第2話 父・秀長
●●年( ) 近江・長浜城
目を開けるたびに、世界は少しずつ輪郭を持ちはじめていた。
生まれてから、10数日が経った。
人の声は耳に残り、言葉の端々が意味を帯びてくるようになった。
私は乳母に抱かれ、城の奥へと運ばれていた。
畳の感触。
障子越しの光。
遠くで鳴る太鼓の音。
城の中だということは、もはや疑いようがない。
回廊を進むにつれ、空気が変わる。
人の声が増え、歩調が速くなり、紙の擦れる音が混じり始める。
――政の場だ。
やがて、控えめに開いた襖の向こうから、男たちの声が聞こえてきた。
「……長浜の城下は、ようやく人心が落ち着いてきましたな」
長浜。
その地名を聞いた瞬間、頭の中で点が線になる。
近江。
浅井旧領。
羽柴秀吉が織田信長から与えられた新領地。
そして――
秀長が政務を一手に引き受けることになった場所。
続いて、別の声。
「春までに検地を一巡させねばなりませぬ。信長公の軍勢が東へ動かれる前に」
「三河・遠江の境が、きな臭いと聞きますな」
「武田が出張ってくるなら、今年が山場でしょう」
さらに、低い声。
「京では、公方様よりも信長公の名の方が先に出るようになったとか」
私は、それらの断片を頭の中で並べる。
羽柴が長浜にいる。
東国で武田が動く。
信長は大軍を動員する準備。
朝廷が織田を“天下人候補”として扱い始めている。
この組み合わせから推測できるのは――
織田信長が武田騎馬軍団に決定的な勝利を掴む、長篠の戦い、その年。
私は、心の中で年号を導き出す。
おそらく、天正三年(1575年)
……歴史の大きな節目だ。
そして今は、時代の歯車が音を立てて加速し始める直前。
秀吉が跳ね上がり、
父がすべてを支え、
やがて豊臣という政権が生まれる、その前夜。
私は、襖の隙間から部屋の中を見た。
畳の上に広げられた帳面。
積み上げられた書状。
墨の匂い。
そして中央に座る男。
父――羽柴秀長。
まだ三十代半ば。
細身だが、背筋は伸び、表情は穏やかだ。
その周囲には、数人の家臣が控えている。
「高島郡の村々の石高でございますが……」
「去年より下がっております」
「雨が少のうございました」
父は小さく頷き、帳面に目を落とした。
「……そうですか」
声は静かで、柔らかい。
「用水路の修繕は、どうなっていますか」
「冬のうちに終えております」
父はほっとしたように息をついた。
「それなら、今年は半免にしましょう」
半免。
年貢を半分にする判断だ。
家臣の一人が、思わず声を上げる。
「殿、それでは……収支が……」
父は苦笑した。
「ええ、分かっています」
「ですが、今年は米を取る年ではありません」
家臣の顔を一人ずつ見渡し、穏やかに続ける。
「田が荒れれば、来年も取れなくなります」
「元気な村から、少しずつ戻してもらえばよいでしょう」
「来年、余裕のある形で返してもらえれば、それで十分です」
短期の収奪ではなく、長期の回復。
父はそれを、当然のことのように選ぶ。
別の家臣が進み出る。
「城下の町割りについてでございます。商人が増え、道が手狭になっております」
父は少し考え、微笑んだ。
「では、広げましょう」
即断だが、押しつけではない。
「道が広ければ人が集まります」
「人が集まれば商いが生まれます」
「商いが生まれれば銭が動きます」
「銭が動けば、兵も動かせます」
家臣たちは深く頷いた。
政と戦を、無理なく一本に結ぶ論理。
私は思う。この男は、単なる武将ではない。
父は次の書状を開く。
「浅井旧臣の件ですが……」
「三名が、まだ帰順の証を立てておりません」
父は眉を寄せた。
「……困りましたね」
家臣たちが身構える。
だが、父は首を振った。
「斬らずに済む道を探しましょう」
「田地を預かってはどうでしょう」
「土地を失えば、戦はできません」
「ですが、家族は養えます」
「生きていれば、考え直す時間も持てますから」
殺さず、追い詰めず、機能だけを止める。
乳母が、私の耳元で小さく囁いた。
「殿は……本当に休まれませぬ」
見ると、父の机の隅には、昨夜の食事がそのまま残っていた。
箸もつけられていない。
「丑三つ時まで灯りが消えぬこともございます」
私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。
史実を知っている。
この働き方を、十年以上続けた男の末路を。
過労。
病。
死。
豊臣政権の土台が、音もなく崩れる瞬間。
それは戦場では起きない。
父はふと、私の方を見た。
視線が、几帳の向こうにいる赤子を正確に捉える。
「……竹若」
その声は、政務の時よりも、ずっと柔らかい。
父は立ち上がり、私を抱き上げた。
強い腕。
だが、細く、骨張っている。
「この子を見ると心が安らぐ。疲れも飛ぶわ。」
私を乳母に渡し、また机へ向かう。
その背中を見つめながら、私は理解した。
この男は、国のためなら、命を削る。
誰かを守るために、自分を後回しにする。
それが、美徳であり――
最大の弱点でもある。
私は、心の中で静かに結論を出した。
父を救う方法は一つしかない。
父が抱えている仕事を、分解する。
人に渡す。
そういう仕組みをつくる。
そして父一人に依存しない国を作る。
豊臣政権の弱点は親族衆の極端な少なさだ。古参の家臣がいないことも弱点だが、それよりも血族が極端に少ない。婚姻関係を築くための娘もいない。
そのために重責が秀長に集中した。
羽柴一門の家族をどうにかして増やすこと。
そして父の寿命を出来る限り伸ばすこと。
最後に、秀吉晩年にあのような婚姻と嫡男誕生を防ぐこと。淀君をどうにかしないと。
それができれば、歴史は変わる。
私は赤子の手を、きゅっと握りしめた。
まだ、何もできない。
だが、時間はある。
すべては、まだ始まったばかりだ。
(第二話・了)
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作は初めての投稿作品のため、誤字脱字や表現の拙さ、設定の不整合などがあるかもしれません。
日々推敲しながら加筆修正をしていく予定です。
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