第10話 同じで違う
秋の気配が色濃くなり始めた午後だった。
乾いた風が吹き抜け、あぜ道の草が一斉にざわめく。その草の波をかき分けるように、ゆっくりと歩く影がある。
茶色を基調とした、がっしりとした体格の雄猫だった。
首回りは太く、四肢は丸太のようにたくましい。顔つきは精悍で、鼻先には過去の喧嘩でついた古い傷跡が白く残っている。右耳の先端が桜の花びらのように欠けているのは、人間たちが彼を「地域で見守る猫」として認め、処置を施した印だった。
町の人々は彼を様々な名前で呼ぶ。「トラ」「チャチャ」「大将」「ボス」。どの名前で呼ばれても、彼は短く尻尾を揺らして応えるだけだ。彼にとって名前など、人間が勝手につけた音声の記号に過ぎない。
彼は特定の飼い主を持たない野良猫だが、決して飢えてはいなかった。
駅前の魚屋の裏口へ行けば、店主が新鮮なマグロの切れ端を放ってくれる。
タバコ屋の店先には、いつも彼専用の新鮮な水が置かれている。
日当たりの良い縁側を提供してくれる老夫婦もいるし、神社の石段は午後のお気に入りの昼寝場所だった。
彼はこの町全体を自分の庭のように思っていた。若いオス猫が外からやってきて縄張りを荒らせば、容赦なく飛びかかって追い払う。無謀なカラスが独り立ちしたばかりの子猫を狙えば、鋭い爪を立てて撃退する。威厳がありながらも、どこか面倒見の良い性格だった。
彼はこの町の裏側を知り尽くしている。路地裏の湿った匂い、真夏のアスファルトの熱、冬の北風の刺すような冷たさ。彼は外の世界の厳しさと優しさをすべてその毛皮に刻み込み、悠然と生きていた。
パトロールの途中、彼はふと足を止めた。
町の外れにある、ツタの絡まる古い建物。人間たちが「図書館」と呼んでいる場所だ。外壁は色褪せ、敷地内の草は伸び放題になっている。
彼は普段、この建物には近づかない。美味しい食べ物があるわけでもなく、日向ぼっこに向いた場所も少ないからだ。たまに人間が出入りするのは知っていたが、彼にとっては全く興味のない空間だった。
しかし今日は違った。
風に乗って、微かな匂いが流れてきたのだ。彼は立ち止まり、鼻を高く上げて空気を嗅いだ。ひくひくと鼻先が動く。
匂いの正体は、同族の気配だった。
それも、ひどく幼い。外の世界で泥にまみれ、必死に生きている野良の子猫の匂いとは全く違う。純粋で無垢な、甘いミルクの残香のような匂いだった。古い紙と埃の匂いに混じって、確かに微かな温もりが漂ってくる。
彼は深い琥珀色の瞳を細めた。こんな人気の少ない古い建物に、子猫がいるのだろうか。好奇心と、長年の経験からくる保護本能がわずかにくすぐられた。彼はあぜ道から外れ、ゆっくりとした足取りで建物の正面へと回り込む。
入り口は古い木枠の引き戸だった。完全に閉まりきっておらず、数ミリの隙間が空いている。彼はその隙間に鼻先を突っ込んだ。体重をかけて押し込むと、戸が重たい音を立てて数センチだけスライドした。彼の大きな頭が通るには十分な隙間だ。
彼は滑り込むようにして、建物の中へと足を踏み入れた。
図書館の中は、外の喧噪とは完全に切り離された異世界だった。薄暗く、空気がひんやりと静まり返っている。床から天井まで届く巨大な木の棚が、迷路のように規則正しく並んでいた。
棚には無数の四角い塊が詰め込まれている。色とりどりの背表紙。くすんだ赤、深い青、色褪せた緑。人間が本と呼ぶものだ。彼にはそれが何であるか分からない。ただ、この空間全体が大きな巣のように感じられた。
外の光は、高い窓から差し込む数筋の帯となって床に落ちている。その光の帯の中を、埃の粒が雪のようにゆっくりと舞っていた。
彼は音を立てずに歩き始めた。肉球が古い木の床を踏みしめる。板が軋む音さえ出さないのは、長年外で生き抜いてきた熟練の技術だった。奥へ進むにつれて、子猫の匂いが次第に濃くなっていく。かすかに、紙が擦れるような小さな音が聞こえた。ふと、視界の隅で何かが動いた。奥から三列目の本棚の陰。そこに、小さな灰白の毛玉がいた。
子猫だった。
子猫と呼ぶにはだいぶ体つきがしっかりしてきているが、彼の巨大な体躯に比べれば、枯れ葉のように頼りない。子猫は破れた本の切れ端のようなものを前足で転がして遊んでいた。自分の世界に完全に没頭している。
しかし、背後に巨大な茶色の侵入者の気配を感じると、ピタリと動きを止めた。
二匹の猫は、数メートルの距離を置いて見つめ合った。
子猫の青みがかった灰色の瞳が、大きく見開かれている。毛がわずかに逆立ち、背中が丸くなった。恐怖に怯えきっているわけではない。以前、ガラス越しに大きな犬を見た経験が、子猫にほんの少しの耐性を与えていた。
しかし、目の前にいるのは自分と同じ形をした巨大な生き物だ。威圧感が桁違いである。未知の存在に対する戸惑いが、ピンと伸びた短い尻尾に表れていた。茶色の猫は動かなかった。威嚇もしないし、急に近づくこともしない。ただその場にどっしりと腰を下ろした。太い尻尾を体の横に巻きつける。
「俺は敵ではない」
言葉を持たない生き物たちの間で、姿勢は最大のメッセージとなる。彼はゆっくりと瞬きをした。敵意がないことを示す、猫特有の挨拶だった。
子猫は少しだけ首を傾げた。目の前の巨大な茶色い猫が、自分に危害を加えるつもりがないことを直感で悟ったようだ。逆立っていた毛が、ゆっくりと元に戻っていく。
子猫は一歩だけ前に出た。そしてまた立ち止まる。茶色の猫は急かさない。深い琥珀色の瞳で、ただじっと子猫を見つめ返している。子猫がさらに数歩近づいてきた。互いの距離が縮まる。茶色の猫は、この幼い命が完全にこの図書館の中で育ったのだと確信した。
外の世界を知らない歩き方だ。警戒心はあるが、根本的な生存への恐怖が欠けている。雨の冷たさも、他の猫との流血の縄張り争いも、犬から逃げ惑う夜も知らない。ここは安全で、静かで、時間が止まったような場所だ。
子猫はその箱庭の主だった。
鼻と鼻が触れ合う距離まで近づいた。子猫が恐る恐る、首を伸ばして茶色の猫の鼻先に自分の鼻を近づける。匂いの交換だ。子猫の小さな鼻腔に、外の世界の匂いが一気に流れ込んでいった。
それは強烈で、複雑な匂いだった。
太陽に焼かれたアスファルトの匂い。
乾いた土の匂い。
昨日降った雨の残り香。
魚の血の匂い。
そして、数え切れないほどの他の猫たちの気配。
小さな図書館しか知らない子猫にとって、それは広大すぎる世界の断片だった。圧倒されるような匂いの洪水に、子猫は思わず一歩後ずさった。
茶色の猫は、そんな子猫の反応を優しく受け止めた。
太い前足をゆっくりと持ち上げ、子猫の頭を軽く押さえる。乱暴な動きではなかった。それは親猫が子猫をたしなめる時の、愛情に満ちた動作である。子猫は一瞬驚いて身をよじったが、抗えない力強さにすぐに大人しくなった。
茶色の猫のざらざらとした大きな舌が、子猫の額を舐めた。
ジョリッ、ジョリッという音が静かな図書館に響く。
子猫は目を細めた。最初は戸惑っていたが、次第にその感触が心地よくなってきたらしい。自分では舐められない耳の裏や首筋を、念入りに毛繕いされる。それは子猫にとって、初めて経験する「同族からの愛情」だった。
これまで子猫は、何人かの人間と触れ合ってきた。
泥だらけの小さな手で撫でてくれた女の子。キャットフードをくれた小柄なおばあちゃん。膝の上に乗せてくれた若い女性。人間たちの手は温かく、優しかった。
しかし、猫の舌による毛繕いは、それらとは全く違う本能的な安心感をもたらす。太い喉から響く、低いゴロゴロという音。それは振動となって子猫の体に直接伝わってくる。子猫も自然と喉を鳴らし始めた。小さなゴロゴロという音が、大きな音と重なり合う。
二匹の猫は、古い本棚の陰でしばらくの間、体を寄せ合っていた。
茶色の猫は、子猫の体を丁寧に舐めながら周囲の匂いを嗅いでいる。人間たちの微かな匂い。そして、圧倒的な本の匂い。
彼は野良猫としての厳しい生活の中で、いくつもの死を見てきた。寒さに凍える子猫、車に轢かれた仲間、病気で動けなくなった老猫。外の世界は自由だが、常に死と隣り合わせだ。生き抜くためには、賢さと運と強さが必要だ。
それに比べて、ここはなんと守られた場所だろう。ご飯をくれる人間が定期的に訪れ、雨風は完全にしのげる。外敵が侵入してくることもない。この幼い灰白の猫は、この図書館という無菌室のような世界で、静かに生きていく運命なのだ。
茶色の猫は、それを少しだけ羨ましいと思うと同時に、外の世界の厳しさを知らないことを不憫にも思った。だが、猫の世界に正解はない。生き延びられる場所が、その猫にとっての楽園なのだ。
毛繕いが終わると、茶色の猫は立ち上がった。ブルブルと大きく体を震わせ、毛並みを整える。子猫も真似をして体を震わせたが、まだバランスがうまく取れずに少しよろけた。
立ち上がる前、茶色の猫はふと窓の方へ目を向けた。高い窓から差し込む午後の光。そこには、子猫のお気に入りである窓際の特等席がある。茶色の猫はゆっくりと歩き出し、古い木製の椅子の上に軽々と飛び乗った。
子猫も慌てて後を追う。短い足で一生懸命にジャンプし、なんとか椅子の座面に這い上がった。二匹は並んで窓の外を見た。外では秋の風が強く吹き、伸び放題の雑草が大きくうねっている。トンボが数匹、風に逆らうように飛んでいた。
茶色の猫の目は、はるか遠くの山の稜線を捉えていた。彼の縄張りはあの山の麓まで続いている。世界は広く、果てしない。
一方、子猫の目は、ガラスのすぐ向こうを飛ぶトンボを一生懸命に追っていた。子猫にとっての世界は、まだこの窓枠の枠内に収まっている。
見ている景色は同じでも、見えている世界は全く違う。
それでも、二匹の間に流れる時間は穏やかだった。
茶色の猫の巨大な体の横にピタリとくっついて座ると、子猫は信じられないほどの温かさを感じた。それはただの体温ではない。厳しい外の世界を生き抜いてきた生命力そのものの熱だった。
時折、茶色の猫の太い尻尾がパタンと動き、子猫の背中を軽く叩く。子猫はその度に目を細め、安心しきった顔で身を預けた。
どれくらいそうしていただろうか。
日が少し傾き、図書館の中の影が長くなり始めた頃。茶色の猫はようやく腰を上げた。これ以上長居すれば、自分の匂いがこの場所に染み付いてしまう。それは、この小さな猫の縄張りを侵すことになる。ボス猫としての矜持が、そろそろ潮時だと告げていた。
椅子から音もなく飛び降りる。子猫は椅子の端から身を乗り出し、下を見下ろした。茶色の猫は、琥珀色の瞳で子猫を見上げた。
「ここは、お前の縄張りだ」
言葉はない。しかし、威厳ある態度でそう伝えていた。彼は他者の縄張りを不必要に荒らすような野暮な猫ではない。子猫がここで安全に暮らしているのなら、それで十分だった。
彼は背を向けた。入り口の引き戸に向かって、ゆっくりと歩き出す。太い尻尾が悠然と揺れていた。
子猫はその後ろ姿を追いかけた。数歩ついていき、途中で立ち止まる。茶色の猫の歩幅は大きく、とても追いつけそうになかった。子猫はただ、その大きくて頼もしい背中を見送ることしかできない。
引き戸の隙間までたどり着くと、茶色の猫は一度だけ振り返った。薄暗い図書館の奥、本棚の陰に立つ小さな灰白の影。
彼は短く「ニャー」と鳴いた。
それは挨拶のようでもあり、別れのようでもあった。野太く、深い声だった。そして、彼は引き戸の隙間から外の世界へと滑り出ていった。
後には再び、古い紙の匂いと絶対的な静寂だけが残された。
子猫は引き戸の前に座り込み、しばらくの間、微かに残る太陽とアスファルトの匂いを嗅いでいた。自分の知らない広大な世界が、あの引き戸の向こうに広がっている。その事実を、子猫は茶色い毛皮の感触とともに深く心に刻み込んだ。
丁寧に毛繕いされた額は、まだ少しだけ湿っていた。
訪問者も猫。
ボス猫っていいですよね。
某名前がたくさんある白トラさんは、小さいころから好いております(トラ猫なので最近だと茶色のようですが、当時の絵本のイメージから未だに茶トラよりは白トラ、小柄なホワイトタイガーのイメージ)。




