10.猫の立場
昼間。
翼人族の集落の者達が訪れ、昨夜のお礼だと言って保存のきく木の実や干し肉などの食料をたくさん置いていった。訪問者はその者達だけで、彼らが帰った後の魔女の家は、再び穏やかな静寂を取り戻す。
訪問者の対応をして昼食を食べる以外、フランシェルは籠の中で惰眠を貪っていた。
夕方。
「ちょっと出掛けてくるわ」
やっと起きてきたと思ったら、険しい顔をしたシーベスは慌しく箒を掴み、どこかへ出掛けていった。
外はいつの間にか強い風が吹き始めていた。窓が風でガタガタと鳴っている。
それは、嵐の前触れのような風だった。
フランシェルは顔を上げ、窓の外を見つめる。シーベスの姿が消えた方角を、彼女の姿が見えるわけでもないのに凝視する。
言い様のない不安を彼は感じていた。何か良くないことが起こるような、そんな予感があった。
日が完全に暮れ、辺りが闇に染まった頃。
シーベスが帰ってきた。だが、その表情は硬く強張り、青ざめているように見えた。ランプの光の加減のせいではないはずだ。
何があったのかフランシェルが問う前に、彼女が口を開く。
「……あなた、いったい誰に命を狙われているの?」
椅子に座りもせずに、彼をまっすぐ見つめる。その瞳が嘘は言うな、と訴えていた。
彼女の目線となるべく近くなるようにフランシェルはテーブルの上に飛び、ちょこんと座る。それでも話す覚悟がなかなかつかないようで、少し視線を彷徨わせていたのだが、ついに仕方ないとでも言いたげに嘆息してからシーベスを見た。
「俺の出身はあんたの指摘通り、南東の王国だ。昨夜の男達、騎士だって言ってただろ? そこの騎士なんだよ。で、俺の命を狙っているのは、そこの正妃」
フランシェルは嘲笑していた。猫の顔のわりに表情豊かなのは良いが、その笑いは容認できそうにない。
シーベスは眉を顰めたが、問いたいことはまだ残っていた。
「なんでそんなことに……?」
思ったより、問う声は淡々としたものになった。
今もフランシェルの首に提げられている、指輪に刻まれた模様。
それが何か、シーベスは思い出した。
模様は南東の王国の国章だ。複雑なそれを細部まで小さな指輪に刻んだ物など、一般人の持ち物ではない。彼は王族なのだ。
それほどの立場に居ながら、王国の王妃に命を狙われ、騎士まで差し向けられるほどの理由は何か。
その理由によって、自分の取るべき行動を決めるつもりだった。
「知ってるか? あの国の王は今、病に伏せってる。医者があと一ヶ月も持たないと言っていた。だから、次の王が必要になるんだ。王には息子が二人いた。若くして亡くなった前正妃の息子と、その後に側妃から正妃になった現正妃の息子。歳は前正妃の息子が数ヶ月だけ年上だった。けど、そのくらいならほとんど変わらないのと同じだろ? しかも、前正妃の息子は身体が弱いと噂され、実際、人前には全然出てこない。――そりゃ、そうさ。俺はこんな体質だ。王子が猫に変わるなんて事実を知られでもしたら、実験室送りだ。よくて幽閉。最悪、死刑。そんなの俺は御免だね」
ケッと吐き捨て、話がずれたことに気づいたフランシェルが、ポリポリと気まずそうに前足で頭を掻く。
「あの国の王位継承っていうのは年齢順だ。性別も性格も身分も関係ない。どれほどうつけだろうと、病弱で寝たきりだろうと、長子であれば継承権は第一位になる。だから、現在、俺が王位継承権第一位を持っている。ここまで言えば、後は説明しなくてもわかるだろ? 現正妃は自分の息子を王に就かせるために、邪魔な俺を殺そうとしているのさ」
おどけるように肩を竦めて見せた彼からは、怒りも悲しみも感じられない。伝わってきたのは、諦めにも似た空しさだけだ。
「あなた、全然王子に見えないわよ」
フランシェルの頭がガクッと下がった。耳がペタッと水平になっている。
「あんたさぁ~。人が真剣に話してるっていうのに、初めに突っ込む所はそこなのかよ!」
シーベスは何か文句ある? とでも言いたげに見ていた。
彼は込み上げる色々な感情をため息として吐き出す。ここは自分が大人になるしかないと諦め、話の続きに戻った。
「本当は王宮内で毒殺して、病死にでもしたかったんだろうけど……あいにくと俺は鼻が利くんだよ。このまま殺されてやるのも癪で、そろそろ本格的にやばいかと思って逃げ出したら、あいつらしつこいのなんの。後々名乗り出られて困るとでも思ったのかね。……そんなもの、無償でのしつけてくれてやるっていうのに」
命を狙われているのに、この軽さはいったいどこから来ているのか
その言葉からは、死への畏怖や恐怖といったものが感じられない。
どうしてこんなに平然としていられるのだろう。
それが理解できずに、シーベスは首を傾げる。
「あなた、死ぬのが怖くないの?」
「死にたくはないさ。だから、こうしてこの中立地帯の森まで逃げてきた。けど、奴らの剣を避け損ねてこの身に受けた時、これで終われると思ったのも本当。俺のために随分たくさんの人間が死んだ。そんなの、いい加減うんざりだ。これ以上見たくない。死ぬなら俺一人で十分。そう思っていたのに、いざ死ぬかもって時に生き意地張ってなんとか奴らをまいて、今、こうしてここにいるんだから俺は生きたかったんだな。もう誰もいないのに……」
空虚に渇いた声。
瞳が伏せられた一瞬に滲んだ感情。
そこにシーベスは自分と同じ悲しみを見つけた。
自分が婆様を失ったように、フランシェルもまた誰かとても大切な人を失ったのだ。
それを防ぐことのできなかった己の無力を悔やみ、生かされ残された己の命を捨てることもできずに足掻いている。
シーベスはフランシェルを抱き締める。突然のことに彼は身を堅くし、その腕から逃げようともがく。尻尾がシーベスの腕を激しく叩き、前足がテシテシと彼女に触れる。だが、彼女を傷つけることを懸念したのか、その爪は仕舞われたままだ。
「何だよ、いきなり。同情はいらない。俺のことより外で何かあったんだろ。いったい何があったんだ?」
別に同情したわけではない。
ただ彼を抱き締めたい。そう思ったから、そうしただけだった。
けれど、あまりにもフランシェルが嫌がるので、シーベスはしぶしぶと彼を解放して、先程見てきた光景を説明する。
確かにのんびりしている暇はない。時間はあまり残されていなかった。