11.森で眠りし者
「風の精霊があまりに騒ぐから見に行ってきたの。そしたらこの森を囲むように剣を持った集団が十数個いたわ。いちおう隠してはいたけど、あれだけの集団だもの。ボロの一つや二つあって当然。あなたの指輪に彫られた紋章と同じ物が見えた。あの集団の話だと、夜啼き鳥が第一声を発する時刻にいっせいに火をつけるって。このままだとこの森すべてが焼かれてしまう」
その話が本当なら、作戦決行まであと二時間時しかない。
「嘘だろ。俺一人消すためにそこまでやるか? 下手すれば、国際問題だ。国が潰れるぞ」
そんな馬鹿な、と素っ頓狂な声を上げ、全身の毛を逆立てたフランシェルを、シーベスは小突く。
「冗談でこんなこと言えるわけがないでしょ。これが嘘だったらどんなによかったか。なんとか止めさせないと大変なことになるわ」
「そうだよ。この森に住む者すべてが焼け死ぬことになるじゃないか」
「それに関しては、それぞれに知らせを送ったから大丈夫。こういう時はお互い様だから、普段は仲の悪い種族同士も協力する体制は出来ているの。だから、そっちの方はなんとでもなるわ。慣れ親しんだ住処が無くなるのもとても困ることだけど、そうじゃなくて――この森だけじゃ済まなくなる可能性があるのよ。人間達よりもそっちの方が厄介だわ」
心なしかシーベスの顔色が蒼白だ。その表情は苦悶に満ちていた。
彼女が何を心配しているのか、フランシェルはわからない。だから、彼は眉を顰めて訝しげに問い掛ける。
「他に何があるんだよ?」
「森がこんな大々的に被害を受けてしまったら、たぶん、彼が目覚めてしまう。そうなったら誰にも止められない。今度こそ歪みきった空間から、世界が崩れてしまうわ」
胸元で両手をギュッと握り締め、彼女はうわごとのように呟く。
一方、フランシェルの意識は冷めていく。
あまりにも話が大きくなりすぎて、逆に現実味がない。困惑気味に、髭がピクピクと動いていた。
「彼って誰だよ?」
「次元竜よ。あなただって名前くらい聞いたことがあるでしょう?」
確かに名前だけは聞いたことがある。どんな竜かも知っていた。
だが――。
「あれはお伽話の中にだけ存在する竜だろ。それが本当にいるって言うのか? しかも、この森に!」
フランシェルは信じられなくて問い返す。
「ええ、いるのよ。この森の最奥で、今は眠っている。婆様が命をかけて怒り狂った次元竜を眠らしたから、今、この森はここに存在している」
シーベスは唇を引き結んだ。その顔は今にも泣きそうに歪んでいたが、彼女はその思いを振り切るように頭を振り、フランシェルをまっすぐに見つめる。
「今は時間がないわ。知りたければ後ですべて教えてあげる。そんな理由が無くても、この森を燃やさせるわけにはいかないの。私にとっても、森に住む他の種族にとっても、大切な居場所だから」
「……そうだな」
「どうすれば火が放たれることを止められるかしら。なんとかしないと――」
もどかしげにシーベスは爪を噛む。落ち着きなく視線を彷徨わせ、何か良い方法はないかと思考を巡らせる。
フランシェルは静かにそんな彼女の様子を見ていた。その瞳には焦りの欠片もなく、何かを決意した意志のみが宿っている。
だが、シーベスはそれに気づかなかった。焦りが彼女の瞳を曇らせていた。
「今夜は満月だろ。もう月も出ているはずだ。人間に戻る協力をしてくれよ」
唐突にそう告げ、入口まで移動したフランシェルが器用に扉を開けて外に出る。何をのんきなことをと思いつつも、シーベスは彼の後を追って外に出た。
少しだけ開けた場所に建てられた家の周囲は、月明かりが降り注いで十分に明るい。
満月の光を浴びた彼の身体はぼんやりと光と纏い、その輪郭はぼやけていた。
「俺の先祖について調べたなら、猫から人間になる方法も知ってるだろ?」
「いちおうはね。不安定な変化を解くことは自力ではできない。月の光だけでは足りない。聖なる乙女の口付けが必要だって書いてあったけど……それって何?」
書物の言葉が抽象的すぎて、何を示しているのかシーベスには理解できなかった。
「別にそんな大仰なものじゃないさ。普通なら母親が子供の頬に口付けることで人間に戻すんだ。けど、俺の場合小さい頃に母親は亡くなったから、母親の他に唯一この事実を知っていた乳母が代わりをしてくれていた。だから――」
言い淀み、フランシェルがシーベスから視線を外す。
だが、彼の言葉から何を望まれているかなど、十分推測がつく。
「もしかしなくても、私にそれをやれって言うの!?」
目を丸くしたシーベスは素っ頓狂な叫びを上げ、複雑そうな表情になる。その声を聞いたフランシェルはふうっと息を吐き出してから、開き直ったかのように彼女にまっすぐな視線を向けた。
「そうだよ。ここには俺とあんたしかいないだろ。時間が無いんだ。何も口にしてくれって言ってるわけじゃない。しかも、今の俺は猫だ。助けると思って協力してくれ」
深々と頭を下げ必死に頼む姿に、シーベスは唸った。
確かに口にしろと言われているわけではない。しかも、本人の言う通り、今の彼は猫でしかない。
だが、魔女にとって口付けは深い意味を持った。それはもう、人生を覆すような深い意味を。それが頬だろうとも、相手が同性でない限り関係ない。
それが動物にまで適用されるかは微妙な所だが、彼は人間から隔世遺伝で生まれた猫族である可能性が高い。そうなると適用範囲内である気がするのだ。
「早く。時間が無いだろ」
フランシェルは魔女の事情を知らない。だから、シーベスがここまで渋る理由がわからない。
彼の言葉通り、時間は無い。こうしている間にも過ぎていく。
なぜ彼が今、人間の姿に戻ろうとしているのか。
その理由を深く考える余裕もなく、シーベスは非常事態であることを言い訳にして覚悟を決めた。
フランシェルの頬に唇で軽く触れ、すぐに離れる。
その時――。
シーベスは顔面に白い粉を投げつけられた。避ける暇もなく、彼女はその粉の直撃を受ける。
一瞬の油断。
その粉が何か気づいた時には、もう遅かった。そこでシーベスの意識は途切れる。
「戻してくれてありがとう。あんたが目覚めた時にはすべて終わってるよ。じゃあな、シーベス」
そこには青灰色の瞳と黒い髪を持つ十六、七歳の少年が立っていた。首には猫の時と同様、鎖に通された指輪が掛かっている。
そして、その手には先程まで白い粉の入っていた小瓶が握られていた。
フランシェルがシーベスに投げつけた白い粉は、彼女の所から失敬した眠り粉だった。
彼には猫に変化する意外にも、普通の人間とは違う能力が備わっている。
眠り粉をこっそり隠し持っていた彼は、己が人間の姿に戻った瞬間を狙って、隙だらけだった彼女の顔に向かってそれを投げつけた。
粉の直撃を受けた彼女は、眠り粉の作用で気を失うように眠りにつく。
意識を失い倒れてきたシーベスの身体を抱き止め、そっと草の上に寝かす。今の時期なら外に寝かせていても風邪をひくことはないはずだ。
眠る彼女の頭を撫で、すべての思いを振り切るように踵を返して走り出す。
一番手っ取り早い森を守る方法は、フランシェルがこの森から去ることだった。ただ、去るのではなく、外で待ち構えている集団に最低でも姿を目撃させる必要がある。本物だと認識させる必要がある。
その集団に捕まる方が最適な方法かもしれないが、彼はこの期に及んでやはり生きたい。
だから、最期まで足掻く。
シーベスは優しい。
彼女は森で拾っただけの、この騒動の元凶である彼を守る対象に入れていた。彼女の頭には彼をあいつらに差し出す、という考えは微塵もないだろう。
だからこそ、フランシェルが実行しようと考えている分の悪い賭けを知れば、彼女は確実に止めるはずだ。
情けないことに彼女が実力行使に出た場合、彼には対抗できるほどの力がないことは、昨夜の一件で知っている。だから、卑怯だろうがこういう手段に出るしかなかった。
フランシェルは今になって、森に逃げ込んだことを心の底から後悔していた。
無関係な心優しい魔女を、この森を、己の抱える醜い争いに巻き込んでしまったことに――。
これは自分の問題だ。だから、今更だろうと自分の手でケリを付ける。
そんなことを考えながら、フランシェルは森の木々の間を俊敏に駆けていた。死地へと向かってひたすら、ただ、森とその森を守る魔女の無事を願って――。




