器用で、少し慎重で、だが確かに温かい。
政の間
「久しいのう、小一郎」
「兄者こそ」
二人きりになると、呼び方が変わる。
「相変わらず堅い顔じゃな」
秀吉は座り、茶を受け取った。
「子が生まれたそうだな」
「はい」
「見たぞ」
秀吉は笑う。
「面白い目をしておった」
秀長はわずかに眉を動かした。
「……面白い、ですか」
「赤子にしては、だ」
秀吉は茶を啜る。
「泣かぬ。怯えぬ。じっと見ておった」
「それは……」
秀長は少しだけ困ったように言った。
「母に似たのでしょう」
「違うな」
秀吉は即答した。
「お前に似ておる」
「……」
「まあ、育たねば分からんがの」
秀吉は笑った。
「だが、小一郎」
少しだけ声が低くなる。
「お前の子なら、悪くない」
「病に負けず3歳の節句まで生きてほしいものよ、大切にな、小一郎。お初殿のこともしっかり構ってやるのじゃよ」
その言葉には、家族として、兄としての情があふれていた。
秀長は何も言わず、ただ頷いていた。
(第四話・了)
羽柴秀長は史実上、時期により「木下小一郎」「羽柴長秀」など複数の名乗りを用いています。
本作では読者の理解しやすさを優先し、全編を通して「羽柴秀長(のち豊臣秀長)」の名に統一しています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。
日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
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