僕をこの世界に縫い留めてくれた人
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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御嬢様が助けた存在が僕だけだったらよかった。たぶん一生、思う。
一方で御嬢様を助ける存在が僕だけであれとは、どうしても思えない。
御嬢様を助けた存在を殺しまわれば、御嬢様は自分が傷つく真似をしなくなる気がするから。
でも傷ついて、どうしようもなく醜くなっても、僕だけは御嬢様に尽くす。永遠に。
誰かに隠された服を見つけ出すことから、僕の一日は始まる。
「何をしているの? 遅かったじゃない。もう朝食は下げてしまったのだけれど?」
「はい。申し訳ございません」
着替えが済み、大広間に向かって母親から叱責を受ける。この日課の観客は、父親と、一歳違いの姉と妹、そしてこの屋敷に仕える使用人たちだ。僕は一応、この屋敷でただ一人の息子のはずだけど、家族として扱われない存在だった。
理由は単純だ。
僕は、簡単に言えば無能だった。算術も、読解も何一つうまくいかない。数字や文字を読んでいると、ふわふわと全て頭の中を通り抜けていく感覚がして、なにも留まらない。
みんな同じだと思っていたけど、母親や父親、そして姉の暴言をまとめると、そんな人間は無能と呼ばれ、痛めつけられて当然らしい。
「本当にぐずでのろまね。朝食はなしでいいわよね。今日はあの子の婿選びのパーティーを庭園で開くから、決して屋敷の外に出ないでちょうだい?」
だって、母は屋敷の外に出るなと言いながらも、どこかそれを望むように笑っている。「承知いたしました。失礼します」と下がりながら父親に視線を向ければ、父親は父親で僕に侮蔑の眼差しを向けていた。空腹を覚えながら広間を後にして廊下を歩くと、後ろから扇子で叩かれる。
「待ちなさいよ」
「はい。申し訳ございません」
振り返ると、扇子を手にしながら笑う妹の姿があった。フリルがたっぷりの美しいドレスに、自然と目がいってしまう。
「ねえ、今時間あるかしら? 話があるのだけれど」
妹の言葉に、そっとうなずく。僕に選択権はない。断れば妹は母に泣きつき、僕は折檻部屋で鞭を打たれるのだから。
「あんた、私のパーティー、台無しにしてくれない?」
姉の言い出したことが理解できず、僕は目を大きく見開く。
「え……ど、どうして」
「私、婿取りなんて嫌だもの。相手が悪くなるでしょう。お金にものを言わせるアーレン家なら公爵家、侯爵家、伯爵家くらいの旦那様も可能性としてあるけれど、うちの婿取りなんてせいぜい同格の男爵家の次男……最低よ。絶対嫌」
姉は僕を叩いた扇子でせわしなく自分をあおぐ。同意しないと、あの扇子で叩かれる。しかし、パーティーを壊すことも、恐ろしい。
「しょ、承知しました」
いつも通りの返事なのに、鉄の匂いがした後痛みが走り、扇子が頬に引っかかって切れたのだと分かった。
「返事が遅い」
「ごめんなさい」
「誤れば済むと思って! お前の顔、本当に腹が立つ!」
母は、絶対に見える場所は傷つけない。
でも姉は感情で動くことが多いためか、こうして時折見える場所にも傷を作ってくる。
痛い。
ずっと痛い。
でもこの血が、姉のドレスを汚さないことを祈る。ドレスを作った人間は悪くない。せっかくのドレスが血で汚れたら大変だ。
「いい、絶対パーティーをめちゃくちゃにしてよ。その格好で出ていくでも、なんでもしていいから」
無理難題を押し付けて、姉は去っていく。僕は体中に痛みを感じながらも、ドレスが血で汚れなかったことに安堵する。
早く楽になりたい。
幸せになれなくていいから。
幸せになりたいなんて分不相応な望みは持たないから。
早く楽になりたい。
姉と別れた後、僕は階段をいくつも上がり、書庫を目指した。重い扉を開いて中へ入り、壁をぐるりと囲うように並ぶ本棚から、本を一冊抜き取った。
『伝統的な縫製技術について』という題名から始まる鴉色の分厚い本は、五十年前に発売されたらしい。
だからか、所々ページが欠けている。ディール・マリグと呼ばれる職人が書いた本だけど、大多数を占めるのは、文字ではなく彼の描いたドレスの絵と、それを作るための縫い方の図だ。文章は、最初の目次と、最初のページの冒頭に在る説明しかない。
不親切だと感じる人もいるかもしれない。でも、これは僕でも読める本。この本を読んでいる時だけ、苦しくない。
僕は、本のちょうど真ん中のページを開きながら窓辺に向かっていく。どうせなら、明るいところで読みたい。夜に灯りをつけていれば怒られるし、自分の寝場所にこの本を持ち込めば、この本は酷い目に遭わされる。だから僕は、晴れた日だけここで本を読む。
ああ、綺麗だ。
日差しに照らされたドレスやボレロの絵を見るたびに思う。飽きることは無い。こういう作品を縫えたなら、どんなに楽しいのだろう。
苦しみや痛みを覚えるたびに、僕は心の中で、自分がたくさんの服を作り出すことを夢見る。そうして、世界で一番美しいドレスを誰かに着てもらえたら。
そんな幸せが僕の人生に訪れるのなら、もうそこで死んでいい。
ページをめくるたびに、先ほどまで受けていた苦しみや希死念慮が薄れていく。
いつか、いつか自分は救われる。
神様なんて信じたことはないし、信じられないけれど、いつか報われると思わないと、涙が出る。意味のない水。意味のない感情。何にもならない。
ぺらぺらとページをめくりながら、自分に大丈夫だよと声をかける。
本を濡らさないよう、涙を堪えていると、ついしずくがぽたぽたと零れ落ちてしまった。汚してしまった。素敵な作品を汚してしまった。両親も姉もこの本を読まない。この本がどんなに汚れたところで気付かないだろうけど、汚すのはこの本に失礼だ。
ちゃんとわかってるのになあと思う。
幸せになれない。僕が幸せを望んじゃいけない。
だって幸せになるなんて無理だから。
少しだけ窓を開いて、風に濡れた部分を当てようとすると、豪風が部屋の中に入り込んだ。下から舞い上がった土煙によって、目に痛みが走る。なんとか堪えて目をこすろうとすると、手元にあった本がないことに気付いた。
昨日の天気は雨、僕の涙どころか、あの本が泥で汚れてしまう。
ぞっとしながら窓の外をのぞくと、黒髪の女の子が、本を受け止めていたところだった。ゆっくりと上を見上げた彼女と、目が合う。
不気味な赤い瞳だ。喪服のような黒いワンピースに黒髪、何を考えているか分からない無表情が、より一層、不気味さを際立たせている。
幽霊か何かか。およそ健康や明るさから遠ざかり、何に対しても関心を持たないような眼差しに、戸惑いを覚える。素材は悪くない、でも、そのすべてをふいにするような空気感を持つ女の子。
一言でいえば、陰気。姉ならたぶん、「幽霊みたい」と罵倒する。
「お待たせしました」
静かな声が響く。抑揚も感じさせない、高くもなく低くもない。自然で、無駄な飾りや甘さが無い、そこにいるような声だ。
「この本、あなたのですか」
「う、うん」
「……少々お待ちください。お持ちしますので」
そう言って少女は足早に去って行く。早歩きをしている動きだが、速度は遅めだ。というか、彼女はこちらにやってくるということだろうか。彼女はいったい誰なんだろう。新しい使用人にしては年が幼い気がする。考えているうちに、扉がノックされた。僕は急いで返事をして、ドアを開く。開きながら、ああ、姉や両親だったらまずいなと思いつつ、現れたのは先ほどの少女だった。
「本、お持ちしました……」
彼女は本を抱えながら、僕の顔をじっと見た。さっきは僕のほうがじっと見てしまったから、人のことを失礼なんて言えない。
「その怪我は」
「転んで」
「転んだものではないと思いますが」
少女は即答する。「木の枝に引っ掛かって」と続けても、彼女は疑うような沈黙でこちらを見つめるばかりだ。
「それより本、ありがとう」
僕は話を変えるように手を差し出す。彼女は「ああ」と本を返してくれた。でも、僕を見るのをやめない。ややあって、ポケットからハンカチを取り出した。
「手当てで皮膚に問題が生じた経験はありますか?」
そんなこと聞かれても、手当てなんてされたことがないから分からない。
「……ない」
「承知しました」
少女はさらにポケットから小瓶を取り出した。蓋を開いた瞬間、つんとした匂いが鼻をつく。彼女は小瓶の中に入っていた液をハンカチに染み込ませると、僕の顔の傷にあてた。ぴりっとした痛みに、拳に力が籠る。
「すみません、痛いかもしれません。でも、化膿させないためなので……耐えてください」
とんでもない事後報告だ。
姉に打たれるときは、襲い掛かる痛みを予期して我慢できるけど、何にも想定していなかった痛みに顔をゆがめていると、少女が纏っているワンピースの生地が視界に映った。
さっきは遠くて気が付かなかったけれど、とても質がいい。
ただ黒い布で縫ったものではなく、丈夫な黒い生地の上から、繊細なレースを重ねている。レースはその特性上、すぐに引っかかり、そこからほつれたり、千切れたりする。
複雑で細かな柄にすればするほど弱くなってしまうから、一夜限りのパーティーや、一度きりの式典じゃないと嗜好を凝らしたようなレースは使えない。
少女の纏うワンピースに使われているレースは、式典に参加するお姫様が纏うドレスに、ほんの少しだけ使うような貴重なもの。それをさらに、丈夫な生地に組み合わせている。普通、こんなことは出来ない。素材が違いすぎるものを縫い合わせることは困難を極めるし、何より苦労のわりに見栄えが悪くなるものだ。なのに、少女の纏うワンピースはそれを両立させている。
この子は、一体、何者なのだろう。生きている人間が、こんな夢のような服を着られるわけがない。もしかしたら彼女は、人間ではなく、悪魔か何かかもしれない。
「何か、気の紛れる話でも……あ、その本、どんな本なんですか」
「え……衣装の、本だけど……」
「なるほど、将来、仕立て屋を目指していたり……? あと、衣装の売り子とか?」
少女は平然と返してくるけど、僕は驚いた。仕立て屋は女がする仕事だし、衣装の売り子というのも、女の子にしか許されない仕事だ。女の衣装を作るのもそれを着て売るのも女、逆に男の衣装を作るのもそれを着て売るのも男、それが当然だから。
だからこそ僕は、家族から気味が悪いと思われている。でも、好きであることをやめられない。可愛い衣装が好きだし、それを作りたい。ただそれは、この世界で許されない。僕の嗜好も何もかも異常で、許されない。
「そんなこと、出来るわけないでしょ。僕は男だよ」
「男だと出来ないのですか」
「当然だよ。フリルもレースもいらないし、男がふわふわして弱いのは駄目なんだから」
「フリルもレースもあっていいんじゃないですか。それに、男性がふわふわして弱くて駄目で、何か問題があるのでしょうか」
少女は目を丸くした。あまりに純粋な疑念をぶつけられ、返事に戸惑う。
「いや、だって、男は女の子をエスコートして、守らなきゃいけないんだよ」
そして剣や弓に興味があって、勉強より身体を動かすことが好きで、外が好き。僕は自由になりたいけど、自由になったとしても外で駆け回って遊んだりはしたくない。外の景色をたまに眺めて、部屋に戻って、服を作りたい。そういうのを望む。だから、許されない。
「なぜ」
「なぜって、だってそう決まってるものじゃない? かっこよくて、ほら、強い、逞しい男じゃないと、駄目だし」
「かっこ悪くて弱くて逞しくなくても、別にいいのでは。かっこよくて強くて逞しい男の人を苦手とする人もいるでしょうし、駄目なことはないと思いますけど……」
少女は手当てをしながら、ずっと不思議そうにしている。
どうしてこんなにも、話が通じないのだろう。苛立ちを覚えながら、僕は自分の頬を指した。
「この頬の傷を見れば分かるでしょう? 許されないの、そういうのは全部」
「……嗜好によって、傷つけられたものということですか、この傷は」
それまで、淡々としていた彼女の雰囲気が、さっと変わった。冷たくて、肌がぴりつくような圧を
感じて、僕は思わず押し黙る。
「誰に」
先ほどの「なぜ」と変わらない速度の返答だけど、明らかに声音が違った。あまりの豹変に苛立ちどころか畏怖すら覚え、僕は「姉に」と続ける。
「でもいつものことだし、ほら、元々僕何にもできない役立たずで、住まわせてもらってるだけありがたいって言わなきゃいけない立場だし、全然、おかしなことじゃないから。全然なんでもない、大丈夫だよ」
何でもなくない。大丈夫じゃない。でも少女の雰囲気に圧倒されて、僕は思っても見ないことを言う。姉や両親のことなんて庇いたくない。今すぐここから逃げ出したい。なのに、正反対のことばかり口にする僕を、彼女は射抜いた。
「駄目です。駄目に決まっているでしょう。暴力を振るわれることを良しとするなんて」
それまで、「いいんじゃないですか」と全てを許容し、柔軟そうな少女が、明確に否定した。
「……貴方はご家族に対してどう思っていますか」
「……え?」
唐突な質問に、意味は理解できても聞き返す。
「貴方はご家族のことが好きですか、嫌いですか」
繰り返される問いかけに、僕は視線を逸らした。好きなわけがない。好きになれない。でも、家族が好きじゃない人間は許されない。家族思いで家族が好きな子じゃないと、駄目だから。
「……嫌いだよ」
でも、僕は家族が嫌いだ。この家の何もかも、全部嫌い。好きなのはこの本だけ。
「なら、この家を出ましょう」
少女は簡単に言う。
「そんなこと出来るわけ──」
「出来ますよ」
抑揚の感じない、悪魔の響きのようだった。静かな怒りを感じて、僕は問う。
「な、なにをそんなに怒っているの」
「たとえ貴方が何もできない役立たずであろうと、不当な扱いを受けていい理由にはならないからです。そして貴方の置かれた状況は、決してなんでもない状況でも、大丈夫な状況でもありません。なので怒りを覚えています」
少女が僕を射抜く。ぞわりと、つま先から頭の先まで、自分の血の流れが一気に変わり、何かが走るような錯覚がする。
「そこで何をしているの」
鋭い声が聞こえてきて、僕は思わず身構える。今日のパーティーに向け、華やかに着飾った姉が眉間にしわを寄せ、扉に立っていた。
「誰、貴女、使用人の娘か何か? 私の弟に何をしているの」
扇子で自分を仰ぎ、ヒールの音を立てながら、姉がこちらに向かってくる。使用人の娘なわけがない。でも姉は、衣装の生地について詳しくない。一目見て可愛いか可愛くないか、それだけだ。どんな生地が使われているかも、どんな縫い方かも興味がない。だからこそ、少女を使用人の娘と結論付けたのだろう。絶対に違うはずなのに。
「貴女がつけた傷の手当てをしていました」
「言いがかりはやめてくれない? 私はそんなことしてない」
姉は即座に返す。姉は嘘が上手い。僕をぶったり蹴ったりして、見えるところに傷をつけ、それを誰かに指摘されたとき、彼女はいつだって平然とした顔で否定できる。
「ではその扇子の血はなんですか」
しかし、少女の返答に姉は顔色を変えた。少女は姉が持つ扇子の、わずかな返り血を示す。
「彼の顔、近くにいかないと分かりませんが、今、手当てをした傷だけではなく細かな傷があります。それも、今の傷と似たようなものです。継続的に暴力を振るっていたということですか」
「暴力も何も躾よ、貴女は何も知らないから、偽善者ぶっているのだろうけど、弟は不出来な男なの。弱くて何も出来ない。だから私が色々教えてあげてるだけ。それにほら、傷は男の勲章って言うでしょう?」
「なぜ?」
少女は先ほど僕に問いかけた言葉と同じことを発した。
「なぜってなにが」
「不出来で弱くて何もできない人間を扇子で叩くこと、なおかつそれを男の勲章と肯定する根拠は」
「はぁ?」
「根拠が提示できないから、暴力で訴えることしかできない。言葉を知らない。手段を知らない。そんな貴女が、人に何を教えられるというのですか」
少女が姉に立ち向かう。その力強い瞳に、さきほど少女が怒りを表明したとき感じたものよりずっと強く、身体の中の血が沸き立つような興奮を覚えた。
今まで僕は可愛いドレスを作りたいと思ったことはあっても、どんな女の子に着てもらいたいかは、考えたことが無かった。でも、今、僕はこの子に、僕が作ったドレスを着てもらいたい。
「貴女ねぇっ」
少女の言葉に、姉は怒りで顔を真っ赤にした。でも、なんとなく分かる。今この場で誰よりも怒っているのは、姉じゃない。今僕のそばにいる少女だ。姉は少女に向かって扇子を振りかぶる。僕は咄嗟に彼女を庇おうとするけれど、その時──、
「ミスティア!」
男の人の声が響いた。男の人の後ろには、僕の両親がぞっとした顔で立っていて、僕は思わず動きを止める。でも、姉はそのまま腕を振り下ろした。
「ミスティア!」
再度、男の人が声を荒げる。ばちんと扇子の音がして、少女の白い頬に赤が走った。
扇子で叩かれて痛いはず、血も出ている。なのに少女はひるむことなく姉を見返した。
「ミスティア、大丈夫か、一体何があって……」
「彼がそちらの彼女から継続的に暴力を受けていたので手当てをしていました」
男の人は慌てて少女に駆け寄る。両親は「アーレン家の令嬢になんてことを!」と姉を問い詰めた。
「あ、アーレン家? 使用人の娘ではないの?」
「そんなわけあるか! 彼女はミスティア・アーレン、正真正銘、アーレン家のご令嬢だ……顔に傷なんて……なんてことを、あ、アーレン伯爵……この度は申し訳ございません、なんてお詫びをしたらいいか……」
その名を聞き、僕は改めて少女を見る。
ミスティア・アーレン、伯爵家とは名ばかり、と逆の意味で用いられる、公爵家に匹敵する財力と影響力を持つアーレン家の、一人娘の名前だ。国は度々、アーレン家と公爵家の縁を繋げようと打診をし、あの手この手でアーレン家を公爵家にしようとしていたが、その誘いのことごとくを断り、なおかつ国の打診を断る不敬を、貢献力で黙らせている、代替え不可能な、絶対的な家。
「お詫びで済むことじゃないでしょう! 扇子で叩くなんて! 一体あなた達は自分の娘にどういう教育をしているんだ!」
おろおろする両親に、男の人──アーレン家の伯爵は一喝し、少女──ミスティア・アーレンに振り向く。
「ミスティア、痛いよなすぐに手当てを──医者を呼んで」
「お医者様は必要ですが、彼に対してです。私には必要ありません。そしてお詫びは──彼を頂ければ」
ミスティア・アーレンは僕を見た。冷ややかで淡々としているのに、熱のこもった、燃えるような紅の瞳だ。
「もしかしてミスティア、また
……」
アーレン伯爵が、眉間にしわを寄せる。ミスティア・アーレンは、先ほどから弱々しく様子をうかがう僕の両親の前に立ち、力強くこういった。
「彼をください。それで私に対する暴力沙汰は不問にします」
その後の出来事は、瞬く間、と表現するにふさわしい。
僕はその日からアーレン家が関わっているフォルテ孤児院という場所で保護されることになり、両親と姉とは二度と会わなくて済むようになった。食事に困らず、叩かれず、好きなように過ごしていいと言われ、焦がれていた自由な時間を手に入れた。一日、二日、三日、一週間、一ヶ月と時間が過ぎるたびに、一か月前の今頃はどうしてあんな苦痛の中にいたのだろうと、どこか夢の中にいるような気持ちがしていて、ああ僕は、苦痛の中から抜け出して、「ここ」で生きているんだな、という実感を得るまで、一年ほどかかった。
「ミスティア、僕、ミスティアの御屋敷で働きたい」
そうして、僕の世界にミスティアが現れて、季節が一巡したとき。
孤児院に訪れたミスティアに僕はお願いした。
でも、
「仕立て屋の就職先探しを悲観しているならば、こちらでもお探ししますよ」
ミスティアは全く見当はずれな返事をする。
「僕は仕立て屋にもなりたいけど、ミスティアの御屋敷でも働きたいんだって」
「貴方がこちらにやってきた経緯によって、こちらに返さなければいけないと思っているのなら、やめてください。貴方は貴方の人生を生きてください。でないと、貴方は家に縛られていた時と、何も変わらない。アーレン家に縛られなおした、となってしまうだけです」
「だから違うってば、僕が、ミスティアに仕えたいの!」
そう強く言うけれど、ミスティアは怪訝そうな顔で返事をしない。僕には、夢が出来た。ミスティアの専属衣装係をしつつ、アーレン家の使用人となって、彼女のそばに仕えることだ。そうしたら、同じ屋敷に住めるし、ずっと一緒にいられる。孤児院の生活も楽しいけれど、ミスティアがやってくるのは多くても週に一度、他の孤児院を巡っていて来ない月もある。だから屋敷で働くのが、一番、ミスティアのそばにいられる方法だ。
「まぁ、個人の思想に関して他者がどうこう口を出すのも違うと思いますが……変わったら教えてくださいね」
そのうち、その願いは変わるはず。そんな淡々とした予想を隠すことなく、ミスティアは返す。嫌だなぁと思う。ミスティアのこういうところが。でもそれ以上に、好きだなと思うところが多い。無表情で全部見下しているような佇まいなのに、案外、泥臭いところだったり、突拍子もないところだったり。彼女を知るたびに、どんどん、嫌なところ含めて彼女の服を作りたいと思う。
でも、どうしても気に入らない、許せないことがひとつ。
「ミスティア様っ」
ミスティアと二人で話をしていると、孤児院で暮らしている小さい子たちが集まってきた。
「かくれんぼをしていたんだけど、ディリアが見つからなくて──」
ディリア、その名前に僕はぐっと拳を握りしめた。ぴりっと、手の内側に痛みが走る。痛いけど、やめられない。苛々するから。
「ごめんなさい、トーマス、私、ちょっとディリアを探してきますね」
「うん、いってらっしゃい、ミスティア」
僕は心配そうな顔でこちらを立ち去るミスティアを見送る。
トーマス。
僕の名前。
それは両親がつけた僕の名前。そしてディリアは、ミスティアがつけた、『あいつ』の名前だ。
僕はミスティアを見送った後、彼女の後をそっと追った。
「ここにいたんですね──ディリア」
「……なんだ、もうおやつの時間か」
「いえ、かくれんぼをしても見つからないとうかがったので、助っ人に」
「助っ人、またか。探し方が悪いんじゃないのか。それか、見つける気がないか」
ミスティアが向かったのは、フォルテ孤児院の庭園、向日葵の咲く生垣のすみだ。確かにこの場所なら、向日葵や生垣に隠れて見つけづらい。小さい子が多く参加しているかくれんぼで隠れ場所に選ぶべきじゃないのに、と僕は、ミスティアと砕けた調子で話をする少年を見やる。
名前は、ディリア。ミスティアより実年齢は少し上らしい。ミスティアがいないとき、医者が奴を診察しているのを聞いたから間違いない。灰色の髪に、左右で若干色の異なる瞳。髪色も瞳の色も、やがて色を変えていくのではないか、とも医者は言っていた。
長年の虐待による栄養不足および発育不良。
ディリアはそれまで劣悪な場所で暮らしていて、ミスティアが助け出し、このフォルテ孤児院で保護した存在だ。要するに、ここに来た経緯が──僕と似ている。
「探し方は分かりませんが、みんなディリアを見つようと頑張ってますよ。なんていうか、ディリアが、かくれんぼ職人というか」
「なんだその間抜けな職人は」
「かくれんぼが上手いということです」
「不名誉な称号だな」
「そうですか?」
「隠れることが上手かろうと将来なんの役にも立たない。不必要な特技だ」
「別に役に立たない特技を持っていてもいいじゃないですか」
他愛のないやり取りに、僕は奥歯をぎりぎりと噛みしめる。僕はあいつが嫌いだ。心の底から。後からやってきたくせに、ミスティアの関心を集めている。かくれんぼのたびに、わざわざミスティアに見つけてもらおうとして、本当に不愉快な存在だ。
あいつなんかさっさとこの孤児院から出て行ってしまえばいいのに。
「みんなが心配してるので、戻りましょうね」
「心配なんてしてるか?」
「してるから助っ人の要請があったんですよ」
「ならお前も心配したか」
「まぁ……かくれんぼ職人とはいえ、万が一もありますからね。脱水とか、貧血とか」
「医者みたいなことを言う。将来は医者にでもなるつもりか」
「いえ……私は……特に将来について決めていません」
「そうか」
「ディリアはなりたいもの見つけましたか」
「お前」
「私になってどうするんですか」
「お前の目で、この世界を見てみたい」
「はぁ」
ミスティアは首をかしげている。自分に感情を向けられると、ミスティアはとたんに人の感情を受け止めなくなる。たぶん、そういう性質なのかもしれない。あまり無理に言って、姉や両親が僕に伝えてくるようなきつい言葉になったら嫌だと思っていたけど、もっと強く、強く主張したほうがいい気がしてきた。
「お前の目を取り出して交換してもらいたいくらいだが」
「中々難しそうですね。激しい痛みを伴いそうです」
「ならやめておく。お前が痛いのは、嫌だから」
「私もディリアが痛いのは嫌なので、お控え頂ければ幸甚です」
「……代わりに、お前の話を色々聞きたい」
「あまり面白い話は出来ないと思いますよ」
「別に構わない。お前の言葉だったら、なんでもいい」
「私の、言葉……」
「でもその為にはどうしたらいいんだろう。お前の後ろにずっとついて回るとかか?」
「……一体どうしたんだろう、ってなりませんか」
「なるな。お前の後ろに誰かがずっといたら、なんだこいつは、と思う」
ディリアが長考し始めた。ややあって、奴はハッとした顔をする。
「ああ、あれになればいいのか」
「あれ?」
「使用人。使用人になれば、お前と暮らせる」
「使用人……?」
「ああ、俺はずっとお前のそばに居たい。でも家族にはなれないだろう。俺はお前の親じゃないし、お前も俺の親じゃない」
「家族や兄、弟、姉──妹の関係性も、ありますが」
「じゃあお前は俺を兄か弟に出来るのか」
「いや……突然兄や弟とするのは……というか、一緒に暮らす関係性に名前って必要なんですか。無くても構わないのでは」
「ならお前は俺がアーレン家に暮らすとき、どう説明するんだ」
「一緒に暮らしてる人です、と」
「婚約者か何かだと誤解されるだろう。皆が皆、お前のような考えじゃない。関係に名前を求める。その間、そいつらに合わせないと、面倒だ」
「そうですか……?」
「ああ、決めた。俺はお前の執事になる」
否定してほしい。否定してほしい。僕は祈る。
「そうですか」
でも、駄目だった。祈りはミスティアに届かない。
フォルテ孤児院で暮らして、ずっと思い知らされていたことがあった。
僕だけが特別な存在じゃない。
ミスティアには感謝している。でも、彼女は誰か困ってる人を見つけたら、手を差し伸べる人だった。そしてまた困っている人を見つけて、手を差し伸べる。ずっと繰り返しだった。
僕を助けてくれたのはミスティアしかいなかった。
でもミスティアが助けた人間は大勢いる。
だからミスティアにとって人助けも僕にしたことも全部が日常だった。
全部、同じ。みんな、一緒。
僕を自由にしてくれたのは、まぎれもなく、ミスティア。
でもミスティアが自由にしたのは、僕だけじゃない。
殺してやりたい、初めて思った。あの時感じた想いは、どちらに向けてか分からない。
「好きなだけ逃げ続けなよ。僕を自由にしてくれたのは、まぎれもなく、ミスティアなんだから」
僕はそう言いながら、ミスティアが安心するよう微笑みかける。彼女は思惑通り、安堵した様子で「ありがとうございます」と僕に感謝した。
感謝なんかしなくていい。逃げたところで、逃げ切らせる気なんてないんだから。
あれから、ディリアは消えた。魔法みたいに。ミスティアの人助け癖もぱっと消えてしまわないかと思うけれど、悲しいことに、この世界におとぎ話にあるような魔法は存在しない。黒魔術なんて絵本だけの代物で、どんなに僕が呪ったってミスティアは変わらない。
そんなミスティアが憎らしくてたまらないのに、好きだし、守りたいと思う。
僕は矛盾した感情を胸に、ミスティアの頬をつねった。
「どうしたんですか?」
「なんとなく、つねりたくなっちゃった」
門番を志望したのは、ミスティアを守りたいと思ったからだ。今もそれは変わらない。好きの形は変わっていくけど、根っこは変わらないし、たぶん僕は一生呪われたままだ。
でも。
「安心してよ。門番として、ミスティアのことを守ってあげるから。だからたまには、つねらせて」
「えぇ……?」
ミスティアは戸惑い、首をかしげた。その細さにぞっとしながらも、手が伸びそうになるのを抑える。
妥協を、しようと思う。
僕自身にも、ぬいぐるみにも、ミスティアの着る服にも妥協はできないけど、内臓をとったり、殺したりはしない。ただ、殺されるのは許してあげない。
でもあまり度が過ぎるようならば、怪我をしたり、九死に一生を得たりを繰り返すミスティアには、罰を与えなきゃいけないと思う。
たとえば、死なない程度に、怪我をしてもらって、屋敷にいてもらうとか。
いつもミスティアがしている逆のことだ。怪我をした人を看病して、ずっと見てる。自分がされたくないことを人にするわけがないし、動機は異なっているとはいえ、赦しの下地は出来ているのだ。
ミスティアが退屈しないように、いっぱいの服を仕立てるし、身体がどんなに衰えても、ミスティアに一番似合う服を仕立ててあげるから。
それが出来るのは僕だけだから。
僕だけにするから。
何があっても。
「ミスティア」
「はい」
「何事もなく、このまま逃げられたらいいね」
含みを持って伝えても、ミスティアは「はい、屋敷のみんなの健康がかかっているので」と月並みな返答しかしない。
僕は頷きながら、ミスティアの足──かかとの少し上、歩行に重要なそこを見つめて、笑う。
●2025年10月1日全編書き下ろしノベル7巻&8巻発売
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