15.過去
そこは森の奥地でありながら大きく開けた土地だった。
丸く地面が抉られた跡があり、その部分には丈の低い草ばかりが生え、中央に一本だけとても大きな木がたたずんでいた。
「桜がどうして……?」
円の端で箒から下りたシーベスは、その場で立ち尽くした。彼女の隣に立ち、フランシェルは花盛りの見事な桜の大木を遠目に眺める。
芽吹いてどれほどになるのか。
その桜はとてもきれいで、きれい過ぎて――哀しかった。
「あそこには次元竜が眠っていたはずなのに。どうして、そこに桜があるの? どうして……?」
目の前に広がる光景が信じられなくて、シーベスは呆然と「どうして」という言葉を繰り返す。けれど、この場には二人しかいない。フランシェルはその答えを持たない。
「きれいな桜だな。あそこに次元竜は眠っていたのか?」
シーベスは答えない。答えることができない。
今でも眠っていると思っていた場所にあるのは、なぜか大きな桜の木だけ。
彼女がこの場を訪れたのは、あの時が最後。
次元竜は怒りを解き、目を覚まして次元の狭間へと帰ったというのか。それともあの出来事がすべて夢だったというのか。
わからなくなってしまった。
途方に暮れて立ち尽くしたまま、シーベスは桜の大木を見つめる。
「あのさ。訊いていいか? 次元竜が怒る切っ掛けを作ったのは人間だって言ってただろ。その切っ掛けってなんだったんだ?」
隣を見れば、フランシェルが先程の自分と同じように、桜を凝視していた。
シーベスは彼に後で話すと言った自分の言葉を思い出す。
混乱した頭の中を整理するためにも、彼に話すのは良いような気がした。人間の姿と猫の姿を持つ、己を人間だと主張するこの少年に――。
シーベスは草の上に膝を抱えて座り、彼女が知っているこの場で起こった過去の出来事に思いを馳せる。
フランシェルもまた彼女に倣うようにその隣へと座り、その場で足を組み、聞く体勢を整える。
「今から二百年以上前のことよ。一匹の次元竜が伴侶を探してこの森を訪れた。彼らは普段、次元の狭間で暮らしている。だけど、数百年に一度の繁殖期の間だけ、地上に姿を現す。ちょうどその年は次元竜の繁殖期だった。その年老いた次元竜は、婆様と気があってここでしばらく滞在していたわ。だから、私も彼のことは少し知っている。とても穏やかな良い竜だった」
片手で足元の草を弄びながら、シーベスは昔を懐かしむ目で淋しく笑う。フランシェルは無言で彼女を見つめていた。
「フランは知ってるかしら? 竜には触れてはいけない鱗があるの。逆鱗と呼ばれるその鱗を、他の竜と同じように次元竜もまた持っていた。それはとても大切な物で、彼らにとっては力の源でもあった」
シーベスが小さく息を吐き出す。
フランシェルはその先の話がなんとなく理解できてしまい、
「……どっかの間抜けな人間が、そんなこととは知らずに逆鱗に触れたのか? よりにもよって、次元竜の逆鱗に」
この世の終わりを見たような表情をして呟いた後、片手で自分の顔を覆い、天を仰ぐ。
それは、あまりにも愚かな行動だった。
愚か過ぎて、同じ人間として非常に恥ずかしい限りだ。
「そうよ。あの日、三人の人間がこの場所に来たの。当時はまだ、今ほど森は人間に対して排他的ではなかったから、何の因果か、この場所まで来れてしまった。次元竜は眠っていて、私は側で花を摘んでいた。だから、あの時どうして彼が怒ったか見ていたの。今よりも無力だった当時の私は、ただ見ていることしかできなかった。彼らの目的は竜の鱗で、逆鱗が目当てではなかったようだけど、その内の一人が逆鱗に手を触れてしまった」
当時の光景を鮮明に思い出したのか、シーベスが顔を顰めて唇を噛み締める。
二人の間に気まずい沈黙が流れた。涼やかな風が草地を通り抜け、それによって揺れた草がサワサワと音を立てる。
「眠っていた次元竜は、人間が傍に来たことに気づいてなかったのか?」
沈黙を破り、ぽつりとフランシェルが問う。シーベスは吐息して、首を横に振った。
「わからない。けど、逆鱗に触られるまで抵抗らしき動きはしていなかった。たぶん熟睡していたのね。とても穏やかな性格で、あまり細かいことを気にしない方だったから。個体差はあるけど、竜からすれば人間なんて小さくて踏み潰せそうな大きさでしょう? 小さき者の動向なんて、些末事で済ませてしまったのかもしれないわ」
「………」
次元竜という、伝説の生き物。
そう。伝説がつく生き物なのだ。
だというのに、なんてアバウトな……。
己の中で出来上がっていたイメージを作り直すべきか。
フランシェルは一瞬、本気で考えた。
シーベスを見れば、彼が受けた衝撃などまったく理解しておらず、こちらの反応を窺っている。
重苦しい話をしていたはずなのに……。
フランシェルは肩を落として項垂れた。その口から疲れたようなため息が零れる。
シーベスは不思議そうな顔で首を傾げる。
「何をそんなにがっくりしているの?」
言葉にしようのない疲れを誤魔化すために、彼は苦笑する。
「俺のことはいいから。逆鱗に触れた後、どうなったか教えてくれるか?」
不思議そうにしながらも、シーベスは話を再開する。彼女に手によって千切られた草が、風にさらわれ空中を舞った。
「それは一瞬だった。逆鱗を人間に触られた途端、次元竜の閉じられていた瞳が大きく開かれたの。その瞳は見たこともないほど真っ赤に染まっていたわ。その場の空気も凍てつくようなものに一瞬で変化した。風は渦巻き、咲き乱れていた花々を散らしながら地面をも抉った」
空中を舞う草を、フランシェルの視線が追う。それは月の光が照らす中、ひらりひらりと優雅に舞った後、少し離れた場所へと着地して、地に生えた草と見分けがつかなくなった。
「もしもの時は絶対に側にいてはいけない。初めにそう言われていたから、私はその場をすぐに離れた。婆様に異変を知らせなければと、家まで急いで戻ろうとした」
「……その間抜けなことをやらかした人間達は?」
「次元竜の怒りに触れて死んだ……って言ってやりたいけど、婆様に助けられた。婆様は立派な魔女だったから、異変に気づいてすぐにこちらへと向かったみたい。家に戻る途中で会った婆様は、すべて知っていたわ。二人で次元竜の所へと戻った時、その側では一人だけ逃げ遅れた人間が腰を抜かしていた。他の人間の姿はもうなかった。逃げ遅れたその人間は、次元竜に踏まれそうになる寸前だったけれど、婆様がその場に飛び込んでいって助け出したの。私はその人間を婆様に頼まれて森の外まで送っていった。だけど、そうしてからこの場に戻ってきた時には、すべてが終わっていたわ」
「すべてが終わっていた?」
訳がわからないと言葉を繰り返したフランシェルに向かって、シーベスは生真面目に頷き、月明りに浮かび上がった満開の、花弁が散り始めた桜の大木を見つめる。
「言葉の通りよ。今、桜がある場所で次元竜は何事もなかったかのように眠っていたし、婆様はその側で息も絶え絶えの状態で倒れていた。人間さえ来なければ、婆様はここで死ぬことはなかった。次元竜が怒り出すこともなかった」
涙はもう出ない。
悲しみも、悔しさも、この胸に鮮やかに残っている。
けれど、いくらその出来事を恨もうと、過去は変えられない。
死した者は還ってこない。
シーベスは風によって舞う、桜の花弁を静かに見つめていた。その瞳にはもう戸惑いはなく、ただ悲しみだけが映し出されている。
フランシェルは沈黙した彼女の視線をたどり、同じく静かにその光景を見つめる。
穏やかな風が通り抜け、草を揺らし、二人の視線の先で桜の花弁がひときわ艶やかに舞い踊る。
「桜の側まで行ってみましょう」
シーベスは立ち上がり、服についた土を払う。ゆっくりとした足取りで進む彼女に合わせるように、フランシェルもまたその隣を歩く。
二人並んで、傍らから桜の大木を見上げる。その幹は何人もの大人が手を伸ばして囲まなければ届かないほど大きく、堂々として迫力があった。
気圧される、というのはこういうことかも知れない。
頭の片隅でフランシェルはそう思う。
「やっとここに来る気になったか。長かったねぇ」
唐突に声が降ってきた。
良く見ると花に紛れるようにして、大木の枝に女が一人、腰掛けていた。その姿を見つけたシーベスが信じられないとでもいうように、その瞳を見開く。
「婆様ッ! どうして婆様がここにいるの!」
悲鳴のような叫び声がその唇から零れ落ちる。シーベスは手に持っていた箒を落としたことにすら気づかない様子で、ただ、枝に腰掛ける女を見つめていた。




