第3話 母のぬくもり
天正3年(1575年)近江・長浜城
城の中にいると、ありとあらゆる「音」が耳に飛び込んでくる。
カシャン、カシャンと金属が擦れ合う武具の音。
朝夕の調練で響く、足軽たちの野太い叫び声。
車輪がきしむ荷駄の音に、遠くの鍛冶場から規則正しく届く木槌の響き。
淡海の海の波音に混じる、船へ荷を積み込む荒々しい怒号。
耳をすませば、戦の準備、人々の緊張感、そして時代が呼吸する生活の鼓動が伝わってくる。
しかし、それらの喧騒が一切届かず、静謐を保った場所がある。
城の奥。女たちの居所。
私は、その一室で目を覚ました。
柔らかい布の感触
ほのかに香る薬草
湿り気を帯びた木の匂い
障子越しに差し込む光は淡く、父のいた政の間のような張り詰めた緊張感は微塵もない。
ここでは人の声も、廊下を行き交う足音も、まるで吸い込まれるように自然と小さくなる。
弱肉強食の戦国時代にあって、ここは空気のやわらかさが違っていた。
私は今、一人の若い女性に抱かれている。
小さく、温かく、そして――ほんの少しだけ不器用な抱き方だ。
母――磯野お初
その名前は、ここ数日の間に、枕元で交わされる乳母たちの囁き声から知った。
磯野員昌
近江国高島郡を本拠とする有力国衆であり、かつては浅井軍の先鋒を任され、「浅井四翼」の一人とまで謳われた猛将だ。
姉川の戦いで織田の陣を破るほどの奮戦を見せたが、浅井滅亡後は織田に降り、やがて巡り巡ってこの長浜城主・羽柴の旗下へと組み込まれた。
まさに、戦国における典型的な「敗者側の生存ルート」を歩んだ家系である。
そして、お初はその猛将の娘だという。
私は、揺られながら頭の中で前世の史料の引き出しをひっくり返していく。
史実において、秀長の正室に関する記述は極めて少なく、どこの誰だかはっきりわかっていない。
確か、磯野員昌の娘のひとりは、同じ近江の豪族である小堀正次(※のちの小堀遠州の父)に嫁いでいたはずだ。
ならば、いま私を抱いているこの女性は、その本人か、あるいは姉妹か養女だろうか。
いずれにせよ、私の目の前で優しく微笑んでいるこの人は、歴史の教科書には名前が載らない、けれど確かにこの激動の時代を生き抜いていた「生身の人間」だった。
その本人が、今、大真面目な顔で私をあやしている。
そう思うと、なんだか少し可笑しかった。
「……あら、また起きたの?」
母が私を覗き込み、眉を八の字にして少し困ったように笑った。
とびきりの美人、というわけではない。
鼻筋はすっと通っているが鋭さはなく、目元はやや垂れ気味で、唇は薄い。
だが、とにかく表情のすべてが柔らかかった。
声がやさしい。そして何より、一つ一つの所作が、どこか周囲より一拍ほど間延びしているのだ。
常に隙を無くさねば生き残れない戦国の城には、およそ似合わない種類の女性だった。
「この子、どうしても昼と夜の区別がつかないみたいで……」
付き添う乳母が、困り果てたように苦笑する。
「殿に似て、夜型なのかもしれませんね。昨晩も遅くまでお目々が冴えておられました」
「まあ……」
母はなぜか、それを注意するどころか、少しだけ誇らしそうに嬉しそうに頷いた。
(いや、そこは喜ぶところじゃないだろう)と、私は内心でツッコミを入れる。
――この人、思った以上に大物(天然)かもしれない。
政略結婚という名の「人質」同然で城へ上がってきた女にしては、悲壮感も緊張感もまるで見当たらなかった。
織田や羽柴を恐れている様子もなければ、「いつか刺し違えてやる」というような無駄な覚悟の力みすらない。
ただ普通に、この場所で、ごく自然に生活している。
見かねた女中が、そっと声をかけた。
「奥方様、少しはお休みになりませんと。お体に障ります」
「大丈夫です。昼間のうちに、しっかり寝ましたから」
堂々と言い切る母。
戦国武将の妻としての貞淑さは感じない発言だが、不思議と乳母も女中も、それ以上は強く言えずに笑ってしまう。彼女の持つ独特の空気感が、周囲の毒気を抜いてしまうのだ。
母は私を抱き直すと、あやすように部屋の中をゆっくりと歩き回り始めた。
だが、やはり抱き方も揺らし方もぎこちなく、完璧とは程遠い。
ときどき、私の首がちょっと妙な角度になる。
私は泣きもせず、ただ母を見つめる。
浅井という敗者の家臣の娘であると同時に、北近江に根を張る豪族・磯野家の娘。
そして、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの織田家の重臣・羽柴の親族筆頭の妻。
どれほど重い肩書きを背負わされていようとも、私から見れば、この人はただの一人の、愛おしそうに我が子を抱く「新米の母親」でしかなかった。
「竹若、竹若……」
何度も名前を呼んでは、それだけで嬉しそうに破顔する。
ただひたすらに、我が子へ精一杯の愛情を注ぎ込もうと、その温かい声を響かせている。
その響きを耳にするたびに、私の胸の奥が、じんわりと熱くなっていくのを感じた。
磯野家の娘が、羽柴秀長の妻になる。
政治の冷徹な天秤で見れば、これは明らかな「吸収」だ。
北近江に残る旧浅井系を解体し、羽柴の統治下に無力化して組み込むための一手。
だが、当の本人はその重さをあまり感じていないように見える。
重く受け止めないことが、処世術なのか。それとも、単に性格なのか。
どちらにせよ、この人がいることで、父・秀長は少しだけ救われているような気がした。
政略結婚によって嫁いできた妻と折り合いがつかず、戦場や政務に逃げる男など、この時代には腐るほどいる。
妻にしてみれば昔の敵、家を滅ぼした張本人となれば、愛情など湧かず、夫に冷たくなるのもしかたがないとも思う。
私は、自分の家族が愛情で結ばれていることを強く感じている。
この部屋は安全だ。
母の腕の中は柔らかく、気持ちがいい。
城の外では血で血を洗う戦があちこちで起きている。
しかし、ここでは「赤子が起きたか寝たか」が重大事だ。
それが、何よりも安心できる。
母は私の額に軽く口づけをした。
「……ちゃんと、大きくなってくださいね」
母の唯一の願い。
私は、瞬きを一つして応えた。
守るとか、変えるとか、救うとかそれは、まだ先でいい。
今はただ、この場所で過ごす時間を大切にしたいと思った。
母の少し甘い匂い、ぬるい体温、頼りないけれど一生懸命な腕、そして、世界で一番やさしいその声を。
【人物設定】
主人公・竹若の母は近江の有力豪族・磯野員昌の次女という設定です。磯野員昌は浅井家の重臣として北近江一帯に勢力を持ち、浅井家滅亡後、織田家に仕え近江高島郡を所領しました。おそらく旧家臣団の中核として地域社会に大きな影響力を持ったと思われます。
員昌の長女は史実通り小堀正次に嫁ぎ、その子として小堀遠州(1579年生)が生まれます。本作では、架空の次女(お初)が政略結婚として羽柴秀長の正室となります。当時の近江は旧浅井勢力が根強く、羽柴政権にとっては武力制圧だけでなく、婚姻による懐柔と統治の安定が不可欠としたためとしています。
この流れで、小堀正次を、旧浅井系人脈に通じ、秀長の近江経営における重要パートナーの一人という位置付けにしています。
この縁組により、秀長と小堀正次は義兄弟、主人公と小堀遠州は従兄弟の関係となります。主人公は1575年生まれで遠州より年長です。
史実では、員昌は1570年代後半に信長の怒りを買って出奔することになりますが、羽柴との婚姻関係を踏まえ、この事件は起きなかったことにしています。
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日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
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