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14.竜の住処

時を少し戻し。


谷に着いたシーベスは、その縁から谷底に向かって叫ぶ。

「ギーザス、お願いがあるの。聞いてくれる?」

反響する声が消えた頃、谷底からアルトのよく響く声が返ってきた。

「なんだい、シーベス。あんたには借りがある。あたしにできることならなんなりと」

声と共に上がってきた影に、彼女は笑顔を見せる。


「ありがとう。もう少ししたら、この谷に人間が谷底に向かって飛び込んでくる予定なの。だから、その人間を空中で受け止めてくれる? 上から見ていて、受け止めたとは見えないように。できるかしら?」

「ああ、いいよ。それくらいならお安いご用さ。……にしても、珍しいじゃないか。あんたが自分から人間を助けようとするなんて」


カラカラと笑う声の持ち主を睨みつけ、シーベスはそっけなく言い放つ。

「私だってたまにはそういうこともあるわよ。じゃあ、よろしくね」

次の段階に取りかかるべくそこを離れた彼女は、風上のフランシェルが来るはずの方角からは死角にあたる茂みに、隠れるようにして座り込んだ。

「風の精霊、心静めて穏やかな静寂を。水の精霊、谷を覆う沈黙を」

その呪文に反応するように少しずつ風の威力が弱まり、谷に霧がかかる。


鞄から小さな子瓶を取り出し、フランシェルが剣士達を引き連れてこの谷まで来ることを、シーベスは息を潜めてじっと待つ。

すでに賽は投げられた。

彼は夜光草の種の光を頼りに、着実に谷へと近づいてきている。

幸か不幸か。こんな時にも魔女の祝福の効果でその気配が掴めた。


少し待てば、耳にも複数の足音が聞こえてくる。それとともに人の怒声も。


「王子はどこだ? ウロチョロと忌々しい」

「いた。あそこだ」

「できれば生け捕りにしろとは言われているが、無理なら殺せという指示だ。外傷は目立つ場所につけるな」


遠くからでも聞こえてくる声。それはとても不愉快な言葉の数々だった。

木々の間からフランシェルが姿を現す。夜光草の雄種をたどっている彼は、そのまま谷の縁へ向かって走っていく。その少し後を男達が追っていた。


あと一歩。

そこで谷に落ちるという所で、唐突にフランシェルは立ち止まる。くるりと後ろを振り返り、後を追ってきた男達に対して、彼は不敵に笑い掛ける。


「あんた達にやる命はないよ」


彼に躊躇いは微塵も感じられなかった。その姿はすべり落ちるように谷底へと消える。

薄らとした月の光を受けて、一瞬金色の光を放った何かが草の上に落ちた。


男達は止まり、縁から谷底を覗き込む。だが、満月の夜とはいえ薄らと霧が立ち込めていたため視界はあまり良くなく、深い谷の底は暗くてまったく見えない。

そこから落ちたフランシェルの姿を視認することは不可能だった。


「落ちたか」

「これじゃあ生きてないな」

「何か証拠になる物は……あった。隊長、王子が所持していた指輪を見つけました」

「よくやった。諸君、では行くぞ。この深さでは王子も生きてはいまい。さぞや王妃様もお喜びになるだろう。褒美も弾んでくださるさ」


あっさりとフランシェルの死を信じ込んだ男達は、ぞろぞろともと来た方角へと去っていく。彼らの持っていた松明の明かりがそよ風にユラユラと揺れながら、小さくなっていった。

シーベスが手に持っていた子瓶の蓋を開ける。彼女の意思に従うように、風がその中の粉をさらい、霧に紛れて男達へと空気中に紛れ込んだ粉をまき散らす。

男達の中では誰一人、その違和に気づく者はいなかった。


「遅効性だけど、確実に周りにも効く忘却粉。特別版。効果は一週間後から。念には念を入れておかないとね」


シーベスは男達が去った方角を見ながら静かに笑う。

計画は上手くいった。あとはあの男達が国に戻れば、自然と浸透していく。こちらはただ、待てばいい。

その姿が完全に見えなくなり足音も聞こえなくなってから、彼女は縁まで移動して谷底を覗き込む。


「フラン、大丈夫? ギーザス、しっかり受け止めてくれた?」

声が反響するだけで返事はない。首を傾げてどうしたのかと訝しんでいると、谷底から上昇してくる影が見えた。

「シーベス、頼まれていた人間とはこれでよかったか?」

ギーザスがフランシェルを背に乗せ、シーベスの隣に降り立つ。強張った表情のフランシェルがその背から這うように下り、不思議そうな顔をしているシーベスを睨んだ。

「俺、本気で食われるかと思った。まさか落ちた先に竜がいるなんて……なんで先に教えてくれなかったんだよ」


落ちる途中で拾ってくれるという話は聞いた。だから、フランシェルは躊躇いもなく飛び込んだ。

これは自分を生かすために、わざわざシーベスが考えた策だ。他に最も簡単な方法があったのに、彼女はそうしなかった。だから、彼は彼女の言葉を信じたのだ。

だが、まさか空中で自分を拾ってくれる存在が竜だとは考えてもいなかった。彼は箒に乗ったシーベスが自分を回収すると思っていたのだ。予想外も甚だしい。


「ありがとう、ギーザス。突然こんなことを頼んでごめんなさいね」

ひとまずフランシェルの文句を無視して、シーベスはギーザスに感謝の意を伝える。

「なぁ~に、あんなことぐらい頼み事にもなりゃしないよ。気にしなさんな。それじゃあ届けたことだし、あたしは帰るよ」

そう告げてギーザスは谷底の自分の住処へと姿を消した。

その姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、シーベスは恨みがましい視線を送っていたフランシェルを見る。


「言わなかった? 竜の住処と呼ばれているって」

「聞いたけど、まさか本当に竜が出てくるとは思わないじゃないか」


フランシェルは不貞腐れた様子で地面を蹴る。

「怖がる必要なんて微塵もないと思うんだけど……。皆、気の良い竜達よ。体格が大きいからか誤解されがちだけど、竜が人間を食べることなんてないし。そもそも、彼らは食物自体あまり口にしない。この森に住む竜達は、森に満ちた精霊の気を食べて生きてるの」

意外な言葉にフランシェルは目を見張る。


「竜って言ったら肉食だろ?」

「そんなこと言うのは人間くらいよ。それは思い込みというものだわ」


先程まで隠れていた茂みからシーベスは箒を持ってくると、

「ちょっと付き合って欲しい所があるんだけど、一緒に来てくれる?」

少し硬い表情で問い掛けた。

フランシェルに異存はない。促されるままに彼女の後ろに乗り、静かな森の中を進む。


「どこに行くんだ?」


沈黙に耐えかねたフランシェルが問う。


「……次元竜が眠りについた場所」


少しの間を置いて、シーベスから淡々とした簡潔な答えが返ってきた。

フランシェルは困惑する。話し掛ける言葉も浮かばず、彼も沈黙した。

森はどこまでも静かだった。そして、行き先に近づくにつれ、その静寂は増していった。



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