第90話「Snowy_Knife_Art」
※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。
琥珀箱を握りしめる。魔力すら必要とせずに起動するこの機械は、この世界で生活するうえで、なくてはならない存在となっていた。
画面上に時刻が表示され、朝になっていることに気づく。だが、景色は灰色に染め上げられていた。
空の暗雲と、吹き荒れる風と雪、見通しの悪さと既に街灯まで点灯しているため、まるで夜のようだ。
時間が狂ったような感覚に襲われながら、アーノルド・ラシェコフは、隠れ家として使っていた廃屋を出る。ちょうど南地区から西地区へ移動する場所にある、恐らく亜人が使っていただろう建物だ。大型の食品雑貨用品店の脇にある小道を進み、さらに地下に潜らなければ、この建物は見つからない。
昨夜の雨で水没するのではないかと懸念していたが、なんとか耐えきった。あとはこのサフィリアからおさらばすれば、また”趣味”が続けられる。
アーノルドは髭を撫で、高ぶる感情を落ち着かせる。
昨夜は街の様子を見れなかったが、恐らく、自分を探している者は少ないだろう。昨日、たまたま近くを通りかかった冒険者達は、全員レアモンスターの出没情報に夢中だった。
だが、安心はできない。気掛かりなのはキャラバンだ。確かに、自分の手でグランド・オールの団員を殺してしまった。
男を殺す趣味はなかったし、今でも吐き気がする。やはり血を泡いて死ぬのは、女性が一番よく似合っている。一番の化粧だ。自信を持っていえる。
アーノルドは周囲を警戒し、誰もいないことを確認すると廃屋を出る。もしグランド・オールが、仲間が行方不明ではなく殺されていると気づいていたら、この嵐の中でも動き出すだろうか。
いや、きっとまだバレていないだろう。
突風が吹き、冷たい風がアーノルドの頬を突き刺す。雪と雨も相まって、針を刺されたようだ。服は長袖ではあるが生地が薄い。上着すらないこの状態では、体が凍えてしまう。
体を温めるのも兼ねて、サフィリアの道を走る。向かうは南地区、正面入口だった。避難しているフリをすれば、なんなくあの門は通れる。
ここを出たら、次はどこに行こうか。サフィリアよりも治安が悪く、人の生き死にに興味がない、フォルリィアを目指すのも悪くない。あそこは国全体が亜人街のようなものだ。ここよりも、もっと自由に動ける。
楽しそうに顔を歪め、雨と雪で濡れるメインストリートに出た時だった。明かりが見える。何故かこんな大荒れの天気で、馬を走らせている者達がいた。目を凝らすと、武器や防具を装備していない。だが、その服装には見覚えがあった。
グランド・オールの団員達だ。南地区で何をしているのか。まさか商売をしているわけではあるまい。となれば、思い当たるのはふたつ。住民の避難手助け、それか自分を血眼で探しているかだ。
ちょうどその時、近くの建物からふたりの団員が出てくる。両法とも雨具を持っていないため、全身が濡れていた。
「ったく。拭いたらさっさと探しに行けって。人使い荒いぜ」
「しょうがない。門担当になれなかった俺達が悪いんだ。さっさとクソ野郎を見つけて雪見に酒としゃれこもうぜ」
「そんで晴れの明日は、西地区の連中誘って雪合戦てか。最高だな」
ふたりは雑談をしながら雨の中に消えていく。アーノルドは舌打ちした。
自分の存在を相手は探しているらしい。嵐の中で見つけ出そうとするくらい、躍起になっているのだとしたら、捕まったらただでは済まない。かといって、今日この場でまごついていても、明日はグランド・オール総出でサフィリア中を探す。時間の問題だろう。
何があっても今日、この場から去らなければならなくなった。アーノルドの逃走経路の中から、南と西が消える。先程の会話から、西地区にもいるらしい。
となると、北か、東か。
アーノルドの姿は薄暗い路地に消えていく。
向かったのは、北地区だった。
♢ ♢ ♢
奥歯が揺れる。さらに天気は悪くなり、降ってくる雪も、その量を増している。このままではいたずらに体力を損耗するだけだ。初老のアーノルドのスタミナは尽きかけていた。
両手をすり合わせ熱を保ちつつ、荒い呼吸を繰り返しながらなんとか北地区までたどり着く。まともな移動手段はなく、自分の足で来たため、かなりの時間と体力を使っていた。
呼吸を整えようと、口から一気に息を吐き出す。白い吐息が闇に溶け込んでいく。髭が凍りつきそうだった。
だが、こんなに寒いのに、背中の汗は一向に止まらない。走ったせいで、体が熱くなっているわけではない。
不安と緊張による発汗。いつの間に荒い呼吸を止め、足音を立てないよう移動していた。
アーノルドの頭の中に新たな逃走図が描かれる。
北地区にまでグランド・オールの手が伸びているとは考えにくい。北地区に入ることができれば、危険だが飛竜を飼っている場所に行ける。鍵の開け方も知っている。悪天候だが、無理やり奪って飛ばせば、国の外には行けるだろうと考えた。
だが、その計画は一瞬で霧散する。
「どうだ! 怪しい人物はいたか!?」
突然の大声に、物陰に隠れる。ゆっくりと物陰から、声のした方向を見ると、多数の冒険者が集まっていた。
「いいか。絶対犯人逃がすなよ!」
「わぁってるって。報酬は見つけたパーティが総取りだからな」
「勇んで死ぬなよ!」
冒険者がなぜ北地区にいるのか。報酬、自分の首に、それだけ魅力的な物がかかっているのか。
マズい。アーノルドが顔を引きつらせる。
ここは非常にマズい。冒険者が集まっているのだとしたら、透視など使われたら一発で居場所が露呈する。
足音を立てないよう後退りする。雨水に片足が入り、冷たさが靴を突き抜けてくる。だが、そんな冷たさなど微塵も気にしてはいなかった。
先程の口ぶりから、複数のパーティがいることは確かだ。
踵を返し、駆け出す。不安を煽るように暗雲から雷の音が聞こえてくる。顔が、全身が雨と雪で濡れていく。纏わりつく冷たい水は、なぜかべたついていた。
残された道はひとつしかない。自然と、足は東地区へと向かっていた。
水溜りを派手に踏みつけ、水飛沫が舞った。後方から聞こえてくる、冒険者達の声を掻き消すような大きな音が、周囲に響いた。
♢ ♢ ♢
東地区に着いたはいいが、アーノルドの体は、寒さのせいで限界を迎えつつあった。どこかで雨宿りをしようとしたが、近くから声がするだけで移動を余儀なくされていた。
建物の陰に隠れ、息を整える。屋根があったため、これで雪と雨は多少防げるはずだ。
額に浮かんだ汗を拭う。
なぜこれほどまでに、サフィリアに住む者達が自分を見つけようとしているのか。今までは生き死になど気にしてなかったではないか。
冒険者の仲間など、死んだら替えがきくものだ。いちいち仲間の死に嘆いていたら、精神的にもたない。
冒険者達は、ほとんどがそう考えているはずだった。だから今まで殺人を犯してきても、誰も気にしなかった。気にしていたとしても、誰かが助けようとはしなかった。
なのに、今回は違う。
アーノルドの脳裏に、最後に殺した金髪の魔法使いの死に顔が浮かぶ。
「お前のせいか」
呟いて、東地区の住宅街を走る。家からの明かりが若干道を照らしており、街灯も多いため、他地区に比べて景色は明るかった。照らされる雪と雨は、どこか幻想的ですらある。
地面を踏み、門へ繋がる道を走り続ける。そしてしばらく進み続けたところで、異変に気付く。
誰もいない。キャラバンも、冒険者も。人の気配がしないのだ。
ありえない。3地区の守りを固めていたのに、東地区だけ何もしないなんて、そんなことはありえない。
いつの間にか足が止まる。それを見越していたかのように、目の前から陰が現れる。
身の丈程の大剣を肩に担ぎ、漆黒の鎧を身に纏った大柄の冒険者が、姿を見せる。
その姿は、まるで悪魔のそれだ。アーノルドの瞳に、冒険者の姿は死神のように映る。
短い悲鳴を上げ、来た道を戻る。ジグザグに道を進み、自分の姿を捉えることができないよう動く。後方から具足の音が聞こえ、やがて聞こえなくなった。
かと思えば、再び正面から鎧の騎士が出現する。アーノルドの顔が引きつる。まさに、蛇に睨まれた蛙のような気分だった。
無理だ、殺される。逃げ切れない。そう思っても、アーノルドは逃げ出していた。再び道を無茶苦茶に進み、しばらく逃げたところで正面から死神が出てくる。
終わらない地獄の鬼ごっこを繰り返す。息が乱れても、もう止まれない。
それを繰り返していくうちに、違和感を覚える。
なぜ、攻撃をしてこないのか。こんな無防備な背中を何度も曝け出しているのに、剣や魔法を使わないのはおかしい。
道を出て、正面に目を向ける。そこには人がひとり、立っていた。
そして気づく。この通りには見覚えがある。金髪の魔法使いの家と、グランド・オールの団員を殺した通り。
自分は誘いこまれていたのだ。この場所に。
目の前にいる冒険者と、自分を引き合わせるために、あの騎士は動いていたのだ。
「……よぉ。クソガキ」
アーノルドは目の前にいる、両手にナイフを持ち、殺意が込められた瞳を向ける冒険者に声をかける。
「……よぉ。会いたかったぜ」
レオンの、氷のように冷たい言葉と視線がアーノルドを捉える。
雪が相対するふたりの頬を濡らす。雨が容赦なく降り、ふたりの体を冷やしていく。
だが、レオンの体は熱くなっていた。
「アーノルド、っていうんだな。あんた」
「だとしたら、なんだ」
「聞きたい。あんたが、魔法使いを狙った連続殺人鬼なのか?」
アーノルドが笑い声を上げ、空を見る。
「どうせ嘘ついても殺されるだろうから言ってやるよ。そうだ。俺が殺してきた」
「……なんで、こんなことを」
低い声で問うと、顔に似合わない高い声が返ってくる。
「一言でいうなら、趣味だ」
「趣味?」
「最初はナイフの切れ味を試したくってな。生肉やら魔物で我慢していた。だけどよ、人を切ったらどうなるかを試してなくてよ。もちろん、生きた人間使うわけにもいかねぇから死体を使っていた」
昔を思い返すように、うろうろと動きながらアーノルドは話す。
レオンは黙って言葉に耳を傾ける。
「でだ、ある時。魔法使いの女が、「仲間の武器を売りたい」って言ってきてな。それでナイフを買い取った。その時、このナイフはどれくらいの切れ味を持っているんだろうって思ってよ」
狂気に染まった目がレオンを見る。
「気づいたら手が赤くなっていたよ。それが最初だった」
「どうして、髪を奪ったんだ」
「「実験台になってくれてありがとう」って意味を込めてたんだよ。だから新しくできたナイフの柄に、キーホルダーとして髪の毛を付けてきた。何の毛か聞かれたら、馬の毛って答えてやったぜ」
口角を上げる。
「なぁ、見逃してくれよ。もし見逃してくれたら……そうだな。最高のナイフをプレゼントしてやる。柄には、この前殺した魔法使いの金髪……」
「もういい」
レオンが冷たく言い放ち、武器を構える。
「もう喋るな。お前」
「……やる気かよ。できんのか、お前に。人を殺せんのか?」
「ああ。殺してやる。殺してやるから……」
歯を剥き出しにし、憤怒の表情を浮かべる。
「覚悟しやがれ。クソ野郎」
アーノルドは一度視線を下に向けると、笑みを消し、腰に装備したケースからマチェットを抜く。
「ある意味、お前のせいで俺も死にかけたからな。恨みがないわけじゃあない。覚悟しろよ、クソガキ」
ふたりの殺意が交わる。
ナイフ使い同士の死闘は、アイリが住んでいた家の前の通りで、行われようとしていた。
そして、開戦を告げるように、空から雷の音が鳴り響く。
両者が白い息を吐き出し、片方が切先を向け、動き始めた。




